棚から牡丹餅
鶴見中尉の部下というのは、北海道の各地に散らばっている。鶴見中尉の小隊の兵士はもちろんのこと、そもそも連隊長の淀川を掌握しているくらいなのだから、直属の部下ではないような兵士も鶴見中尉の手下である可能性さえあった。

「おいナマエ!もっと速く走れんのか!」
「むっ!むちゃ言わないで下さぁい!」

数歩先を走る尾形がそう叫ぶ。なんでそんな重い銃を担いで自分よりも速く走れるのか皆目見当がつかない。ナマエはぜえぜえと息を切らした。今にも足を止めてしまいたいが、これで立ち止まれば最悪殺される。そう思えば思いのほか人間は頑張れるものだ。これは火事場の馬鹿ぢからというものだろう。きっと中学の体育祭でむりやり走らされたクラス対抗リレーよりも速く走れている自信がある。

「あそこだ!あの納屋に飛び込め!!」

杉元がそう言って指さした先には中途半端に扉の開いた納屋がある。この世界に来た当初なら「埃っぽそう」「汚れそう」などと忌避感があっただろうが、今は微塵もそんなものはない。一切のためらいもなくその中に飛び込み、続いて尾形、杉元と詰め込まれる。
農機具などが所狭しと並べられているが、幸い人の気配はない。勝手にお邪魔してすみませんとは思いつつも、文字通りデッド・オア・アライブなのだから許されたい。

「はぁ…ひどい目に遭った……」

ナマエはそう溢しながら何とか息を整える。これ以上追い回されていたら取っ捕まっていたに違いない。ナマエはべつに彼らと違って屈強な兵士というわけではないし、何なら明治時代の人間でさえない。もとはれっきとした令和を生きる現代人であり、ここへはどういうからくりかタイムスリップをしてしまっているのである。

「しばらくこの納屋でやり過ごそう」

杉元の言葉に流石の尾形も同意する。山中ならまだしも、街中で騒ぎ立てればすぐに応援がやってくる可能性がある。数の力で勝てるわけがないし、そもそもこちらには戦力外のナマエまでいる。

「ナマエ…お前がトロくせぇからだぞ」
「なっ…!否定はしませんけど!」

ご意見ごもっともである。杉元と尾形だけならこんな埃っぽい納屋でやり過ごさずとも森のなかまで逃げおおせられたかもしれない。しかしそうは言われてもこっちだって全力で走ったのだ。かと言って見捨てられて死にたくもないし、言いたいことの半分以上をごくんと飲み込む。しかしそれで追撃の手を休めてくれるほど尾形は優しくない。

「はは、その体力のなさはなんとかしとかねえとそのうち死ぬんじゃねぇか?
「現代人の標準です!」
「ここじゃ俺たちが現代人だ。お前は未来人だろ」
「屁理屈!」

ああ言えばこう言うとはまさにこのことだろう。尾形は見事に屁理屈をこねてみせる。もっとも、出会ったばかりの頃の全方位警戒というような態度を取られるよりはマシなのかもしれないが。

「大体お前は───」

そこまで言って尾形が不自然に言葉を止める。言うなら一思いに言ってくれと思って身構えるも、そういう話でもないらしい。杉元も黙って外に耳を澄ませた。大抵こういう時はなにかトラブルが起きた時だと相場が決まっている。流石にそれくらいは学習した。

「まずい。兵士の足音が近づいてきてる」
「チッ…下手に動くとこちらの居場所がバレる」

ナマエは思わず変な声を出しそうになり、慌てて両手で自分の口を塞いだ。 二人の指示に従うしかない。このまままさか応戦するのだろうか、と背中に冷や汗をかいていると、ざりざりざりと砂を踏む音が近づく。

「一旦奥に行こう」

杉元の提案に尾形もナマエも頷く。納屋の隅が小さく区切られて扉がつけられていて、三人揃ってその中に身体を詰め込む。何のために区切っているのかは分からなかったが、これじゃまるでロッカーだな、と頭の片隅で考えた。もうぎゅうぎゅう詰めで身動きがとれない。が、兵士が近くまで来ている以上しばらくはこのまま耐えなければならない。

