やさしいね
言葉というものが過ぎれば呪いの一種であるということは、呪術に携わる者にとっては常識であるが、そこまで過ぎないとしても、何度も何度も同じことを言われ続けているとその言葉を意識してしまうということは往々にしてよくあることだ。

「ありがとう、五条くん優しいね」

少し困ったような顔で笑う目の前の少女の名前はミョウジナマエ。五条と同じ東京高専に所属する学生である。といっても彼女は補助監督志望だから、他の二人の同期に比べると過ごす時間は少ないのだけれど。

「お前どんくさいんだからほっといたら怪我すんだろ」
「うん、そうだね。ごめん」

トゲトゲとした言葉をかけてみても全く気にする素振りはなくて、へにゃりと眉を下げて「気を付けるね」と笑うばかりだ。自分に対して媚びへつらって忖度をされるようなことはよくあるが、彼女はこんな態度を取るからといってすり寄るようなことはしてこない。だからなんでこんなに顔をするのか理解が出来なかった。


ナマエとの関りと言えば、寮生活と共通の座学の時間くらいのものである。同性の家入はもっと関わる瞬間は多いのだろうけれど、普段夏油とつるむことの多い五条にとってはそれくらいのものだった。

「なぁ傑、俺って優しいらしいんだけど」

夜、とくに何をするでもなく夏油の部屋でダラダラと過ごしているとき、気まぐれでそう尋ねてみると、夏油はあんぐりと口を開けた。手にしていた漫画雑誌をぱたんと閉じ、五条の額にサッと自分の手を当てて熱を測りだす。じろっと見れば「熱があるわけじゃないのか」と失礼なことを言ってから手を放した。

「なにすんだ」
「いや、意味不明なこと言い出したから熱でもあるのかと思って」
「意味不明ってなんだよ」
「だってそうだろ。悟が優しいなら全人類の殆どが優しくなっちゃうだろ」

ごく真面目なトーンで言われるから説得力が増して聞こえる。五条が分かりやすくムスッと拗ねたものだから、夏油は咳ばらいをして気を取り直すように五条に向き合った。

「で、なんでそんなこと急に言い出したんだい」
「…優しいって、なんかやたら言われるから」
「悟が?」

あからさまに信じられないという顔をされ、もう一回拗ねてやろうかと視線を返す。夏油が「ちなみに誰から?」と話を続け、拗ねるのも出来なくなって次の言葉を探した。

「…なんか…その、女子から…」

なんとなくナマエを名指しで言うのは憚られてしまったというか、どうにも言う気になれなくて濁す。夏油は少し訝しむような視線を投げた。

「まぁ、悟がいわゆる一般的な意味で優しいってことはないとして、それでも相手は優しいって感じたからそう言ってるってことか」
「別に優しくした覚えねぇんだけど」
「だから、悟にとっては普通でも受け取り手には優しく見えたってことだよ」

言っている意味は理解したが、なんなら少しトゲトゲとした言葉をかけた自覚さえあるのだ。一体どこをどうとってナマエはそう思ったんだろう。それが飲み込めなくてもどかしい。

「うーん、普通に考えたらその子がすごくお人よしとか、それか悟に気があるからとか、なんかそういう気がするけど」
「でも、その気があんならフツーそういう態度取るだろ?そういう感じじゃねぇんだよな」

ナマエのことを思い浮かべる。容姿とか立場とか、そういうものに釣られた女が自分に言い寄ってくることは昔からよくあることで、五条にとっては日常だった。だからそういう気がある女の気配とか視線にはそれなりに敏感な自負がある。けれどナマエからはそういうものをまったく感じないから不思議なのだ。

「悟、その子のことが気になるんだ」
「…べつに、そんなんじゃねぇし」

こちらを見透かすように夏油に言われ、居心地が悪くなって視線をそらした。そんなつもりじゃない。ただ自分の中で飲み込めないことがあるのが、なんだか解せないというだけである。


その日は珍しく夏油と別の任務に出ていた。自分の方が先に高専に帰ってきたようで、暇を持て余して敷地の中をぶらついていた。今日は風が強い。びゅうっと吹いた冷たい冬の風に乗って、目の前になにか紙切れのようなものが飛んできたから、頭上に舞い上がる前に掴みとる。

