巻頭特集を確認して、私はレジに並んだ。
会計をしてお店を出ると雨が降っていて、お気に入りの傘をさして道を行く。
書店からしばらく東に歩き、少し坂道を登る。突き当りを右に入り、マンションのエントランスに入った。
傘を閉じ、洋服についた水滴を拭ってから部屋番号と、最後にベルのボタンを押す。
『はい』
「建人くん、ナマエです」
スピーカーから建人くんの声がして、名乗ればすぐに『今開けます』と返ってくる。
その言葉の通りオートロックの自動ドアが開き、私は中に進んだ。エレベーターで9階。一番奥の角部屋でもう一度インターホンを押すと、今度は確認することなく建人くんががちゃりと扉を開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
私は建人くんに傘を預け、パンプスを脱いでかかとを揃える。建人くんが出してくれた渡し専用のスリッパに足を滑り込ませて、よく掃除されたフローリングの廊下を歩いた。
「雨、大丈夫でしたか」
「うん、傘があれば充分って感じだったよ」
雨の日には読書に限る。
そんなことで、私は建人くんのおうちにお邪魔して読書をすることにした。どこかへ行く予定がなくなったとかそう言うわけではなく、降って湧いたデートだった。
建人くんは一級術師で、急な呼び出しを受けることも多い。私は高専の研究者の端くれとして回収班と組んで仕事をしているので、術師の任務次第でシフトが変わる。
そんなこんなでお付き合いをしているから、デートの予定が無くなるなんてことも少なくない。こんなふうに増えることは滅多にないけど。
「コーヒー淹れます」
「ありがとう」
おんなじソファに座って、建人くんは左側、私は右側。特別決めているわけではないが、なんとなくこれが定位置になっている。
読書デートの日は、こうして二人とも黙って活字に向き合っていることが多い。けれど、この沈黙は嫌な感じなんて少しもなく、むしろ心地が良い。
沈黙が苦じゃないひととお付き合いすると良いとはよく言ったものだな、と出典もわからない誰かの話に関心をした。
「…ん」
一時間かもう少しかそのくらい経って、私は手元のマグカップのコーヒーが尽きていることに気がついた。底の白の中にブランドロゴが覗いている。建人くんの家でいつも使っているこのマグカップは、二年ほど前に一緒に旅行に行った時に買ったものだ。
建人くんのマグカップをちらりと見ると、コーヒーは数ミリを残すだけになっており、もうすぐ白い底が見えそうだった。
「建人くん、飲み物おかわりいる?」
「ええ、ありがとうございます」
私はソファを立って、キッチンに向かうと調理台から振り返ったところにあるパントリーを開けた。
建人くんはコーヒーが好きだけど、私がお邪魔してから既に二杯は飲んでる。カフェインの摂り過ぎ。まぁ私も好きだから人のこと言えないんだけど、読書中は特に集中して飲み過ぎちゃうから気を付けないと。
私は戸棚から今日勝手に持ち込んだ茶葉を取り出し、お湯を沸かすとティーポットでお茶を淹れる。最近私のお気に入りのルイボスティーだ。
「建人くんお待たせ、ここに置いとくね」
「ルイボスティーですか」
「うん。建人くんも私もカフェイン摂りすぎ注意だよ」
建人くんはティーカップの取っ手を持って、そろりとルイボスティーを持ち上げる。香りを楽しむように空気を吸い込んで、口元をふっと緩めた。
「いい香りです」
「でしょ。バニラルイボスティーっていうやつでさ、この前いただいたんだけど気に入っちゃって」
バニラルイボスティーと一口に言っても、そのフレーバーは様々だ。基本的には香料なので、美味しいのとそうでないのとかなり差が付く。ちなみにこれは海外のお友達が送ってくれたやつ。
「建人くん何読んでるの?」
「ミステリです。去年アメリカで発売された」
建人くんはそう言って、表紙を見せてくれる。え、ペーパーバックだ。
タイトルはどこかで見たことがある気がして、ああ、夏に映画化するとどこだったかで見かけたんだと腑に落ちた。
「もしかして原文?」
「そうですよ」
うわぁ。私なら絶対無理だな。と建人くんが差し出した本を受け取ってぺらぺら中身をめくる。当然だけど、全編英語である。眩暈がしてきた。
「翻訳版もありますが、読みますか」
「いや、遠慮しとく。私外国文学って読むの苦手なんだよねぇ」
本を返して、私もティーカップを持ち上げルイボスティーをひとくち。うん、普通のよりちょっとだけ甘い香りがたまらない。
「なんかさ、外国人の登場人物の名前が覚えらんなくて。キャサリンが娘だったか家政婦だったかわかんなくなっちゃうんだもん」
「アナタそういうの苦手そうですね」
建人くんはどちらかというと文系だ。術式や証券会社に勤めてたことや七三分けなことを考えると結構意外。最後のは関係ないけど。
私は理系で、高専で受けた現代文のテストなんかは壊滅的だった。高専で一般科目の試験なんてやらないでほしい。
「ナマエさんは何読んでるんですか」
「私はこれ」
だから今日読んでいる本も読み物系じゃない。ここに来る前に調達したサイエンス誌の最新号。特集は木星の衛星エウロパ。酸素分子が確認されており、地球外生命体が存在するのではないかと注目を集めている天体だ。
