虎視眈々
私の会社にはとってもスマートな先輩社員がいる。名前は七海建人さん。確か五つぐらい年上。企画部に所属している社員で、遠目から見てもわかるくらい長身でスタイルがいい。足とかめちゃくちゃ長くて吃驚しちゃう。
私はというと別フロアにある管理部の社員で、主に総務関係の社内の事務作業がメインの業務だった。

「ミョウジさん、おはようございます」
「おはようございます」

エレベーターホールで会えると今日はラッキー。書類のやりとりなんかで企画部に足を運ぶこともなくはないけれど、同じ部署でもなければフロアも違うのだから、会える機会は中々少ない。
私はせっかくなのだから何とか会話をしないとと話題を探して、それより先に七海さんが口を開いた。

「この間教えていただいたレシピ、すごく美味しかったです」
「このあいだ…あ、キャベツのですか?」
「ええ。酒が進んでしまうので、週末にしか作れないのが難点ですけど」

先日こうしてばったり出くわした際に簡単なレシピを教え、それを実践してくれたらしい。七海さんはあまり生活感がないように見えるけれど、家事全般が趣味だというのだからこれはとんだ偏見である。

「勝手にアレンジを加えてみたんですが、山椒をいれるとまた雰囲気が変わって良かったですよ」
「えっ、そうなんですね。私も今度作るときに入れてみます」

内心かなりどくどくと心臓が鳴るのを感じつつ、エレベーターが到着して私は七海さんとそれに乗り込む。後ろから三人ほど他のフロアの社員達も乗り込んで、そこから七海さんが企画部のフロアで降りてしまうまでは無言だった。


打ち明けてしまうと、私は七海さんに憧れていた。仕事が出来ると他部署にも広まるくらい優秀で、言動も行動も紳士で、スタイルもいいしセンスもいい。七海さんがモテないんなら誰がモテるんだ、というくらいのひとで、社内でも密かに、または大っぴらに七海さんを慕っている女性社員は多い。
私はというとその一員になりたいとは思いつつも、畏れ多くて一員を自負することは出来なかった。

「ミョウジさん、営業部に出張費申請の不備の件、書類差し戻してきてもらっていい?」
「あ、はい。わかりました」

総務関係、と銘打っているけれど、管理部は人事、経理、総務の三部署の集まりで、下っ端の私はお遣いがあればどこにでもは馳せ参じる。私は係長から受け取ってクリアファイルを手に、営業部のあるひとつ下のフロアを目指した。
営業部と企画部は同じフロアにある。ひょっとして七海さんに会えたらどうしよう。なんてちょっと浮ついたことを考えながら、私は階段を使ってひとつ分階下へ移動した。

「すみません、管理部ですが、営業部の虎杖さんおみえですか?」

出入り口のところに立ち、中に向かって声をかける。営業部の虎杖さんというのがこの書類の主だ。書類の不備は些細なところだけど、経費で清算する以上きっちり修正してもらわなければ支払えない。

「虎杖さーん!管理部のひと来てますよー!」

一番出入り口に近い社員さんが中に向かって声をかけてくれて、そのあとに奥から一人顔を出した。少しピンクみがかった髪の特徴的な彼が虎杖さんである。前にもちょっとした書類のやりとりで顔を見たことがあって、あんまりのコミュ力の高さにばっちり顔を覚えている。

「あ、ミョウジさん!」
「お疲れ様です」

ぺこりと頭を下げた。まさか彼も私の名前を覚えているとは思わなかった。先日の一件きりで関りもないし、何なら顔を見ることもない。フロアと部署が違えばそんなものだ。
私は手にしていたクリアファイルを虎杖さんに差し出し、それを見て虎杖さんは「うわ、また俺間違えてました?」と私が足を運んだ意味をすぐに理解したようだった。

「今週中で構わないので、付箋のところの修正お願いします」
「了解っす。すんません、わざわざ営業のフロアまで来てもらって」
「いえ全然。こちらこそ毎回細かいことですみません」

恐縮する虎杖さんに私はパタパタと両手を振った。どちらが偉いとかそういう問題ではないけれど、営業部の人は外回りやなんかで毎日中々の時間まで残業をしている。それに比べればひとつ下のフロアに来ることくらいどうってことない。
私は虎杖さんにぺこりと頭を下げ、さりげなさを装ってフロアのなかに七海さんの姿を探した。七海さんは自分のデスクのところで同僚とパソコンを覗き込んでいて、当然目が合うことはなかった。