「…なんだこれ。呪霊の特徴?」

何かと思えば、へたくそなデフォルメの絵と恐らくその補足説明だろう文字が丁寧に書かれていた。随分綺麗な字だ。書いている内容はかなり基礎的なものばかりだけれど、すごく読みやすくまとめられている。

「あっ、五条くん!」

声をかけられて顔を上げると、ナマエが数枚の紙を抱えてこちらに走ってきていた。恐らくこの紙はあの紙束仲間だろう。

「あ、あの、その紙…」
「風で飛んできたんだけど」
「拾ってくれたんだ。ごめんね、それ私ので…」

やっぱり正解だ。じゃあこのへたくそなデフォルメの絵と綺麗な文字は彼女が書いたものなのだろう。綺麗な字は生真面目そうな彼女のイメージ通りだけれど、へたくそなデフォルメの絵のほうはかなり意外だ。

「お前、絵心ねぇのな」
「み、見た…?あの、その、絵があったほうが復習するときに良いと思ったんだけど…上手く描けなくて…」

ナマエが紙を受け取って、恥ずかしそうに視線を泳がせる。なんだかそれにきゅっと心臓のあたりを惹き付けられるような感覚を覚えた。そろそろと白い指で紙束の角を整えるようにする彼女のつむじを見下ろす。

「ま、まだ今までの事例とか覚えきれてなくて…えっと、現場で臨機応変に対応するのが鉄則ってわかってるんだけど…自信なくて勉強してるところなの」

ナマエは少し言い訳めいた言葉の速度で言った。彼女は非術師の家系出身だ。入学前に術師を志そうとしたこともあったらしいが、結局呪力量だとか元々の運動神経だとかで著しく適性がないだろうという結論に至り、補助監督志望として入学したらしい。

「ま、いいんじゃねぇの。弱っちかったら努力するしかねぇし」

五条の口をついたのはそんな言葉だった。弱い奴に付き合うのは御免だとは常々思っているけれど、彼女を目の前にして努力するその姿勢までを否定することは憚られた。弱い奴は弱い奴なりの生き方をするしかない。彼女は弱い奴として最善の生き方をしようとしている。

「ありがとう、五条くん優しいね」

ナマエがふっと顔を上げた。眉を下げたいつもの少し頼りないような笑い方で、どうにもそれがきらきらささやかに輝いているように見えた。


それからというもの、ナマエのことをいつの間にか目で追ってしまうような機会が増えた。共通の座学では夏油と無駄話をしながらも視線でナマエがいまどんな顔をしているのか確認してしまって、聞こえているだろうくだらない話にこっそりと笑っていることを知った。中庭で夏油と体術の自主練習のようなものをしているときも、補助監督の実習から帰ってきただろうナマエのことを視界の端で確認したし、食堂でナマエが家入と一緒に食事をしているときも今日は一体何を食べているんだろうと密かに確認していた。

「悟、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」

いや、全く何の話か聞いちゃいない。視線どころか最近は意識までナマエの方に持っていかれていると思う。食堂で夏油と夕食をとっている間、いつも通りの他愛もない話をしながらも視線と意識はしっかりナマエに向いていた。今日は家入に何か用でもあったのか、食事を始めたときは二人だったのが、途中でナマエのみが残されているようだ。

「じゃあ私が何の話してたかわかるかい?」
「あー、えーっと、アレだろ、今度どのゲームやるかっていう話」
「全く違うんだけど。来週の予定のことだよ」

夏油が呆れたようにため息をついた。残されているのが家入だったら「硝子ひとりなの?」とでも言って合流できただろう。ナマエとはどうにもその距離感にない。夏油ならひとりでいる彼女に気遣って声をかけられるのかもしれないが、あいにくと五条は夏油越しにナマエを見ているから、当然彼にはナマエがひとりでいるところが見えていない。

「で、来週が何?」
「悟が欲しいって言ってたスニーカーの発売日だから、時間あるならショップに行こうって話」
「日曜は家に呼び出されてるけど土曜なら行ける」
「そう。じゃあ土曜に緊急で呼び出しがないことを祈ろうか」

