君となら
妊娠をした、と職場へ正式に報告出来るのは一般的に安定期と呼ばれる時期に入ってからのことだが、呪術師という性質上、ナマエにはもっと早く報告するように説得をした。そもそも安定期というのはその名の通り初期の諸症状がある程度落ち着いてきたことを指して安定期という。つまりそれまでは大いに流産やなんかのリスクも高いということだ。

「傑さん、いってらっしゃい」
「ああ。行ってくるよ」

ひらり、と手を振るナマエに見送られながらマンションの廊下を歩き、エレベーターホールに向かう。朝よく出くわす隣人の中年女性が丁度いたから「おはようございます」とにこやかに挨拶をした。
そういえば、結婚する前に住んでたマンションで隣人に面白いくらい勘違いをされたな。あの頃はまだナマエも学生だったし、しかも私のことをナマエが「先生」と呼ぶから確実に援助交際未成年淫行の類いを勘ぐられたはずだ。もっとも、あの頃はナマエに手は出していなかったが。

「そういえば、夏油さんとこの奥さんは何か月?」
「もうすぐ六か月です」
「まぁ、じゃあ無事に安定期には入ったのね」
「はい。おかげさまで」

かなりお腹も目立っているし、ナマエはこの隣人の女性とはそれなりに近所付き合いをしているから、ナマエが妊娠していることも知れている。あれこれと勉強もさせてもらっているらしいし、ナマエが満足ならそれが一番だ。

「困ったことがあったら言ってちょうだいね」
「ありがとうございます。助かります」

エレベーターが一階に辿り着き、隣人はそこで降りていく。私はそのまま地下にある駐車場に向かい、セダンタイプの自家用車に乗って高専を目指す。そういえば、車も買い替えた方がいいかもしれない。ファミリーカーを自分が買うことになるなんて、考えたこともなかった。

「私が父親か」

きっとナマエと恋をしなかったら、子供なんてもうけようとも思ってなかっただろう。ウインカーを出してなだらかにカーブを曲がる。


呪霊操術というものは文字通り呪霊を使役する術式である。降伏した呪霊を丸飲みにしてその身のうちに取り込む。その過程が酷く不快で、自分の中に穢れがたまっていくかのような感覚に陥ったこともあった。
術式とは血で継承される。つまり私の子供には呪霊操術の術式が発現する可能性があるということだ。

「傑は子供いらないの?」
「は?」

野暮用で高専に寄ったときに出し抜けに悟がそんなことを言った。なんでそんなことをわざわざ聞いてくるのか。不満を隠さずに顔に出せば「ナマエに見せらんない顔になってるけど」とへらへら笑った。

「いいんだよ。ナマエにこんな顔する機会なんてないんだから」
「そ?夫婦はなんでも知っといた方がよくない?」
「どっかのネット記事で読んだ価値観で話すな」

最後に「で、なんで急に子供?」と尋ねると、悟が珍しく少しバツの悪そうな顔になった。嫌な予感しかしない。

「いやさぁ、傑って子供に興味ないって話しちゃったんだよね、野薔薇に」

最悪だ。野薔薇に私のことを話したということはかなりの高確率でナマエの耳に入っているに決まっている。野薔薇とナマエが情報を共有しているのは学生時代からおなじみのことだ。

「ハァ……なんでわざわざそんな話……」
「五条家当主の癖に跡取りとかいいの?みたいな話になってさ、学生時代から僕たちそういうの興味ないんだって言ったんだよ。そこから僕たちって夏油先生も含むわけ?って詰められてさ」

確かに、学生時代に子供を残そうという気がなかったのは事実だ。嫌いという程ではないけれど、べつに子供が好きという性分でもなく、自分の術式が子供に継承されるくらいなら一生独身でいたほうがいいんじゃないかとぼんやり考えていた。だがそれももう10年以上前の話だ。あのころは特定の相手もいなかったし、それが最善と思っていた節はあるが、今も同じというわけはない。

