ジェットコースター・ハニー
いつから好きだったのかと聞かれると、それを答えるのは非常に難しい。学生時代のときのように劇的なきっかけがあるわけではなく、気が付けばなんとなく「いいな」と思っていて、あっという間に「好きだな」に変わっていた。
部署の飲み会の席で隣になったことをきっかけに、彼女も日本酒が好きだと聞いて何度か飲みに誘った。下心がまったくなかったと言えば嘘になるが、彼女とただ二人で話しているのが楽しかった。
同じ会社で働いていればまぁまぁよくあることだと思うし、だから彼女にとっても例外じゃなかった。
月島の思い人であるミョウジナマエは、隣の部署の別の男に恋をしていた、というのを耳にしたのは不可抗力だった。就業時間後、残業前にコーヒーを入れようと給湯室に向かったとき、中から聞こえてしまったのだ。

「ナマエ、もう元気だしなって。別に男はタケモトさんだけじゃないじゃん」
「わかってるよぉ…でも同棲してる彼女いるなんて知らなかったんだもん…」
「飲みにいこ?恋の傷は恋で治すしかない!ね?」

中から聞こえてきたのは思い人であるミョウジナマエと彼女の同期の女性社員だった。タケモトというのは昨日「かねてから同棲していた彼女と結婚をする」と部長に報告していた月島より三期下の営業マンだ。話しぶりからするにナマエがそのタケモトに好意を寄せていたのは明らかだった。
うっかり聞こえてきてしまったとはいえこれ以上聞き耳を立てるのは趣味が悪い。月島はコーヒーを入れるのを諦め、エレベーターホールに設置してある自動販売機に向かったのだった。


正直に言ってしまうと、彼女に思い人がいたと知ってショックだったのが半分。彼女が失恋してある種自分にもチャンスが回ってきたのではないかと思う気持ちが半分というところだった。いや、むしろ後者の方が大きかったと言っても過言ではないかもしれない。
そんなときにおあつらえ向きに手に入れたのが、手元の優待券である。月島の通うロシア語教室の講師が株券の優待特典で貰ったものだが、自分はいかないから譲ると言われた。普段なら月島も遊園地になど興味はないため他の生徒に譲るよう進言するか、自分が貰ったとしても所帯持ちの誰かに譲るかするところだが、これを使わない手はないと思った。

「……ミョウジ、ちょっといいか」
「はい。あ、もしかして飲みですか?」

昼休み、ナマエが一人でいるところを見計らい、月島はそっと声をかけた。滅多なことで休憩時間に声をかけてこない月島が声をかけることといえば相当な急務か飲みの誘いである。そう心得ているナマエは愛想のいい顔を浮かべながらそう尋ねる。

「あー、飲みじゃなくってその…これ、貰ったんだ」
「遊園地の優待券?」
「ああ。ミョウジがよければ一緒に行ってくれないか?」

言った。一気に言ってやった。一体彼女からどんな反応が返ってくるのか想像もできない。仕事帰りに時おり飲むだけの会社の先輩から日中一緒に遊園地に行こうだなんて引かれるだろうか。いや、しかし言ってしまったものは今更取り消せるわけもない。恐る恐る彼女の反応を待つ。

「いいですよ。誰か誘います?あ、江渡貝さんとかこういうところ好きそうですよね」
「あー、違うんだ。二人で…どうかと思って」

色よい返事だが意図せぬ方向に流れてしまいそうになり、慌てて軌道修正する。ナマエは目を丸くして少し考えるように時間を取ったあと、もう一度「いいですよ」と誘いに乗った。内心ガッツポーズをしながらも、平静を装って月島は待ち合わせの日時を提案する。再来週の土曜、午前11時、二人が丁度乗り換えで使う駅で待ち合わせる話でまとまった。


そこからはもう大忙しだ。デートに着ていけるような服がまったく思い当たらず、同僚の前山と後輩の江渡貝を頼ってコーディネートをしてもらった。江渡貝からは「あの月島さんがお洒落に興味を持つなんて」と言われたが、もうそんなことは気にしてられない。
ついに迎えた当日、待ち合わせ時間の15分も前に時計塔の前についた月島は今日一日のシミュレーションを頭の中で繰り広げる。

