朝が来ても


※ストーカー被害の表現があります。ご注意ください。


玄関に入ってまずナマエは「ひゃく」と同居人の名前を呼ぶ。必要以上に明るくされたリビングからのそりと人が動く気配がして、同居人が姿を現した。尾形百之助。ナマエとは家が隣同士の幼馴染であり、現在はナマエが唯一と言っていいほど信じることの出来る人間だった。

「おう」
「ひゃく、ただいま」

眉を下げて笑う。この部屋の中だけが唯一安心の出来る場所だと、そう彼女を追い詰めたのは数ヶ月前のある事件だった。


尾形百之助という男は、ナマエにとって幼馴染のようなものであり、もはや家族と表現する方が正しいような間柄である。
対人関係を築くのが極端に苦手な尾形のそばで、ナマエはいつも通訳のような役回りだった。パーソナルスペースの特別広い尾形ではあるが、ナマエだけは例外だった。習字も塾もスイミングスクールも同じところに通ったし、中学、高校と一緒のところに進学した。もっとも、大学はナマエが女子大だったせいで別々になったが。

「ひゃーく、起きてー」
「ン……」
「もう、私出かけちゃうよ?」
「ンー………」

大学に進学したことをきっかけにナマエは一人暮らしを始めた。尾形は当然のようにそこへ転がり込んで、大学四年間は狭いワンルームで二人暮らしだった。社会人になって引っ越しをしてもどうせくっついてくるだろうとはわかっていたから、2DKの部屋を借りることにした。家賃の兼ね合いで都市部より結構離れてしまったが、二駅分各駅停車に乗れば快速の止まるハブ駅だし、都市部から離れているという立地上物価も多少安いからこれはこれで気に入っている。

「百、お昼ご飯置いとくからね?」

ナマエはベッドで丸まる尾形にそう声をかけると、慌ててマンションを飛び出して最寄り駅に向かった。フレックスタイム制の会社に勤める尾形と違って自分はしっかり定時がある。普段の電車を逃すわけにはいかない。


ナマエの仕事はこれと言って特筆すべき点のない事務職だった。母体は自動車製造の会社であるが、ナマエはその子会社で、しかも総務だから会社の中のことばかりをあれこれとさばいている。やりがいと言うほど大きなものはないが、そこそこ安定はしているし、対人関係も面倒なことは少ない。安定とは文字通りこのことだ。

「おはようございます」
「おはようミョウジさん」

総務部の同僚男性のハヤシは穏やかなタチだった。細かいことに気が付くし、他人のミスが発覚したときも冷静かつ的確に対処をする。頼りになる先輩だと常々思っていた。
パソコンを立ち上げると、まずメールをチェックする。そろそろ健康診断の時期だから、そのスケジュールの調整をしなければならない。内勤の事務は調整がしやすいけれど、外出の多い営業と開発はそうもいかない。社内の掲示板に返信必須の文言を入れて今年の健康診断のスケジュールに関する概要を記入した。

「ミョウジさん、次の飲み会行く?」
「来週末のですか?」
「そうそう」

来週末に営業部の飲み会が予定されていて、それに総務課も参加しないか、と誘いがかかっているのだ。ハヤシの仲の良い同期に営業部の人間がいて、そこから話が発展しているらしい。
頭の中に過ぎったのは尾形の存在である。夕飯をちゃんと作っておいてやらないと。放っておくとロクな食生活を送らないのは今までの経験上わかりきったことである。

「わかりました。大丈夫です」
「ほんと?良かった」

たまには会社の付き合いも大事にするべきだ。まぁ一日くらい夕飯を準備しておけば問題ないだろう。忘年会とか歓送迎会とかのときもそうしている。ほどなくして始業のチャイムが鳴り、ナマエは目の前の仕事に集中をしたのだった。


最近少しだけ気になることがあった。ハンドクリームとか薬用リップとか、そういうちょっとしたものがなくなるのだ。どこかに落としてしまっただろうか。落とし物や忘れ物が多い方だとは思っていないが、盗まれるという程のものでもない。

