サクラサク
ダメだ、もう次の模試の結果とともに私のことは海に捨ててほしい。
と、そんな非現実的なことを考えながらナマエはべっとりと机に項垂れる。受験生なんだから、大事な時期なんだから、そう言われてもう半年以上。何もかも投げ出したいというのが本音である。
目の前のテキストには難解な数式、公式、それから赤字で問題のヒント。隣に並べるノートには試行錯誤のあとがみられるが、正答に辿り着いているものはほとんどない。
家では集中が出来ないとか何とか言って図書館の自習室でやってはいるものの、一向に勉強が進む様子はなかった。

「はぁ……ぜったい無理……」
「何が?」

よく聞き知った声がかけられてナマエは勢いよく顔を上げる。向かいの椅子に腰かける彼を見とめ、はくはくと唇を動かす。

「う、宇佐美先輩……」
「うわ、引くほど進んでないね」
「今やろうと思ってたとこなんです!」

ナマエのテキストを覗き込む男の名前は宇佐美時重。ナマエのひとつ年上で高校では同じ委員会の先輩だった。くりんとした目が特徴的で、その目に見つめられるとなにか形容しがたいものに圧倒されているような気分になる。
ナマエの見え透いた言い訳を「どうだか」と笑って、宇佐美はナマエの解答のひとつをなぞる。

「これ、代入するとこが間違ってる。こっちは使う公式。それからこっちは──」
「ちょ、ま、待ってください!いまメモ取りますから!」

ナマエは勝手に解説を始めた宇佐美にそう言って慌ててシャープペンシルを持つ。いっぺんにそんなに言われたって覚えられるはずがない。宇佐美がナマエのそんな懇願を聞いてくれるはずもなく、ぺらぺらと話し続けた。

「もぉ、宇佐美先輩ちょっと待ってって言ってるのにぃ!」
「そもそもこんな問題で躓いてるナマエが悪くない?」
「わかってますよぉ。ユーシューな宇佐美先輩と一緒にしないでくださいっ!」

宇佐美がナマエの言葉を聞いてからナマエの額にピンっとデコピンをお見舞いする。痛ぁ!と大袈裟に痛がって見せて、そのあと結局ダメなところを初めから丁寧に教えなおしてくれた。なんだかんだと面倒見のいいところが浮き彫りになっているように感じた。


ナマエは、宇佐美のことが好きだ。好きになった明確なきっかけはよく覚えていない。醸し出す雰囲気がどこか一匹狼めいていて、不思議な雰囲気に引かれたのが始まりだったと思う。それから話してみれば意外とノリ良く話してくれて、ナマエが困っていたら何かと手助けをしてくれる面倒見の良さも意外なところだと思った。なんでも、下に二人も兄弟がいるらしい。お兄ちゃん気質と言われれば納得もいった。

「ナマエ、僕と一緒の大学行くとか言ってたけど、その分で合格できるの?」
「う……面目ない…」
「はぁ。どうせテキスト開くまで馬鹿みたいに時間かかるとかそんなところでしょ」

完全に図星を突かれてウッと押し黙る。学校や塾でならなんとなく頑張ろうと思えるけれど、自習となると中々難しい。スイッチが入ってしまえばいいものを、そのスイッチまでが途方もなく長いのがナマエの欠点だった。

「仕方ないから僕が勉強見てあげようか」
「えっ、でも宇佐美先輩も忙しいんじゃ……」
「ナマエより効率よく生きてるから余裕はあるんだよ」

何だか一言多い気がしてならないけれど、これは渡りに舟というやつだろう。彼は頭が良いし、なにより人に教えるのが上手い。宇佐美は無言を肯定と捉え、自分の腕に引っ付いている時計を確認するとナマエへ視線をやる。

「このあと時間あるでしょ?」
「え、あ、はい」
「じゃあ行くよ」

宇佐美がさっと歩き出してしまって、ナマエは慌てて背中を追った。どこかで勉強をみてくれるのだろうけど、図書室を出て何処へ行くつもりだろう。駅前のカフェか、それとも役所の自主学習スペースだろうか。

「どこ行くんですか?」
「僕が落ち着いて勉強教えられるところ」

ナマエが落ち着いて勉強できるところ、ではなく宇佐美が落ち着いて勉強を教えられるところ、という言い回しになんとなく彼らしさを感じて、バレないようにこっそり小さく笑った。
駅から少し東に逸れ、歩いたこともない住宅地の中を歩く。ナマエの家は図書館の最寄り駅から電車で15分ほどかかる場所だから、このあたりの地理は導線以外よくわかっていない。二階建てのごく一般的な家の前で宇佐美が足を止め、勝手知ったる顔で進んでいく。

