君を果てで呼ぶ
厄介な生徒、というのが彼女に対するもっとも的を射た表現である、と日下部は自負していた。
現地で危険度の高い面倒な任務を受けずに済むのではないか、という打算のもと教師の道を選んだが、任務が全くなくなるわけではないと教師になってから知った。日下部は一級術師であるため、緊急性の高い任務に突発で呼ばれることもままある。その上癖のある生意気な生徒たちの相手までしなければならないのだから、これなら教師になんぞならずに一級術師に身をやつしていた方がマシだったのではないか、と思うも、時すでに遅しだ。

「ねぇーえー日下部ぇー」
「先生をつけろ、先生を」
「先生って呼んで欲しいならもっと先生らしくしなよ」

ミョウジナマエ。目下日下部を困らせている筆頭である。なんでも随分ないわく付きで、未来予知の術式を持っていた。そのため上層部も扱いが慎重になっていて、他の学生とはまた違う気の使い方をしなければいけなかった。とはいっても彼女自身は概ねごく普通の学生であり、わがままと言っても子供のそれの領域を出ない。

「飴ちゃんちょーだい」
「自分のカネで買え。給料出てんだろ」
「なによ、ケチ」

つん、と唇を尖らせる様子はその辺にいる同じくらいの年の少女と変わらない。それなのにどうしてだか、人の視線を惹きつけるような色気があるような気がした。いや、たかだか17歳の少女に色気だなんてどうかしている。

「…オレンジとりんご」
「え?」

日下部はごそごそとポケットに手を突っ込み、棒付きキャンディーを二つ取り出してみせる。ナマエは大きな目をパチパチ瞬かせ、それからにんまりと唇で弧を描く。

「グレープが良い!」
「駄目だ」
「なんでよ、日下部いつもグレープ味持ち歩いてるじゃん!絶対グレープ!」
「俺のお気に入りだから駄目だっつってんだよ」

えええ、ケチぃ。と恵んでもらう立場のくせにそうのたまって、それから仕方なくといったふうにオレンジ味を日下部の手から取り去っていった。ぺりぺりと包みを開け、さっそくぱくりと口に含む。「美味しい」とまるで初めて飴玉を舐める子供みたいな顔をして、だからそんな我が儘もいつも許してしまっていた。


どうして自分を慕うのかはわからないが、とにかくナマエは日下部を慕っていた。初めは我が儘な子供だとしか認識していなかったけれど、甘えるような我が儘をこれだけ繰り返されればその向こう側に何があるかなんてわからないはずがなかった。

「ねぇ日下部ぇ―、さむいー」
「んなスカート短くしてるからだろ」
「だって短い方が可愛いじゃん。てか日下部私のスカート短いのそんなに見てんの?えっち!」
「ガキの太ももに興味なんぞあるわけないだろ。十年経ってから出直してこい」

えええ。とお決まりの声で抗議をする。同期のいないナマエの任務の同行をすることはそこそこ多い。術式は個人のごくパーソナルな問題であるため開示は義務付けられていないが、ナマエの術式はこうして過ごすうちに彼女のほうからある程度明かしてきた。

「今日の、やっぱり予知通り一級だったね」
「ああ。お前一人だったら死んでたな」
「ふふ。日下部が一緒にいて良かった」

へらり、とナマエが笑った。彼女の術式は未来予知。正確に言うと、呪力の動きを予知することが出来る。あくまで呪力の動きを予知する能力であるため、未来であれば何でも予知できるというわけではなく、呪霊や呪詛師の動き、呪力の作用する物事のみに限られる。
簡単に言えば地震や落雷などは予知できないが、呪霊の発生や呪詛師がらみの事件であれば予知が出来るという具合だ。

「結局さー、先なんか見えてもなんも役に立たないよねー」
「あ?」

ナマエが自分の手のひらにはぁと息を吹きかけて寒さを誤魔化す。見下ろすと鼻の頭が赤くなっていて、唇は少し色が悪いように見える。

「だって、見えるだけで助けられないじゃん。実際現場で呪い祓うのは他の呪術師で、私なんか弱っちいから現場でなんも出来ないし」

ナマエの等級は三級。呪力はそこそこの量があるようだが、非術師の家系出身ということもあって圧倒的に経験とセンスが足りていない。成長して二級が良いところで、その先は厳しいだろうということが透けて見えていた。
日下部は珍しくネガティブなことを言うナマエにどうしたものかと思いながらぽりぽりと後頭部を掻き、それからぽつりと口を開く。