「月島さん、お待たせしました」

まず彼女がどんな服装で来たとしても驚かないようにしなくては。普段の飲みは仕事帰りだからオフィスカジュアルなものが多くて、私服がどんなふうなのかさっぱり想像できない。フェミニンなスカート姿も可愛らしいと思うけど、パンツスタイルでも彼女のスタイルの良さが強調されていいだろう。

「月島さーん?」

遊園地といえばアトラクションであるが、ジェットコースターは好き嫌いがはっきり分かれるだろうからこちらから勧めるのは好ましくない。コーヒーカップとかメリーゴーランドとか、そういう方が女性は好きそうだ。もちろん、絶叫系のものが好きだったとしても月島自身は苦手ではないから、全種類制覇だって付き合える。
そこまであれこれ考えていると、突如として目の前ににゅっとナマエの顔が現れた。

「うぉっ!」
「あはは、驚きすぎですよ。何か考え事ですか?ずっと呼んでたのに」
「すまん、気付かなかった」

ちらりと時計を見ると、あっという間に待ち合わせの5分前になっていた。そんなに周りが見えなくなるほど考え込んでしまっていたのか。ナマエは動きやすいようにジーンズと花柄のブラウスで、ベージュのブルゾンを羽織っていた。ピアスはいつもつけていないような大振りで華やかなもので、鞄も小さいショルダーバッグひとつきりである。普段は見ることのできない私服にどきりとした。

「あー、じゃあ行くか」

服装を「可愛い」と褒めようと思っていたのに口に出すことが出来ず、そのままナマエを促して歩き出した。ナマエは少しも緊張した様子はなくて、それがありがたいような寂しいような妙な心地になる。
遊園地の最寄り駅まで電車に乗って移動すると、窓口で優待券を見せて入場した。休日ということもあり中は家族連れやカップル、学生のグループで賑わっている。

「わぁ、遊園地久しぶりに来ました」
「俺もだ」
「そうなんですか?優待券持ってるくらいだから好きなのかと思ったのに」
「ああ、これは知り合いに貰ったやつでな…」

話し出すと待ち合わせの時よりは幾分かスムーズにキャッチボールをすることが出来た。アルコールが入っていない分やっぱり少しぎこちなくはあるが。遊園地に久しぶりに来たというナマエは、いままであまり恋人とこういうところに来たことがなかったのだろうか。それとも一緒に来るような恋人がいなかったのか。

「乗り物、何か乗りたいのあるか?」
「うーん、月島さん苦手なのありますか?」
「いや、俺は特にない」

一番近くの園内案内板を眺めながらナマエはアトラクションをひとつひとつ見ていく。下調べのとおりコーヒーカップやメリーゴーランドなど、絶叫系が苦手な人間でも楽しめるものはたくさんあった。

「ジェットコースター…」

ナマエがぽつりと言った。何か悩まし気な視線が案内板に注がれている。

「ジェットコースターでいいのか?」
「あ、やっぱり女らしくないですかね?」
「いや、そんなんじゃないが……」

開口一番にジェットコースターと言われたことに驚いてしまい、思わず聞き返した。するとナマエが眉を下げてそう返してきて、どうやってフォローしようかと頭の中で算段する。ナマエが「やっぱりゴーカートとか?」と言ったから、大きな声で割り入った。

「ジェットコースターにしよう!」

あまりに大きな声になってしまって、今度はナマエが驚く番だった。しかも周りの客の注目をいささか集めてしまい、いたたまれなくなった月島は視線を左右に泳がせる。

「ふふ、気合入りすぎですよ、月島さん」
「……すまん」

ナマエは軽く笑い、二人は揃ってジェットコースターの方へと歩いていく。この遊園地の目玉の一つであるこれは他のアトラクションに比べて長い列が出来ていた。その一番後ろに並んで、するとすぐに二人の後ろにも列が伸びていく。

「月島さん、絶叫系嫌いじゃないですか?」
「ああ。俺は全然。女性はこういうの苦手な人が多いのかと思ってたから……すまん、これも偏見だな」
「ふふ、やっぱ怖いの嫌いっていう可愛い子多いですもんね」