「……ちょっと今晩ナマエと話す」
「僕も賛成」

悟が諸手を上げて降参のポーズをとり、これは珍しくそこそこ気にしているんだろうことがうかがえる。幸い今日はオフで家にいるはずだ。そういうことをすれば良いというわけではないが、なにか手土産を持って帰ろう。


滞りなく仕事を終えて、帰りにパティスリーに寄って苺のタルトを買って帰宅する。玄関を開けると、部屋には明かりがついている。ナマエがいるのだから当然のことなのだが、家に帰って彼女が待ってるがいる、というのはやはり一緒に暮らしている実感があっていい。

「ただいま」
「おかえりなさい!」

ひょこりとリビングから顔を出したナマエにパティスリーの箱を差し出せば「わ、ケーキですか?」と嬉しそうに目を輝かせた。
キッチンからはいい匂いが漂っていて、早く話してしまいたいと思う半面、せっかく帰宅時間に合わせて用意してくれている食事を台無しにするのはもっと嫌だから、とりあえず食事にありつくことにした。

「今日のお仕事どうでしたか?」
「ああ、それほど面倒な任務じゃなかったからすぐに終わったよ」
「神奈川でしたっけ」
「そう。川崎」

今日の任務の話や、ナマエが出かけた先で見つけた花屋の話、それから次の休日の過ごし方など他愛もない話をしながら食事が進む。今度の休みには二人で映画を見に行こうと話をしていた。私の好きなシリーズの最新作が公開されるのだ。
滞りなく食事を終えたあと、買ってきたケーキをデザートにリビングのローテーブルへ運び、ナマエを手招く。

「ナマエ、ちょっといいかな」

改まってそう言う私に小首を傾げながらもナマエは隣に座って、さてどこから話したものかと逡巡した。そもそも野薔薇から伝わっているだろうあの話を彼女がどう受け止めているかさえ分からない。特別変わった様子はないけれど、内心かなり悩んでいたらどうしようかという思考がよぎる。

「傑さん?」
「いや、その……」

黙ったままでいる私を気づかわしげに見上げ、またしても言葉を濁した。いや、ここで濁して何になるんだ。気がかりなことは一刻も早く解消しておいた方がいい。問題は先延ばしにすればするほど大きくなる。

「悟の話、野薔薇経由で聞いたんじゃないかと思って。子供、興味ないっていうの」

私はナマエの手をそっと握った。子供のことは今まで話したこともない。もしもナマエが子供が欲しいと思っていて、私の過去の話を聞いたがために気に病んでいたらどうしようかと、それが一番気がかりだった。

「学生時代は確かにそう思っててね。私の術式のこともあるから、子供に発現したらどうしようかっていう不安は拭えなかったし」
「傑さん…」
「でも、ナマエと結婚して、生活して、この先に愛する妻と子供がいる生活に、いまは憧れてる」

心に決める人が本当に現れるなんて具体的にイメージしたことがないくらい若い頃の話だ。ナマエと出会って、恋をして、愛になって、彼女との生活があって、考えなんていくらでも変わる。

「傑さん、もしかして私が子供が欲しいのに言い出せないのかもって、心配してくれたんですか?」
「うん。そういう話、いままでしたことなかっただろ?学生時代の話は今の私の考えとも違うし、人伝手のことですれ違うのは嫌だったから」

ナマエは私の不安を的確に言い当ててみせた。私が手を握る力を少し強くすると、ナマエも同じようにして握り返す。それから「ふふふ」とどこか嬉しそうに笑った。

「私、その話をそこまで深刻に考えてませんでしたから、そんなに気にしないでください」
「本当?」
「はい。子供はどっちでも良いかなって思ってて。傑さんと一緒にいられるのが一番だし、絶対に子供欲しいって思っていたわけじゃないから」

ナマエの言葉に少し胸をなでおろす。少なくともこの一連の話で彼女を傷つけてしまったということはないようだ。ナマエは握った手を開いて閉じてを繰り返して、上目づかいで私を見上げたまま「でも」と言葉を続ける。