「あ、またリップないや」

帰宅して開口一番ナマエが言った。家までの帰路の途中、ぴりっとした痛みを唇に感じたから、家に帰ったらリップクリームで保湿をしておかなければと思っていたのだ。しかしポーチの中に入れているはずの薬用リップが見当たらない。さて、今日はどこへ落としてきてしまったのだろう。

「なんだ、この前も失くしたとか言ってなかったか?」
「あ、ただいま、百。そうなんだよねぇ。買ったばっかりだったんだけどなぁ」

奥から尾形が顔を覗かせる。彼の言う通り、二週間ほど前にも同じようにしてリップクリームを失くしたのだ。安物とはいえ、こうも頻繁に失くすとは自分の管理能力の低さに嫌気がさす。とはいえ鞄をひっくり返しても出てこないものは仕方がない。ナマエは大人しく洗面台に置いてあるリップクリームをぬりぬりと唇に乗せる。

「そうだ、私来週の金曜飲み会だからね」
「こんな時期に珍しいな。送迎会か?」
「ううん。営業部の部署飲みに総務も声かえられてるの。たまには行っとかないと角立つし」

ナマエがそう言うと尾形は少し訝しむような顔を見せる。ナマエが「ご飯作っていくし安心して」と言えば「そうじゃねぇ」とだけ返ってきた。「じゃあなに」と尋ねてみても彼は無言で、まぁこんなことはよくあることだと夕食の準備に取り掛かったのだった。


金曜日、前日にシチューを作って同居人の夕飯の準備はばっちり。そんな状態で飲み会に参加して、話の上手い営業マンに乗せられるうちに自然と酒量が多くなってしまっていた。途中化粧室に立った時も酷い有り様で、ごんごんと肩を壁にぶつけながら何とか歩くという始末だった。

「ミョウジさん、大丈夫?」
「ら、らいじょうぶ……れす…」
「大丈夫じゃなさそうだけど…」

心配して声をかけてきたのはハヤシだった。営業マンたちはこのまま二次会に向かうらしいが、自分はとんでもない。ここで帰らせて貰おう。何とか鞄を持ってタクシーを捕まえやすそうな大通りに向かう。財布の中にタクシー代はあったか。なかったら最悪同居人に借りなければならないが、その場合未来永劫嫌味を言われそうだ。

「ミョウジさん、家の前まで送るよ」
「え?あ?ハヤシさん!そんな悪いです!」
「いいからいいから。俺も同じ方面だし」

ハヤシはさっとタクシーを止めると、ナマエをぎゅっと後部座席に押し込む。わざわざ申し訳ないと思いつつも、車は走り出してしまった。そう言えば、どうしてハヤシは自分の家を知っているのだろう。何処に住んでいるかなんて、会社で話したことがあっただろうか。

「ミョウジさん、お酒あんまり強くないんだね。ごめん、俺知らなくてさ」
「いえ、その、今日はなんかお酒回っちゃって……」
「ああ、なんかそういう日ってあるよなぁ。家帰ったら沢山水飲んだ方がいいよ」

閉じられたタクシーの車内でハヤシの声がぼんやり響く。そんなに酒は弱くないほうなのに今日は本当にどうしたんだろう。体調不良というわけでもないし、なにか食べ合わせや飲み合わせが悪かったのか。心当たりは、ないのだけれど。
しばらくタクシーが夜道を走り、すっかり郊外の、ナマエの自宅付近へと辿り着く。見慣れた町並みが広がって少し安心した。ぐらりと脳みそが揺れる。

「彼氏さん、迎えに来てもらう?」
「え?」
「ほら、部屋まで一人で帰れるかなと思って」

言われてみれば、まぁそれもそうかとナマエはスマホを取り出した。店まで来てくれとは言えなくても、マンションの一階くらいなら彼も出てきてくれるかもしれない。通話ボタンをタップすればツーコールで尾形が出る。