来週末の予定を決めながらナマエを盗み見る。するとちょうど食事が終わったところのようで、トレイに乗った食器類をカウンターの返却スペースに持っていくところだった。一度席に戻ってくるのかと思ったけれどそのまま出ていこうとして、ナマエが座っていたテーブルの上にケータイが置き忘れられていることに気が付いた。五条はガタンと立ち上がり、置き忘れられていたケータイを取ると、食堂を出ていこうとするナマエを呼び止める。

「ナマエ」
「ん?五条くん?」
「ケータイ。忘れてんぞ」
「え?あっ、本当だ!ごめんね、ありがとう」

いつも通りナマエはごめんねとありがとうを口にして「五条くん優しいね」と言って笑った。胸のあたりがムズムズする。五条はケータイを手渡しながら、カリカリと後頭部を掻いた。

「…あのさ、来週の土曜予定ある?」
「え?特にないけど…」
「傑と渋谷いくんだけど。硝子も誘おうと思って。ナマエも来るか?」

全く予定にないことを口走っていて自分でも内心驚いていた。今までこんなふうに遊びに誘ったことは一度もないから、ナマエも当然驚いて目を丸くした。

「わ、私も行っていいの?」
「ダメなら声かけねぇっつーの」
「ふふ、そっか。ありがと。私も一緒に行きたいな」

了承の返事があったことに無意識のうちに口角が上がった。それから「時間はまた連絡すっから」とか何とか言ってナマエを見送り、何が起きたのか分かりませんという顔を隠しもしない夏油のもとに戻る。

「土曜日、ナマエも誘った」
「え、それは構わないけど…悟、ナマエさんと仲良かったっけ」
「フツー」

まだ、今は。言葉の続きを秘めながら、湯呑に残った緑茶を誤魔化しの代わりにごくんと飲み込んだ。


約束の土曜日、夏油と家入を校門の近くで待たせ、五条はナマエを寮まで迎えに行っていた。時間に遅れているというわけではないのだからそのまま待っていれば良かったのだけれど、どうにももどかしくて「俺行ってくるわ」と頭の上にはてなマークを飛ばす二人を置いてここまで来たのだ。

「あっ、五条くん!あれ、ごめん、もう時間…?」
「いや、まだだけど」

ちょうどナマエは玄関まで出てきているところで、普段履いていないヒールのあるパンプスに足を滑り込ませていた。そんなにヒールの高さがあるというわけではないのだけれど、普段はスニーカーかぺたんこの履きやすさ重視の靴を履いているから新鮮だった。
ナマエが慌てて立ち上がるから、嫌な予感がして咄嗟にそばに寄る。案の定ナマエは引き戸のレールに躓いて、ぐらっと身体が傾いた。

「あっぶね。大丈夫かよ」
「ご、ごめん、五条くんありがとう…」

転んでしまう寸でのところでナマエを抱きとめて立たせてやると、恥ずかしそうに横髪をなでなでと整える。それから「五条くん、優しいね」といつもの言葉が続けられた。ムズムズするこの気持ちを持て余して、行くぞ、とだけ素っ気なく言うと踵を返す。校門で待っている夏油と家入と合流して、なんとなく女子二人が前を歩き、その数メートル後ろを夏油と並んで歩いた。

「…傑、やっぱ俺優しいのかもしんねぇわ」
「ああ、なるほど。悟のこと優しいって言ってるのが誰か、私もようやくわかったよ」

夏油が隣でくすくす空気を揺らす。前方の女子二人は何やら楽しそうに話に花を咲かせていた。何のヒントも与えたつもりはないのにどこで分かってしまったんだと一抹の苦さのようなものを感じていると、そんなことはお構いなしの夏油が「……悟、知ってるかい?」と今度は意味深に笑った。

「誰だって、好きな子には優しくなっちゃうもんなんだよ」

はぁ?と聞き返すような言葉を出そうとすれば、それより先に家入の声が「おい男共、遅いぞ」と割り込んできて、結局夏油に何の抗議も出来ないままになってしまった。その隣でナマエがにこにこと笑っている。別にそんなんじゃねぇし、と、誰に聞こえるわけでもないのに心の中で言い訳をした。

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