「もし傑さんがほしいって言ってくれるなら、私も頑張ります」

欲しいに決まっている。好きな女の子との子供なんだ。術式や子供の人生に不安がないわけではないけれど、自分の育ったような温かい家庭を彼女と築けるなら嬉しいし、その中で新しい家族をナマエが生んでくれるというのにこんなに嬉しいことはない。私は握った手を引き寄せ、胸の中にぽすんと収まるナマエを抱きしめた。

「生んでほしい。私とナマエの子」

腕の中でナマエが「はい」と小さく返事をした。術式を継いだ子供が生まれたとしても、私と違って生まれながらに理解の深い人間が周りにいるんだ。きっと出来ることは多いだろうと思う。

「傑さんに似た子だといいなぁ」
「いや、絶対ナマエ似の子がいい」
「ふふ、傑さんってば、女の子だったらすごく溺愛しちゃいそう」

それはまぁ、否めないところだけど。

「高専の教師と付き合うなんて言い出したら全力で止めるね」
「あはは、私たちじゃ全然説得力ないですね」

それは冗談として置いても、私もいつか「お前に娘はやらん」なんてことをする日が来るのか。性別どころかそもそもまだ妊娠さえしていないのに、あれこれと頭の中では想像が広がっていった。


自家用車で高専に辿り着き、都内の現場をひとつ見て回った。それから次の任務までの時間を高専の控室で潰していると、おなじみの白髪の長身が姿を現した。A4サイズくらいのビニール袋片手に甘そうなスイーツドリンクをずぞぞぞと飲んでいる。

「お疲れお疲れー、傑、今日埼玉だっけ?」
「ああ。悟は?」
「僕は夕方に会食出て神戸に前のり」
「相変わらずだな」

お互い特級術師として高専に危険視されながらも重宝されている身分である。特に悟は御三家のこともあるから、私よりもよほど忙しくしているところを見かける。悟が何かに気が付いたように「あ」と短音を漏らし、がさりとビニール袋を差し出した。

「たまご組とひよこ組買ってきたけど、傑読む?」
「最新号?」

悟が「そ」と短く肯定した。たまご組、ひよこ組というのはいわゆる子育て雑誌というやつで、私もナマエから妊娠の報告を受けて毎月欠かさず買っている。ナマエは例の話をした約一年後に身籠り、もう六か月になる。つわりが酷かったこともあって、妊娠二か月目から休職をしてもらっている。

「もう買ってある」
「えー、マジで?せっかく買ってきたのに」
「悟が読みなよ。結構勉強になる」

せっかく買ってきたと言われたところで別に頼んでもいないのだから文句を言われる筋合いもない。もっとも、子供をつくることが義務でしかないだろう悟には無用の長物だろうが。
悟がチェッとわざとらしくいじけて見せ、私の向かいに座って袋から取り出した雑誌をぺらりとめくる。

「はぁ、傑が父親になるとことか想像つかねぇー」
「私だって同じさ」

実感、というのはどこで湧くものだろう。ナマエのお腹もだいぶ大きくなっていて、胎動も感じているようだ。私が感じられるようになるにはまだ少しかかるようだけれど、そうなったら実感が湧いてくるのか。まだ夢の話のようでふわふわとしているというのが正直なところだった。

「男?女?」
「男だよ」
「よかったじゃん。女の子だったらお前超面倒な父親になってそう」
「否定はしない」

まぁ勿論、男でも変な女に引っかかってくれるなよ、とは思うだろうけど。覚えなければいけないことは山のようにあって、一人の人間を育てるということに不安も未だ大きい。けれど今は、これから始まる三人での生活に胸が躍って仕方なかった。

「名前、どうしようかな」

願わくば、ナマエ似の子がいい。きっと利発で勇気のある子に育つだろうと思う。

戻る



- ナノ -