『どうしたナマエ』
「あ、ひゃく?マンションのしたまでタクシーでかえってきたんだけど…」

舌足らずで呂律の回らないナマエの状況を理解して、尾形は『今行く』と通話を切る。ナマエはハヤシに重々礼を言って、ハヤシは「気にしないで」とにこやかに言った。マンションのエントランスホールに尾形の存在を感じるか否かというくらいでハヤシが「じゃあ」と言ってタクシーに出るよう頼んだ。ブロロロロ、という音を立ててタクシーが発進する。

「おいナマエ、大丈夫か」
「ひゃーくー」
「たく……酔っ払いめ」

足元がふらつき、尾形が抱きとめる。腕の中が心地いい。もうすっかり馴染んだ体温はいつもナマエを安心させた。
そういえば、ハヤシはなぜナマエの部屋に同居人がいると知っていたのだろう。同居人がいるなんて誰にも言ったことはないはずだ。しかもナマエと尾形は恋人関係というわけではない。うっかりナマエが尾形の存在を口走ったとしても、彼氏だなんて思われるはずがない。

「うっ、あたまいたぁい……」
「飲み過ぎだ、馬鹿」

ずきずきとこめかみが痛む。飲み過ぎというほど飲んでもいないのに。これはしばらく禁酒をした方がいいかもしれない。


どうして同居人がいることを知っていたんだろうなぁ、という疑問は、あの晩ぼんやりとしていたこともあいまって早々に頭の片隅に追いやられていった。翌週からも普段通りに業務をこなし、家と会社を往復する。
失せものはむしろ増えた。この間水筒がなくなったときはどうしようかと思った。正直な話、最近なくなっているものたちは盗まれていると言ったほうが得心がいく。

「あ、やばい。ブランケット持って帰ろうと思ったのに…」

終業時間を過ぎ、さて帰ろうと会社の入っているビルを出た時だった。週末だから持って帰って洗濯をしようと思っていたのに、持って帰ってくるのをすっかり忘れていた。取りに戻るか一度逡巡して、先週も同じことをして諦めて帰ったことを思い出した。今週は流石に持って帰ろう。

「よし」

ナマエは踵を返し、来た道を戻ってオフィスに向かう。丁度前月の締め作業を行う日だったこともあって普段残業をしている営業部は少なく、逆に経理と総務の管理部門の人間の方が残っている。普段よりも人影の少ないビルの中を歩き、総務のフロアに辿り着く。電気が未だついている。残っているのは課長か、部長か、そんなことを思いながらひょこりとフロアを覗く。がさ、がさごそ。机を漁るような音が聞こえる。そして目の前の光景にひゅっと息をのんだ。

「ミョウジさん……」

ナマエの机を漁っていたのはハヤシだ。がちゃ、がちゃがちゃ。ナマエが私用の小物類を入れているデスクの一番上の引き出しを触り、中からリップクリームを取り出す。そしてまるで恍惚の表情を浮かべながらキャップを取り去り、べっとり自分の唇に塗りたくる。そしてべろりと舐めた。
驚きと恐怖がない交ぜになって悲鳴さえ喉の奥でつっかえる。ひゅーひゅー息が漏れてしまいそうなのを抑えるために両手で口を覆う。

「ミョウジさん、ふ、ぅ……ミョウジさん……はぁぁぁ…」

ナマエの名前を呼ぶ声の合間に気色の悪い吐息が混ざった。足元がよろけて、踏ん張ったところでゴミ箱にかつんと当たって物音が鳴り響く。もちろんそれがハヤシの耳にも届き、ぐあっと勢いよくナマエのデスクから顔を上げた。

「誰だ!」

普段聞いたことのないようなハヤシの鋭い声が飛んで、ナマエは慌てて走り出した。怖い、怖い怖い怖い。思えば思うほど足が重くなるような感覚に陥り、何度か足をもつれさせながら走り続ける。エレベーターを待つのも怖くて階段で一階まで駆け下り、喉が渇いて貼り付くのを感じながら駅へ向かう。そこからどうやって自宅に戻ってきたのかはよく覚えていない。気が付くと目の前にいつもの玄関の扉があって、ナマエは転がるようにして家に飛び込む。