お前だって充分可愛いのに。そう喉元まで出かかって必死で飲み込む。それは流石にあからさますぎる。列は思いのほか早く進んでいくようだから、想像よりも待ち時間は少なくて済みそうだった。
丁度前方でトロッコが一番初めの急降下をしたため、きゃー、と乗客が予定調和の悲鳴を上げる。

「ジェットコースター苦手な子って可愛いから好きって言ってるの聞いて、私も苦手ってことにしとこうとか思ったんですけど、ばかですよね」

それをじっと眺めながらナマエが口を開いた。誰がそんなことを言っていたのかなんてすぐにわかる。彼女の思い人だったタケモトだろう。声音のわりに表情は少し暗く、眉はしょんぼりと下がっていた。何を返せばいいのかと逡巡するうち、先に彼女が口を開く。

「ジェットコースター苦手な子が好きなんじゃなくて、好きな子がジェットコースター苦手なだけなのに」

それは確かに彼女のいう通りで、好きになったから相手の好みが可愛らしく思えているのだ。実際タケモトの恋人がジェットコースターが好きだったならきっと反対のことを言っている。それだけ些細なことで、そんな些細なことでも好きだから振り回される。

「…タケモトはそうかもしれんが、世の中の男が全員そうってわけじゃないだろ」
「月島さん…」
「いろんなのに一緒に乗れた方が楽しいと思うぞ、俺は」

ここで自分の好みを主張されても困るだろうと思う反面、これくらいしかフォローできる言葉が思い浮かばなかった。様子をうかがうようにちらりとナマエの方を見ると、何とも言えないぽかんとした顔でこちらを見上げている。

「そうじゃなくって。私、タケモトさんって一言も言ってないのに」

しまった。当たり前にタケモトの話だと思い過ぎてうっかり口が滑った。どうしてそんなことを知っているのかと思われただろうか。言い訳をしようにも元来そういうことは苦手なタチだ。数秒間あれこれと考え、月島は正直に「すまん」と謝ることを選択した。

「…実はその…知ってたんだ。ミョウジがタケモトのこと好きだったって」

タケモトが同棲している彼女と結婚をする、というのは同じフロアの社員には周知の事実である。ナマエの気持ちを知っていたとなればナマエが失恋したということも分かってしまうのが道理だった。そんなタイミングで誘って、下心の塊だと思われやしないか。下心があるのは間違いないが、自分は前からナマエのことが好きだったのだ。狙いすましたように近寄ってきたと思われたら本意じゃない。

「ふふ…ははは…月島さん、世間話下手すぎです」

そんなことわざわざ言わなくたっていいのに。とナマエは付け加えて笑った。これはどっちの反応だろう。図りかねているうちに列が進んでしまい、あっという間に二人の順番がきてしまった。スタッフの指示に従ってシートに座ると、安全バーががっちりと降りてくる。

「二人っきりで遊園地って、やっぱりデートですよね?」
「えッ!」

言葉の意味を問おうとした瞬間動き出してしまい、トロッコは大きな音を立てながらぐんぐんと上昇する。てっぺんまで辿り着くと一回勿体をつけるように止まり、そこから一気に急降下した。予定調和の悲鳴に彼女の悲鳴が混ざる。
足元に浮遊感を覚えながらトロッコは上へ下へ、一回転と忙しなく動いていくが、正直彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回ってそれどころじゃない。いつの間にかトロッコは終点に辿り着き、隣の彼女が「気持ちよかったですね」と笑った。
降車場で前の客についてトロッコを降り、その流れについて出口に向かって歩く。ナマエに声をかけようとしたら、見透かしたような絶妙なタイミングでナマエが振り返った。

「もう一回ジェットコースター乗りましょう!」

言うなり彼女は軽い足取りで先を行き、月島は「ミョウジ!」と呼び止めて手首を引いた。

「なんだ、その……」

口ごもる月島をナマエは急かさなかった。丁度出口を出たところだったから、立ち止まる二人を後ろの家族連れやらカップルやらが追い越していく。聞きたいことも言いたいこともいろいろあって、どれから口にするのが正解かよくわからない。そうだ、これをまだ言っていなかったのだ。

「…その服、似合ってる。可愛いな」

ナマエがはにかんだように笑った。ジェットコースターの列は一回目より伸びている。並んでいる間、彼女とどんな話をしようか。

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