マイスウィーティ
気分は上々。可愛い恋人の待っている家に帰れることほど嬉しいものはない。五条はルンルンという擬音語を惜しげもなくまき散らしながら高専の敷地をスキップで歩く。筋骨隆々な190センチの長身男性が乙女のようにスキップをする姿はさぞ奇怪なものに見えるだろう。

「やばいな、アレ」
「こんぶ」
「悟のやつ、いつにもまして気味が悪いな」

真希、狗巻、パンダの順で遠慮なくそう口にして、乙骨がなにがなにやらと頭の上にはてなマークを飛ばしている。呪術界の長い3人は入学が4月だと言ってもだいたいそれ以前から五条とは面識があり、パンダに関してはおしめまで替えられた仲である。そんなこんなで五条の上機嫌の理由を当然のように心得ており、乙骨だけが皆目見当もつかないといった様子だった。

「えっと、五条先生、何かいいことでもあったのかな?」
「憂太、絶対それ悟には言うなよ」
「え?」
「あいつに言ったら終わりだ。一時間は惚気に付き合わされる」
「しゃけしゃけ」

こういうときは見て見ぬふり、触らぬ六眼に祟りなし。しれっとその場を離れようとしたが時すでに遅しだ。五条が一年生四人にターゲットを絞り、ぐんぐんと長い足で近寄ってきた。

「おつかれサマンサー、一年生諸君。元気してる?」
「くそ、捕まった」
「どうする真希」
「しぐれー」

軽快な五条の口調に苦虫を噛み潰すような顔になりながら真希とパンダと狗巻が口にする。三人の敗因は、もっと強く乙骨に口止めをしておかなかったことだろう。どうにか五条から逃げる算段をつける三人の隣で乙骨がのほほんと口を開く。

「五条先生、なにかいいことでもあったんですか?」
「さすが憂太っ!わかっちゃう!?」

おいこらバカ!と乙骨を止めたところであとの祭りだ。五条は包帯越しでわかるほどにこにこと陽のオーラを出しまくり、本人の持ち前のそれもあってもはや発光しているのではないかと思うほどだった。

「実は今日1週間ぶりに家に帰れるんだけどね、ようやく可愛い可愛い彼女に会えるんだよ」
「へぇ、五条先生彼女さんと同棲してるんですか?」
「そうそう。見晴らしのいい部屋借りようって言ってもこぢんまりしたところにしてくださいって言ってくるような控えめなタイプでさぁ。あ、写真見る?」
「わ、すごい美人さんですね?」
「でしょでしょ。顔も可愛いんだけど中身はその何倍も可愛くてさ、この前なんて──」

乙骨がコミュ障のクセに妙なコミュニケーション能力を発揮し、エンジンのかかった五条があれやこれやと惚気始めた。乙骨は初耳かもしれないが、生憎他の面々は耳にタコである。相槌を打つ乙骨を生贄にすたこらさっさと逃げ出したのだった。


五条の同棲相手であるナマエはひとつ年下の後輩だった。さきに惚れたのはナマエだったが、のめり込んでいったのは五条だった。ナマエは超一級の美人、というほどではなかったけれど、いつも真摯で嘘のないところが五条の心をほぐしていったし、口さがない噂話に囲まれている五条にとってナマエと過ごす時間は何よりの安らぎだった。

「たっだいまー!」
「お帰りなさい。悟さん」

高専から少し距離はあるが、ハブ駅の近くだから便利はいい。周囲にドラッグストアが二軒とスーパーが二軒、目の前にコンビニもある。五条家当主にしては多少庶民的なこのマンションが二人の愛の巣だった。
ナマエの家系は遡れば術師を輩出しているが、ナマエ自身は非術師の両親に育てられた。隔世遺伝的に強い術式を受け継いでしまったため、入学当時はかなり苦労していたことをよく覚えている。

「一週間お疲れさまです。お風呂にする?ごはんにする?」
「それとも私?って聞いてくれないの?」
「もう、そんなことばかり言って…」

付き合い始めてもう8年が経つが、ナマエは未だにこうして少しのことで恥ずかしがって顔を赤くする。お互い少年少女というわけではないけれど、二人きりの時だけは学生時代のような青く甘い空気に浸ることが出来た。

「そうだ、ナマエにお土産」
「なぁに、これ」
「前言ってた僕のおすすめのショコラトリーの新作。パリ本店限定品」

パリ本店の限定品だというのならなぜ東京の片隅にそれがあるのか。きょとんと首をかしげると、五条はこともなげに「空輸したの」と言ってみせた。

「えっ、まさかこれ一個のために!?」
「うん。船便だったら風味が落ちるでしょ。ほんとはパリまでナマエ連れて行きたいんだけど、時間も馬鹿になんないしさぁ」

まったく呆れる、といった風を隠しもせずにナマエが小さい箱に収まったチョコレートを見つめる。傍若無人なタイプのようでいて、五条は案外情に厚い。それから好きな相手には尽くすタイプだ。もっとも、そんなことはナマエも五条本人も交際を始めてから知ったことだったが。