今日は朝からエレベーターで七海さんに会えたし、それに虎杖さんに書類を持って行った時もちょこっとだけ顔を見ることが出来た。なんだかツイてるなぁと思いながら、昼休みに社員食堂で昼食をとる。
うちの社員食堂はお値段のわりにボリュームも多いし、なにより美味しい。私は外にわざわざ食べに行くのが億劫なので、もっぱら社員食堂にお世話になっていた。

「すみません、ここ、相席いいですか」
「はい、どうぞ……って、あれ、七海さん?」
「お疲れ様です」

手を合わせて、さあいただこう、というタイミングで声をかけられ、顔を上げると相席を持ちかけてきたのは七海さんだった。トレイにはカツカレーセットが乗っている。七海さんってカツカレーとか食べるんだ。というか、社食に来るんだ。あんまりイメージがなかったからびっくりした。

「七海さん、カツカレーですか」
「ええ。虎杖くんに勧められて」

いただきます、と七海さんが手を合わせ、スプーンを手にカレーと白米を適量掬い上げて口に運ぶ。想像よりも一口が大きい。私が虎杖くんというのが営業部の彼なのかを尋ねると、そのまま肯定する返事があった。

「七海さん、虎杖さんと仲いいんですか?」
「ええ。美味しいお店の情報を共有する程度には」

意外だ。七海さんって当然虎杖くんとは年も離れているし、部署も違うし、そもそもどっちかいえば物静かなひとと付き合っていそうなタイプのように見えるのに。まぁでもそんなことも虎杖くんのコミュニケーション能力の前では些末なことなのかもしれない。

「午前中、虎杖くんと話してましたよね」
「え?あ、はい。出張費の関係の書類持って行ったんです」

まさか七海さんが見ていたとは思わなかった。目も合わなかったし、同じフロアとはいえ私が訪問したのは営業部だ。管理部と違って外線が鳴りやまない部署だし、人の話し声やらFAXの動作音やらでなにかと騒がしい。そんな中で気付かれていたと思うと少し恥ずかしかった。

「虎杖くんと仲いいんですか」
「いえ、全然。今日話したのが二回目ですね。ふふ、でも虎杖さんコミュニケーション能力高いから、なんか二回目って感じはしませんでたけど」

もう本当にびっくりする。何なら学生時代の後輩だったと言われても納得してしまうかもしれない人懐っこさがある。私が冗談めかしてそう言えば、七海さんは「そうですか」と言って今度はカツを一切れくちに運んだ。

「まさか社食で七海さんに会うと思いませんでした」

頭の中で考えていたことがそのまま口に出てしまった。七海さんはスプーンでカレーを掬い、また大きな口に運ぶ。

「変ですか?」
「や、そういうことじゃなくてその、七海さんってお洒落なカフェとか行ってるイメージだったので、意外だなぁと思っただけというか…」

ごにょごにょごにょと言い訳をする。気を悪くさせてしまっていたのなら申し訳ない。本当に他意はなくて、スマートでかっこいい七海さんが社員食堂でカツカレーを食べるなんて真逆な光景に驚いただけなのだ。

「ミョウジさんが、いつも昼は社食だと聞きまして」
「え?あ、はい……」
「それで社食なら何が一番おすすめなのか、虎杖くんに教えてもらったんです」

文脈が読み取れずに、頭の上にはてなマークを飛ばしながら七海さんを見上げた。七海さんは涼し気な顔でカツカレーを咀嚼している。待って、そんなのまるで、私がいるからわざわざ社食に来たみたいな言い方。

「ミョウジさん、ワイン飲めますか?」
「はい、人並みには……」
「おすすめのワインバーがあるんです。今度どうですか」

じ、と、七海さんの青緑色っぽい瞳が私を見つめる。気が付いたら私は頷いてしまっていて、七海さんが「連絡先交換しませんか」とスマホを取り出していた。私もポケットから自分のスマホを取り出して、あれよあれよというまにメッセージアプリに七海さんが追加されている。

「明後日の金曜日、いかがですか」
「だ、大丈夫です!あの、空いてます…!」
「それは良かった」

私は必要以上の勢いで七海さんにそう言って、すると七海さんがふんわりと口元を緩める。今まで見たことのなかったような表情にどきんと心臓が脈打つのを感じる。「午後からスケジュール詰まってるので、お先に失礼します」と言って彼が立ち上がり、どうやら私が驚いている間にカツカレーを平らげてしまっていたらしい。
時計を確認すれば昼休みは残り15分。私も早くA定食を食べてしまわなければ。


七海さんと連絡先を交換したなんて、夢だったんじゃないだろうか。帰宅して10回以上スマホのメッセージアプリの「友だち」の欄を確認した。そこにはしっかり七海建人と名前が出ていて、決して夢なんかじゃなかったんだとベッドの上でジタバタ足をバタつかせる。