「えっ!」

驚いて声を上げ、続いて表札を見た。「宇佐美」と書かれている。どこからどう見ても宇佐美の実家である。

「何」
「な、なにってここ宇佐美先輩の家じゃ…」
「そうだよ。言ったでしょ、僕が落ち着い勉強教えられるところって」

確かにそうは言ったけれど。早く、とじろりとした視線で急かされて、ナマエはおずおずと先を進んだ。タイルの張られた階段をひとつふたつと登れば、玄関の扉を開けて宇佐美が待っている。

「お、お邪魔します……」
「はい、いらっしゃい」

他人の家というものは何だかどうにも自分の家とは違う匂いがして落ち着かない。自分の家も他人にとってはそうなのだろうけれど、毎日出入りしているとよくわからなくなる。宇佐美の母や他の家族と会った時のために「こんにちは」「お邪魔します」の二つの言葉を口の中に用意していたが、それを使うことはないまま彼の部屋だという二階に案内されてしまった。

「テーブルのとこ座ってて。飲み物持ってくるから」
「は、はい……」

がちゃん、と宇佐美が扉を閉める。トントントンと階段を降りていく音がする。誰にも挨拶出来ないまま彼の部屋に上がりこんでしまったが良かったのだろうか。部屋の中をそろりと見回す。男兄弟のいないナマエにとって男の部屋に入ったのはこれが初めてだった。部屋の中はものが少なくてすっきり整理整頓されている。壁には黒にピンクのワンポイントが入ったジャケットが掛けられていて、きっと彼が着れば似合うことは想像に難くなかった。

「お待たせ」

ぼうっとしているうちに宇佐美が戻ってきて、お盆の上にマグカップふたつとクッキーを乗せていた。マグカップからは甘い匂いと湯気が立っている。

「ミルクティーですか?」
「そ。ナマエのはね。よく自販機で買ってたでしょ」

確かに中庭にある自動販売機のお気に入りはミルクティーだった。そんなことを覚えてくれていたのか、となんだかむず痒い気持ちになる。マグカップを受け取ってふぅふぅと息をかけ、ちょこんと唇をつけてミルクティーを飲んだ。甘さが口いっぱいに広がる。

「あの、私ご家族の方に挨拶出来てないんですけど……」

おずおずと宇佐美を見上げて言った。特別是非ご挨拶をと思っているわけでもないけれど、勝手にお邪魔するのもなにか居心地が悪い。宇佐美は一瞬きょとんとした顔になって、それからフンっと鼻で笑う。

「今日、誰もいないんだよね」
「えっ!」
「父さんは出張、母さんは実家、姉ちゃんは一人暮らしだし…弟たちはボーイスカウト」

指折り数えて説明して見せて、5本をきっちり折ったところでナマエを見つめる。正直「誰もいないんだよね」のあとはロクに頭の中に入ってきていない。ナマエがそのまま思考をショートさせていると、宇佐美が堪えきれないとばかりに腹を抱えて笑った。

「べつに取って食ったりしないってば。はは、あー、おかしい」
「そ、そんなこと考えてたわけじゃ……!」
「ハイハイわかったからテキスト出して。さっさとやるよ」

自分の頭の中を見透かされていたことを恥ずかしく思いつつも、宇佐美に急かされてナマエは鞄の中から数学のテキストを取り出す。図書館の続きから解説が再開された。宇佐美の部屋、という状況に初めは緊張して仕方がなかったけれど、テキストに没頭すればすぐに気にならなくなった。
それから二時間ほど集中してテキストを進め、なんだかんだと外はとっぷり日が暮れている。

「そろそろ門限?送るよ」
「え、いいですよ、駅までの道教えてもらえたら」

わざわざそんなことまで頼むのは忍びない。わかりやすい道を教えてもらえば駅なら辿り着くだろうし、それにマップアプリだってある。恐縮して辞退しようとするナマエの額をピンっとデコピンで弾く。

「女の子なんだから、黙って送られなよ」

宇佐美がさっとコートを羽織ったものだから、ナマエも慌てて身支度を整える。彼の後ろについて階段を降り、玄関から外に出ると宇佐美家の匂いはぱったり香らなくなった。
駅まではほんの10分少しで、その間には住宅とコンビニとドラッグストアだけが並んでいる。そっと宇佐美を盗み見ると、白い肌の鼻先が少しだけ赤くなっている。