「……狭くない?」

ぽつ、と溢したのは杉元だった。確かに見た目よりも窮屈で、三人は殆どすし詰め状態である。しかし表には追手がまだ三人を探しているはずだ。すし詰めになっているくらいでおいそれと外に出るわけにはいかない。

「まったくこんな狭いところに三人もとは」
「うるせぇ、しょうがねえだろ!」
「なんだよ、元々狭いと言い出したのはお前だろうが杉元佐一」

尾形が煽り、杉元がそれに乗り、尾形がまたそれを煽る。煽りの永久機関やないかーいと心の中でツッコミを入れてみたが、流石にこの状況で口に出す勇気はない。なにせナマエの片足が痺れてきている。

「ナマエさん、大丈夫かい?」
「いやぁ、その…あ、足が痺れて来ちゃいましたぁ……」
「おい、どんだけ軟弱なんだよ」
「すみません、未来人、面目ないです…」

二人を避けるようにしてナマエが真ん中に収まっているから、二人に寄りかかって仕舞わないように体勢を保つのが案外難しいのだ。ぷるぷるつま先が震える。

「ナマエさん、俺のほうにもたれて」
「そんな、悪いですよ」
「いいからいいから」

杉元の優しさに涙ぐみそうになる。尾形とは天と地ほどの差がある。背後でナマエの頭の中を見透かしたように尾形が舌打ちをした。杉元の厚意に甘えて少し前方に体重を移動させ、彼の胸を借りるような体勢になる。これで随分とラクになった。これでしばらくはやり過ごせそうだ。

「チッ……せまっ苦しいせいで暑いな…」

尾形が忌々し気にそう言って、壁と自分の身体との隙間に押しつぶされていた手をひゅっと抜き取る。その手の甲がナマエの尻を掠めていく。

「ひゃっ…!」
「ア?」

思わず声が漏れて、だけどぎゅうぎゅう詰めになっているせいで先ほどのように自分の口は塞げない。思わず唇を噛んで声を抑える。その間に尾形がナマエの悲鳴の理由を理解したようで、にやにやと笑う気配が背中から伝わる。

「おいおい、緊急事態になんて声上げやがる」
「だ、だってびっくりして…!」
「おい尾形、ナマエさんに変なことすんなよ」
「人聞き悪いな、不可抗力だ」

杉元が応戦してくれたけれど、彼の胸元に寄りかかっているせいで少しの振動がダイレクトに伝わって来る。さわさわと杉元の声が耳にさいわってくすぐったくて、堪えきれずに喉の奥を「んっ」と鳴らす。

「おいおい、人のこと言えんぞ、杉元佐一」
「なっ!お、俺は別に何も……!」

頭上で杉元と尾形が言い争う。正直諫めようにも、不意の出来事にどくどく鳴っている心臓をおさめるので手一杯だ。
頭上の言い争いは加速するが、外の兵士たちに見つかるわけにはいかないから終始小声で行われ、なんとも珍妙な有り様になっている。やっと落ち着いたナマエはいつの間にか自分の身体がどんどん下方にズレていってしまっていることに気が付き、これでは全体重が杉元にかかってしまうと何とか狭い中で身じろぎをする。

「ちょ…ナマエさんっ…!」
「え?」

杉元が焦ったような声を上げて、何ごとかと目の前の杉元を見上げれば何かくすぐったいのを堪えているような顔をしていた。もぞ、ともう一度手を動かすと、自分の手が杉元の下半身の、かなり際どい所に触れているのだと気が付いた。

「ご、ごめんなさっ…!」
「あ、いや、その……」
「もじもじと鬱陶しいな」
「うーるっせぇ!」

尾形がすかさず口をはさみ、それに杉元が応戦する。杉元はそのまま上体を動かして、その拍子にガタタとバランスを崩した。上手に体勢を戻すことが出来ず、これ以上詰められないと思われたすし詰め状態からさらにぎゅうぎゅう詰めの状態に変わる。