「……お前の予知があるから間に合って助かる命があるんだろ」

ナマエがぱっと目を見開く。にんまりいつもみたいに笑うかと思ったのに、ほっと安心したように顔を綻ばせるだけだった。鼻も耳も真っ赤になっていて、色が白いからそこだけじんわり浮かび上がってくるみたいだった。

「日下部、コート貸して」
「……はぁ、仕方ねぇな…」

ついさっき慰めた手前無下にすることも出来ずに、日下部はコートを脱ぐとナマエの肩にかけてやった。すんすんと襟元のにおいを嗅いで「うわ、日下部のにおいするね」と生意気なことを言って、それからへらりと笑った。生意気な方が丁度いい。ナマエの悲しそうな顔も、安心したような笑顔も、どこか心をざわつかせる。

「俺が風邪ひいたらどうしてくれんだよ」
「ふふ、その時は私が看病してあげる」

ナマエの看病なんてとんでもない。彼女の料理の限界値はカップラーメンであることを日下部は身をもって知っている。


ナマエは日下部を尋ねては小さな我が儘をねだった。飴ちゃんちょうだい。コート貸して。ジュース買って。アイス食べたい。取るに足らない我が儘ばかりで、日下部はそれをいつも面倒そうな顔を見せながら叶えてやった。
その日もコンビニに行こうとしているところを捉まり、あったかいココアを買って、と言って一緒についてきた。

「ねぇ日下部、手触らせて」
「は?」
「手繋いでって言ってるの!」

コンビニからの帰り道、ナマエがそんなことを言い出した。食べ物を強請られたり持ち物を貸してくれと言われたことは何度もあったけれど、こんなことを言われるのは初めてだった。訝しみながらも「手を繋ぐくらい」と日下部は差し出された手に自分の手を重ねる。

「んもう!そうじゃなくて、こう!」

ナマエは繋ぎ方に不満があったようで、すぐさま一度手を離し、指を絡めるようにして繋ぎなおす。いわゆる恋人繋ぎと言うやつだ。普通の高校であれば日下部は今頃懲戒処分だろうが、ここは呪術高専である。見られたところで男性教師と女子学生が手を繋いでいることを咎められるようなこともないだろう。

「へへ…日下部の手、あったかいね」
「ま、男だからな」

ナマエはぶんぶんと嬉しそうに繋いだ手を振った。色気があると思いきや、こうして子供っぽい顔を見せることも多い。その差にどこかくらくらさせられる。いや、17歳の子供相手に何を言ってるんだ。

「……そういえば日下部って私の名前知ってるの?」
「あ?」
「知ってるなら言ってみてよ、正解か確認してあげるから」

ナマエが日下部の顔を覗き込む。大きな目がジッと日下部を見つめた。それがどうにも熱っぽいもののような気がして、飲まれてなるものかと視線を逸らした。「ねぇ」と急かすものだから苦し紛れに「ミョウジ」と名字を呼び、するとナマエは「そうじゃなくって!」と反論する。

「……ほんとはね、グレープじゃなくても良かったの」

気恥ずかしさだか気まずさだかで口ごもる日下部を置き去りに、ナマエがそう続けた。一体何の話だ、と思って、すぐに棒付きキャンディーの話をしているのだと気が付いた。ナマエがぎゅっと手に力をこめる。

「オレンジでも、りんごでも、何でもよかった」

それから日下部の手をちから一杯引いて、そんな行動を予想もしていなかった日下部は思わずよろけて足を止める。そしてナマエが日下部の胸に飛び込むようにして抱きつき、呆気に取られている間にナマエは日下部の胸から顔を上げた。

「じゃあね、篤也」

へらりと笑い、日下部のことを解放するとそのまま高専までの道を駆け上がっていく。彼女の気持ちは知っているつもりだが、それにしても急に一体何のつもりだ。篤也、と不意打ちで呼ばれた名前に、内心年甲斐もなく胸の内が落ち着きをなくしていた。
それから高専に戻ったときにはナマエの姿がどこにもなかった。結局日下部は夜通しの任務が入っていたからすぐに出て行くことになった。
ナマエが戻ってきたら何のつもりか問い詰めてやろう。そのついでにキスでもしてしまって、抱きしめて好きだと言ってしまおうか。余裕綽々で小生意気な彼女が狼狽えるところを見るのはなかなか悪くないかもしれない。そう構えていたのに、その日ナマエが戻ってくることはなかった。