「なに?」
「えっ、あっ、なんでもない…です…」
「ふぅん」

盗み見ていたことなんてあっという間にバレてしまって、視線を逸らしてももう遅い。宇佐美はそれ以上何も追求することはなく、黙ったまま二人で夜道を歩く。ところどころにある街灯の下を通るときだけ、スポットライトを浴びだようになる。

「ナマエ、勉強頑張りなよ」
「は、はい……」

駅ももうすぐ目の前、というときに宇佐美がそう言って、ナマエはこくこく頷いた。今の判定だと合否は五分というところだが、今後の頑張り次第では充分合格圏内を狙える。取り掛かるのが些か遅い、という欠点を除けば、さほど飲み込みが悪いというタチでもない。
駅の構内の一歩手前、宇佐美が足を止める。「今日はありがとうございました」と言おうとして、口にする前に宇佐美が口火を切った。

「待ってるから」

一瞬だけ手が触れる。すぐに解放されて、それでも指先に熱が残る。思わず目を見開いて宇佐美を見上げると、鼻の頭と頬がほんのりと赤くなっていた。寒いから、だけだろうか。

「ほら、電車来るよ」
「えっ!」

丁度電車の到着を知らせる音楽が鳴っていて、ナマエは慌てて改札を通り抜ける。目一杯に手を振れば、宇佐美も小さく手をあげてそれに応えてくれた。


一週間後、また「宇佐美の落ち着いて勉強教えられるところ」で勉強を見てくれるという話になった。もちろん宇佐美の家のことだ。今日も家族は不在なのだろうか。
彼の家の最寄り駅まで迎えに来てくれて、一緒に並んで住宅街を歩いた。この間は夜だったから、まるで別の道を通っているような気分になる。

「テキスト、進んだ?」
「はい。なんとか…だから今日は英語見てほしくって」
「受験英語なんてほぼ暗記じゃない?」

暗記じゃない、と抗議したところで受け入れてもらえるはずもない。何処がわからないのかがわからない、なんてことにならないように事前に多少纏めてきたつもりだけど、恐らく盲点を突くように鋭い指摘を飛ばしてくるに決まっている。まぁそれでも、最終的にはわかりやすくアドバイスをしてくれるのだろうけども。
歩くこと10分強、宇佐美と表札の掲げられる一軒家に辿り着いて、先週と同じように宇佐美が玄関のドアを開ける。

「あら、時重、おかえんなさい」
「ただいま」

ぴしり。玄関先に現れた人影に固まった。勝手に今日も家族は不在かと思っていたが、中年の女性がエプロン姿で立っている。もしかしなくても宇佐美の母であることは明白だった。
わた、わたわたと無駄に手を左右に振って、挨拶をしなければと頭を下げる。

「は、初めまして!ミョウジナマエです…!お、お邪魔します!」

緊張を絵に描いたような挨拶を宇佐美が笑ったが、彼の母は「元気があっていいわねえ」と悪い印象ではないようだった。

「時重、学校の後輩ちゃん?」
「彼女だよ」
「ンまぁー!この子ったら!」

げしげしと遠慮なく彼の母が肘で小突くようにして、宇佐美はどうともなくいつも通りの顔をしている。いやちょっと待て、今とんでもないことを言わなかっただろうか。いや、言った。彼女。確実にそう言った。
母親は「ゆっくりしていってねぇ」と奥に引っ込んでいき、宇佐美に促されて靴を脱いで階段を登る。頭の中では先ほどの会話が無限にリピートされ、宇佐美の部屋が閉じる音で再生が中断された。

「う、宇佐美先輩!」
「どうかした?」
「いま彼女って…!」
「なに、嫌なの?」

じろっとこちらを見る宇佐美にぶんぶんと勢いよく首を横に振る。「じゃあいいでしょ」なんて自信満々に言ってみせて、「さっさとやるよ」とテキストを広げるように促した。勉強会が終わったら、絶対ちゃんと言葉にしてもらおう。そう心に決めては見たものの、A判定とったらね、なんて条件付きで返ってきそうな気がして仕方ない。
真剣に英文を読み上げる宇佐美の顔をそっと盗み見る。耳の端がいつもより赤くなっていたのは、見間違いではないと思う。

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