「ったく、うるせえな。また酔っぱらって──」

尾形が騒がしく帰宅したナマエに小言を言ってやろうとして途中で口を噤む。明らかにナマエは普通じゃなかった。ぜえぜえ息を切らし、何かから辛うじて逃げ伸びたかのように髪も乱れている。コートもマフラーもくちゃくちゃで、一体何ごとかと駆け寄った。

「おいナマエ!何があった!」
「ひゃ、ひゃく……あの、あの……」

恐ろしいものを見たのだと何処から説明すればいいのだろう。ナマエはそこで腰が抜けてしまって、靴の上にぺたんと座り込んだ。尾形がナマエの前に跪くようにして、それから背中をそっと撫でる。あやすようなリズムで背を叩き、ナマエの呼吸が少しずつ整っていく。

「か、会社の男のひとが、その、私のリップを、勝手に使って、舐めてて…えっと、こないだは水筒が、あっ、でもそのもっと前からいろいろなくなってて……」

どうにか説明しようにも言葉がばらばらに散らばっていってしまう。それでも尾形は辛抱強くナマエの話に耳を傾け、ナマエの言わんとすることを徐々に理解していく。それを証明するように眉間に皺が寄っていく。

「ど、どうしよう……百……」
「落ち着けナマエ」
「だって!ハヤシさん、この家知ってるよ!もしここまで来たら……!」
「馬鹿たれ、ここなら俺がいるだろ」

腕の中で我を失って藻掻くナマエを尾形がなだめる。抱く腕の強さを強くすれば、ようやく少しずつ落ち着いていった。

「ひゃく、ひゃく…どこにもいかないで」
「行かねぇよ」
「お願い、百……」

縋るように尾形の胸に額をつっくける。堰を切るように溢れてきた涙が尾形の胸元をじっとりと濡らしていった。尾形の胸の中でナマエは何度も何度も「お願い」「お願い」と乞い続けていた。


事件そのものの顛末としては、上司を介したハヤシへの聞き取りによって本人が犯行を認め、協議の上解雇されるに至った。尾形は警察に届け出るべきだと主張したが、警察への届け出はナマエのほうがこれ以上騒ぎ立てられたくないと拒否をして、事件は一応の終結を迎えた。

「ひゃく、一緒に寝て良い?」
「ん」

数ヶ月経ち、事件そのものが少しずつ風化する中、ナマエの心の傷だけは克明に、むしろ経過とともに色濃く変わった。親しくしていたハヤシの予想だにしない犯行に人間不信となって、ナマエは尾形以外の一切の人間に心を開かなくなったのだ。
流石にそれまでは寝床をいっしょくたにはしていなかったが、事件の日からナマエは殆ど毎日尾形の布団の中に潜り込むようになった。彼のじんとした温もりを感じることでようやく安らぎを得ることが出来る。

「ひゃく、どこにもいかないで」
「行かねぇよ」
「お願い、ひゃく」

尾形はナマエを布団に招き入れ、自分より幾分も小さい身体を腕の中に閉じ込める。夜になると余計に事件のことを思い出すのか、震えて眠れない日が多かった。そんな日でも不思議と、尾形の腕の中であれば浅くとも眠りにつくことが出来た。

「ひゃく、絶対、絶対…朝が来るまで離さないで」
「馬鹿、朝が来ても離さねぇよ」

尾形がナマエの額にキスをする。閉じられたこの部屋の中でだけ、ナマエの心臓は自由になることが出来た。尾形の胸に耳を寄せれば体温がじわじわと伝播してくる。ナマエがいなければ尾形はろくに生きてもいけないはずだったのに、こうして逆転してしまった。いや、本当は最初から、ナマエにこそ尾形が必要だったのかもしれない。

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