私は巻頭特集のページを開き、建人くんに見せる。
「エウロパですか」
「うん。2023年にスペース・ローンチ・システムでフライバイ探査機が打ち上げられるの。エウロパ・クリッパーっていうんだけど。エネルギー科学をメインに探査できるやつで、成功したら結構探査が進むんだってさ」
1610年にガリレオガリレイにより発見されたエウロパは、木星の第2衛星。イオ、ガニメテ、カリストと並ぶ木星の四大衛星で、発見者になぞらえてガリレオ衛星と呼ばれている。
「エウロパの内部には氷に覆われた海があってね、地球でいうところの南極の氷底湖みたいな環境だと推測されてるの。それで生命体の可能性について言及する科学者のインタビューがこれなんだけど…」
私ははっと口を噤む。
いけない、またついべらべらと喋ってしまった。建人くん、別にそこまでの興味はないだろうに。興奮するとこうして饒舌になってしまうのは私の悪い癖だ。
ちろ、と建人くんのほうを見ると、建人くんは私の開いた特集のページをしげしげと眺めている。
「エウロパと言えば、テュロスの王女の名前ですね」
「テュロス?」
「ええ、ギリシャ神話に出てくるフェニキアの古代都市です。そこの王女として生まれたエウロパのあまりの美しさに、ゼウスが白い牡牛に化けて彼女を連れ去ってしまったんですよ」
曰く、その白い牡牛はいわゆる十二星座のおうし座なのだという。
エウロパは侍女と花を摘んでいる最中、現れた牡牛の美しい白さに心惹かれて近づき、そっとその背に跨った。
すると牡牛は駆け出して、海を越えてそのままエウロパをクレタ島まで連れ去ってしまったのだ。
「うわぁ、えげつなぁ」
「ギリシャ神話には…というかゼウスにはよくある話です」
建人くんはそれからみずがめ座はゼウスに誘拐された美少年のガニュメテスだということ、ふたご座のカストールとポリュデウケースはゼウスが白鳥に化けてレーダーという女神との間にもうけた子供だということを話した。
他にも十二星座以外に目を向ければ、ゼウスの武勇伝はもっとたくさんあるんだという。
「ゼウスやばいね」
「星座はゼウスの浮気手帳みたいなもんですよ」
浮気手帳って。言い得て妙な表現に思わず笑った。
天体には興味があるけど、その細かな由来や神話のことはあまり知らなかった。ゼウスという男神は相当な浮気者らしい。そのほうが神様っぽくはあるけども。
「ギリシャ神話ってもうちょっとロマンチックなものかと思ってた」
「得てして神話というものはそうでもありません」
建人くんと私は、二人とも読書が好きだけれど読んでいる本の系統はかすりもしない。
だけど一緒に本を読むのは心地がいいし、自分の知らない世界を教え合って、共有することが出来る。それはすごく幸せなことで、意外と誰とでもできることではない。
「建人くん、次のデートは一緒に本屋さん行こうよ」
「いいですね」
そう言って、建人くんが私の頭を撫でた。大きい掌はいつも私を安心させてくれる。
二人で行けば、いつもと違うものが見えてくるかもしれない。私はそういう些細なことから建人くんのことを知っていくのが大好きなのだ。
「やっぱりその本、読み終わったら貸して」
「翻訳版じゃなくていいんですか?」
「うーん、自信ないから翻訳版も貸してほしい…」
私がそう言うと、建人くんは頬を緩めてくすりと笑う。だって普段外国文学なんて読まないんだもん。論文読むのとはわけが違う。
「さっきは遠慮しておくと言ったのに、どういう風の吹き回しですか?」
「だって…建人くんと一緒のものが見てみたくなったの」
建人くんは少しだけ驚いたように目を丸くして、私のことを手招いて呼んだ。
私は雑誌をテーブルに置いて、建人くんのすぐそばまで寄る。それでは遠かったようで、建人くんは私の腰を引いて太ももの上に私を跨らせた。
「映画公開までに読むからさ、映画館で見ようよ」
「いいですね、夏の公開でしたか」
建人くんの私とは違う筋肉質な太ももの硬さを内ももで感じて、なんだかその違いまでも愛おしくなっちゃって、私はそっと胸板にすり寄った。
建人くんは私の頭を撫でて、それからチュッと音を立てて頬にキスをする。
「エウロパにも、いつか一緒に行きましょうか」
「そんな遠くまで、一緒に行ってくれるんだ?」
「ええ、ナマエさんと一緒ならどこへでも」
地球からエウロパまでの距離は約6億2800万キロ。途中の星々に立ち寄りながら、宇宙旅行をするのもいいかもしれない。
「建人くん、って結構ロマンチストだよね」
じっと建人くんの瞳を見上げる。きれいな惑星のような瞳に私が映っていて、建人くんにはいま私しか見えていないのだと思ったらそれだけで心が満たされていく。
「アナタにだけですよ」
そう言って、建人くんは私の頬に手を当て、まぶたと、鼻先と、唇と、順番に優しいキスをした。
私は少しだけ抵抗がしてみたくなって、唇が離れる瞬間に下唇を軽く噛む。すると建人くんはもう一度、今度はとびきり深くキスをして、体中の酸素が奪われてしまったようだった。
建人くんと二人っきりの宇宙旅行。随分と長い旅になりそうだ。