「おいこら馬鹿ッ!動くな!」
「しょ、しょうがねぇだろ!?」
「うぐっ…苦しいです…」

厚い胸板と胸板にぎゅぎゅっと挟まれる。別に現代に生きていた時だって男の胸板に挟まれるような機会はなかったけれど、絶対これは現代人でまれにみるマッチョだと根拠もなく確信を持った。ただ挟まれているだけだというのに圧迫感甚だしく、右にも左にもばいんばいんとバウンドした。

「恐るべし…まっちょ……」
「ま…?」
「いえ、こっちの話です…」

思わず現代語が口から漏れて杉元が不思議そうに聞き返す。別に意味を教えたって構わないが、この状態でそんなことをしてやる気力はない。

「あの、ちょっと脇腹つらいんですけど…動いていいですか?」

ナマエは一応ふたりにそう了解を得てからぐいぐいと身じろぎをして体勢を整えようとした。その際に足が少しだけ浮かび、転ぶのを阻止しようと左手で一番近くにあった布地を掴む。くにゅ、となんだか柔らかいものを掴んだようだった。

「……ナマエ、積極的なのは構わんが少し力が強い」
「え?あっ!そういうつもりじゃ……!」

ナマエは自分の掴んでしまっただろうものを自覚してすぐに手を開いて、そのせいで体勢を整えきれていなかったから結局ぐらんとバランスを崩す。そのまま尾形の胸に抱きつくようなかたちになり、しかも外からガタガタと人が入って来るような音がした。

「おい、いるか?」
「いや…人の気配はないが……」
「というか、あいつら本当に連中なのか?」
「間違いない。尾形上等兵がいたぞ」

建物の中に入ってきたのは杉元たちを追ってきた兵士だった。三人の間に緊張が走る。こめかみから汗が伝い、喉から胸に落ちる。尾形の言う通りこの中は狭いせいでかなり暑い。尾形は平気なのだろうかと盗み見れば、彼も汗をかいていて、額から頬骨を使って滴が落ちていく。尾形さんも人間なんだな、となかば失礼なことを考えながら兵士たちが出ていくのを待ち、結局10分ほど建物を調べると兵士たちが出ていく足音が聞こえてきた。杉元が慎重に周囲を確認しながら扉を開く。

「はぁ…やっと出ていったか」

杉元がまず一番に外に出て建物の内部に追手の兵が潜んでいないことを確認する。何とか今回も難が去ったようだった。

「おいナマエ、そろそろ離せ」
「え?あっ!ごめんなさい!」

尾形にしがみついたままだったことに気が付き、慌ててパッと手を離す。尾形が大袈裟に髪をかき上げ、はぁ、とわざとらしくため息をついた。ナマエはよたよたと数歩移動して、やっとそれなりに広いスペースに出られたと思いっきり伸びをする。もっとも、まだ納屋の中ではあるが。ナマエには気付かれないような背後で杉元がじとっと尾形をねめつけた。

「ねちねちしつこい野郎だな」
「なんだよ、自分に抱きついてもらえなくて不満か?」
「ち、ちがッ……!」
「不満ならナマエに言うんだな」
「だから違うって言ってるだろッ!」
「ははぁ、どうだかな」

二人の会話の内容まではナマエの耳には届いておらず、彼女はのほほんとした調子を崩すことなく振り返る。杉元はパッと口を閉じた。顔がどことなく赤くなっている。

「早くアシリパちゃんたちのところ行きましょう!私たちが戻ってこないから心配してるかも!」
「あ、ああ、そうだね。早く戻ろう」

少しどもりながら相槌を打つ杉元に首を傾げて、何か話していたのかと尾形を見てもニヤニヤと笑いが返ってくるだけでサッパリ教えてもらえない。しかしどうせあまり細々と考えても良いことはないような気がするし、ここは今日の夕飯のメニューに思いを馳せた方が建設的だろう。

「脳みそ以外だといいなぁ」

彼女の脳みそに対する信頼と執着は何なんだろうか。残念ながら、未来人に脳みそは少し上級者向けすぎる。

戻る



- ナノ -