「私のこと甘やかしすぎです」
「ナマエのことはどれだけ甘やかしても足りないくらいなんだけどなぁ」

五条はひょいっと顔を近づけ、ナマエのこめかみにキスをした。ちゅっとわざとらしいリップ音を立てて顔を離せば、ナマエが真っ赤になっている。

「て、手洗ってきてください!ごはんあっためます!」

あからさまに動揺した調子でそう言ってナマエはキッチンに引っ込み、五条はその場でくすくすと笑った。あんな反応をするからついつい揶揄いたくなってしまうのだ。


今日の夕飯はホワイトシチューで、付け合わせにキャロットラペとピクルスが添えられている。ホワイトシチューの具はどれも大振りで、これはナマエの母の味を継承しているらしい。庶民的な味に初めて出会ったのは高専に入ってからのことだったが、もうすっかり彼女の味がしっくりくるようになっている。

「味濃くないですか?」
「うん。丁度いい」
「良かった」

ナマエは毎度毎度丁寧に味の調子を尋ねるが、彼女の味付けが気に入らなかったことなどただの一度もない。五条個人としてはこの味でリストランテを開いたっていいくらいに思っているけれど、ナマエに言ったら「大げさです!」と言われてしまうだろう。こちらとしては結構本気なのだが。

「まぁでも他の奴に食べさせることないか」
「え?何の話です?」
「ナマエの料理は美味しいねって話」

へらり、と自分でもだらしなく頬が緩んでいくのを感じる。何気ない日々の時間の中で、こうして何度も幸せをかみしめることができることこそ、愛しているということなのだろうと根拠もなく信じることが出来た。


夕飯を終え、風呂を済ませる頃にはナマエがキッチンで紅茶を淹れていた。ティーバックで作る簡単なものだけど、手軽だしナマエは紅茶が好きだしで割といろんな種類をいつも揃えている。

「はい。今日はアールグレイです」
「いい香り」
「悟さんがチョコレート買ってきてくれたから、合うやつにしようと思って」

ナマエはウキウキといった様子だった。どんな顔をしていても可愛らしいとは思うけれど、やはり喜んでいる顔を見るのは格別だ。ソファに二人で腰かけて取り寄せたチョコレートの箱を開く。そこにはまるで宝石のようにきらきら光るチョコレートが慎重に納められていた。

「どれも美味しそう」
「なんか今年はパリのほうで山椒がブームなんだって。だからこの右のやつは山椒入ってるらしいよ。食べられる?」
「食べられますけど…チョコレートに山椒ってイメージ湧かないです」

五条はナマエをちょいちょいと手招きをして、ナマエはきょとんを首をかしげながらも五条に近寄る。五条はナマエの腰を捕まえ、あっという間に自分の膝の上に乗せてしまった。

「ちょ、悟さん!」
「はいはい、くち開けて」

チョコレートを一粒摘まみ上げると、五条は逃げられないようにナマエの口元に差し出す。ナマエは数回ためらったあと、観念したように口を開いてチョコレートを受け入れた。濃いカカオの香りが鼻から抜ける。しかも五条が摘まんでいたせいで少しだけ柔らかくなっていて、甘さがより一層ダイレクトに伝わってきた。

「美味しい?」
「は、はい…美味しいです。あ、山椒のピリッとした感じがあとからきました」

五条はそれを聞くと、成程といった表情になってからもうひとつチョコレートを摘まみ上げ、自分の口にぽいっと放り込む。

「ほんとだ。時間差で来るね」
「思ったより山椒効いてるんですね」

口の中に残った後味を確かめるようにナマエが「ふむ」と顎に手を当てる。五条の膝の上に乗っているということはすっかり頭から飛んでいるようで、これは多少不服だなと五条はチョコレートをまた摘まみ上げてナマエの唇に押しあてた。

「んぅっ!ちょっ、さとるさっ…!」
「ほらほら溶けちゃうよ?」

指先の熱でじわりと境界線が滲んでいく。今すぐ溶けてなくなるということはないにせよ、このままではどろりと形が崩れていってしまう。ナマエが意を決したように唇を開くも、もう体温で溶けたチョコレートが唇を汚してしまっていた。

「んっ、これラズベリーですかね?甘酸っぱくて美味しい」

ナマエ口の中に広がるフレーバーにすっかり夢中である。五条はしめしめと笑みを深め、ナマエとの距離をぐっと詰めると、抵抗の隙を与えることなく唇を奪った。驚いて半開きになったそこに舌を差し込み、口の中を満たしているチョコレートの味を吟味する。舌先で上顎の裏をなぞればナマエが面白いくらいに身体をびくりと震わせた。じっくり堪能して、最後にわざとらしくリップ音を立ててから顔を離せば、目をじわりと潤ませたナマエがまるで抗議の視線を送っている。

「ごちそーさま。美味いね」
「そ、そんなに食べたいなら新しいの食べればいいじゃないですか…!」
「だってこのフレーバー1個しかなかったんだもん」

いけしゃあしゃあと言ってみせて、どうせ一個しかないことが言い訳過ぎないとナマエだってわかっているのだから反論もしてこない。真っ赤になる恋人の耳をすりすり撫でれば、チョコレートよりよっぽど甘い瞳が五条を見つめていた。

「ナマエ、もう一個食べる?食べさせてあげようか?」
「じ、自分で食べます!」
「そりゃ残念」

思ってもいないのに大袈裟にそう言って肩をすくめる。そうだ、今度はナマエに食べさせてもらおうか。箱の中のチョコレートがなくなってしまったら、パントリーに隠している秘蔵のチョコレートで続きをしょう。今日はとことん、甘さに溺れたい気分だ。

戻る



- ナノ -