「そうだ、何着ていこう……」

はたと我に返る。金曜日なのだからどっちみちオフィスカジュアルの系統で纏めるしかないけれど、それにしたっていつものパターン化している服装は嫌だ。とはいえ買いに行けるような時間もない。そういえば、と、去年ちょっと頑張って買ったはいいが勿体なくて着ていないジャケットがあることを思い出した。そうだ、あれを着ていこう。

「はぁ……緊張する……」

ぽふん。と枕に顔を埋める。ピロリン、と間の抜けた音がメッセージを通知して私は飛びつくようにして慌ててディスプレイを確認する。残念ながら想像したような七海さんのメッセージじゃなくてコスメブランドの公式からで、浮かれ過ぎな自分自身にハァァとため息をついた。


どうにか迎えた金曜日の終業時間。私はエントランスホールを抜けたところで七海さんの到着を待った。ここに来る前にお手洗いに寄って化粧を直して髪型を直して、と身だしなみは整えたつもりだけれど、いくら確認したって気になってしまうものは仕方がない。
5分も立たないうちに七海さんから「切り上げたので今から向かいます」とメッセージが入って、私はそれに了解の旨を返信する。ニヤニヤ画面を眺めていたら背中から声がかけられた。

「あれ、ミョウジさん?」
「あ、虎杖さん。お疲れ様です」

声の主は虎杖さんだった。すっかり帰り支度をしているようだから営業先から帰社したというわけではなく、もうこのまま帰宅するところのようだ。営業なのに珍しい。

「ミョウジさん誰かと待ち合わせっすか?」
「はい。虎杖さんはもう帰るところですか?」
「うす。今日は久々に定時で上がらせてもらって、ダチの披露宴の余興の練習しにいくんスよ」

流行りのダンスの決めポーズをバシっと取ってみせて、私は感心してパチパチ手を叩く。虎杖さんは運動神経も良さそうだし、ダンスとか上手そうだなぁ。

「ミョウジさんお待たせしまし──虎杖くん?」
「あっ!ナナミン!!」

七海さんの声が途中で途切れ、どうしてここにと言わんばかりに虎杖さんの名前を呼ぶ。名前を呼ばれた虎杖さんは七海さんに向かってブンブンと手を振った。ちょっとまって、今「ナナミン」って呼ばなかった?

「フーっ…会社ではやめてください、その呼び方」
「あっ、ごめん。俺つい癖で」

七海さんが盛大にため息をついて、それから私に視線を向ける。お疲れ様です、といってぺこりと会釈をすると、虎杖さんが私と七海さんを交互に見た。

「えっ、もしかしてミョウジさんの待ち合わせ相手ってナナミン!?」
「ええ」

虎杖さんはぽかんとした顔になったあと、にまにまと言わんばかりの笑みを口元に浮かべる。

「そういうことですので虎杖くん」
「うっす!了解っす!!」
「よろしい」

何が「そういうこと」なのかは一切わからないけれど七海さんと虎杖さんが頷きあい、虎杖さんは最後私にサムズアップしてからすたこらさっさと最寄り駅までの道を走って行く。速。もう背中見えないんだけど。

「すみません、お待たせしました」
「いえ、お疲れ様です」

気を取り直してぺこりとお互い小さく頭を下げ、七海さんのエスコートで歩き出す。もっと緊張しちゃうかと思ったけど、虎杖さんとの思わぬ遭遇のせいか想像よりも自然体で接することが出来た。

「七海さん、結構仕事終わりとか飲みに行くんですか?」

ちょっと意地の悪いような質問が口をついた。欲しい答えがあるくせに、と自分に呆れる。
今日はどうして誘ってくれたんだろう。なんで一昨日普段は足を運ばない社員食堂に来たんだろう。別の部署でフロアも違って、なのにどうして、名前を覚えて話しかけてくれるんだろう。思い通りの答えが返ってきてほしいと期待してしまう。

「普段は家で飲むことが多いんですが、今日はどうしてもミョウジさんを誘いたかったんです」

隣の七海さんが私を見下ろした。街灯の安っぽい光でも七海さんの瞳は特別なもののように輝く。時間が止まったようにさえ感じて、だけどそんなはずはなくて、七海さんの左手がスローモーションで動き、私の右手を軽々と攫って行く。頭上の七海さんが少しだけ口角を上げた。

「そのワインバー、私のお気に入りなので」

七海さんに引かれる手は熱くてどうしようもなくて、期待がどんどん膨れ上がる。こんな状況で期待してはいけませんなんて、どうにも無理な相談だ。

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