翌日、家入と補助監督のひとりが日下部のデスクを尋ねた。補助監督だけならまだしも、家入も一緒とは何の用だろうか。普段から激務のために顔色の悪い家入であるが、今日は殊更隈がひどい。

「おう、どうしたよ、朝っぱらから」

日下部がいつもの調子で声をかければ、後ろに控えていた補助監督がぎゅっと唇を噛むのが見える。家入の仕事は大きく二種類に分けられる。反転術式による治療と、死亡した呪術師や被呪者、呪肉体等の検死解剖だ。その家入が真っ直ぐに自分を訪ねてくるなんて。ぞっと背中に冷たい汗が伝った。

「日下部さん、ミョウジが今朝遺体で見つかりました」
「は……?」

つららが脳天から脊髄までを貫いたような感覚だった。真っ直ぐで、痛くて、ひどく冷たい。言葉の意味は理解しているはずなのに、何一つ読み込めない。家入はナマエの発見当時の様子をそのまま説明していく。発見したのは五条だったそうだ。

「ミョウジの術式は非常に強力で珍しいものは日下部さんもご存知のことと思いますが、その縛りが何なのかを、最近になって五条の六眼で捉えたとのことでした。それでその縛りの絡みかとあたりをつけて発見したそうです」

ナマエの術式は、非常に稀有で未来予知という強力な術式だ。しかも非術師の家系にしか発現の例がなく、前例が圧倒的に不足していてわからないところだらけなのだ。
縛りによる効果の底上げ、というのは呪術における基本である。彼女の強力な術式になにか不利益や縛りがあるのではないかと、考えたことがないわけではなかった。

「五条によれば、発現後一定期間で術師本人の命を奪うものだということです。ミョウジの場合は発現が平均よりかなり遅く17歳まで生き延びましたが…大抵はもっと幼いうちに期限がきて死に至る。そのため前例が残りにくいという側面もあるのかと予測されています」
「そのことを、ミョウジ本人は」
「恐らく知っていたかと。死に際を見せたくなかったと考えれば、突如姿を消した理由も説明がつきます」
「は、猫かよ……」

突きつけられる現実に何ひとつ思考がついていかない。日下部は額に手を当てる。大きく息をついて、熱くなる目頭を誤魔化す。唇が震えて、がちがちと歯が音を立てる。

「上層部から解剖の命令が降りています。今日の18時から私が担当します」

家入が深々と頭を下げて出ていった。額に当てていた手に力を込める。くしゃりと自らの髪を乱し、そのままがしがしとかき混ぜた。


なんとか重い体を引き摺って解剖室に向かう。手術台の上の白く血の気の抜けた頬に手を伸ばした。冷たいはずだなんてわかっていたのに、手の甲に触れる肌の温度の冷たさに驚いた。今まで何人も遺体を見た。身内のものだって見たことがあるし、原型のない凄惨なものを目にしたこともある。けれど彼女のそれが、いままでで一番悲しかった。

「ナマエ」

名前を呼ぶ。暗く冷たい解剖室の中にぼんやりと日下部の声が響いた。彼女はもうにんまり笑うことも、日下部に我が儘をねだることもない。棒付きキャンディーはグレープ味が良いと言うことも、ココア一本のために寒い山道をついてくることも。

「ナマエ、お前なに俺以外の男に見つけてもらってんだよ」

どうして言ってくれなかったんだろうか。いや、自分がもしも彼女の立場でも同じことをすると思う。最後の瞬間まで普段通りの、ささやかな幸せの中で生きていたいと願う。だから周りの人間に悟らせることはしない。
それでも言って欲しかった。文献にさえ載っていない縛りなのだ。日下部には何も出来ないかもしれない。そばにいることで精一杯だろうと思う。それでも、ひとりで死なせたくなかった。

「お前の名前くらい、知ってるに決まってんだろ、ナマエ」

涙の落ちる音さえ聞こえてしまいそうな静寂の中、冷たい彼女は満足そうに微笑んだままだった。呼んだその名は、果てにまで届いているだろうか。

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