魔法をかけて
高嶺の花、という表現を男にも使うものなのか、考えたこともなかったが、彼にはその言葉ほど相応しいものはないと思う。容姿と、才能と、家柄と、人間の欲しがるものの殆どを持っているのではないかと思われた。
もっとも、ほかの同級生から言わせれば性格に難あり、であるが、ナマエにとってはそれさえ彼を引き立てるチャームポイントなのではないかと思っていた。

「ナマエ、マジで趣味悪すぎ」
「そんなことないよ。硝子ちゃんがまだ五条くんの素敵なところに出会ってないだけだよ」
「一生出会いたくもない」

家入の部屋で定期的に行われるお茶会みたいな催しでは、毎度ナマエが五条の素晴らしさを賛美し、それに家入が顔を顰めていた。彼の良さに気が付いていないなんて勿体ない、と思う反面、万が一家入が彼を好きになってしまったらどうしよう、と思うと気付かないでいて欲しいと思うずるい部分もあった。

「はぁ…もしもアンタが五条と付き合うなんて話になったらどうしよう」
「あはは、それはないよ」
「わかんないじゃん。こんなに可愛い私のナマエだよ?」
「ふふ。硝子ちゃんのではないけど、ありがとう」

家入がナマエの頭をまるで抱えるようにして抱きしめ、髪をかき混ぜるように撫でる。ごく少人数で構成される呪術高専において同性の同期がいるというのも、その同期と円満な関係を築けているというのも本当に有難いことだった。
出来れば四人で仲良くしたい。5年間変わらない面子なのだ。波風は立てたくなかったし、立てたところでナマエに勝算はないと予めわかっていた。

「五条くん、そういう相手いるみたいだし」

予定よりも随分冷たい声が出てしまったので、慌てて表情だけでもと口角を上げる。声と顔がちぐはぐになってしまって、口元はひどく引き攣っていた。


非術師の家庭出身であるナマエが五条に出会ったのは高専に入る直前のことだった。入学前の説明を受けに来ていて、その帰りのことだ。中学でスカウトを受けて何となく呪術界のことを教えてもらったけれど、まだまだわからないことだらけだった。

「じゅりょく、じゅれー、じゅつしき、とばり……」

言葉ばかりを覚えて全く身になっていないそれらを指折り数える。スカウトされたあと、実演と称して多少は見せて貰ったけれど、正直未だにピンと来ていない。しかも術式というのは持っている人間と持っていない人間がいて、持っている人間の中でも特性が全然違うらしい。ナマエにも一応術式は備わっていたが、夜蛾に会うまで自分の術式しか見たことがなかった。

「はぁ、途方もない……」

高専の建物のひとつから降りるための階段は、恐らく100段以上あるのではないかと思われた。この階段も途方もないと思うし、自分が呪術師になる道というのはもっと途方もないと思える。
しかも視える人間というのは随分と稀有な存在だ。その中から呪術師になれる素養を持って呪術師になろうと学びに来る人間はたったひと握りである。ナマエの同級生は他に三人。女子学生がひとりと男子学生が二人だ。廃校寸前の離島の学校レベルの人数であるが、ひと学年に4人というのは別に少ないわけではないらしい。

「同級生の女の子、仲良くなれるかなぁ」

ため息をつく。先行きが不安だ。4人しかいないのだから、そのうちのひとりとでも仲が悪くなった時点で詰みである。はぁ、とため息をついたときにうっかり小石を踏んでしまって、ぐらりとバランスを崩した。

「きゃっ……!!」

やばい。この高さから落ちたらただでは済まない。咄嗟に「受け身」なんて言葉が頭に浮かんだが、練習もしていないのだから受け身がとれる訳もない。呪術高専で階段を踏み外して怪我しましたなんて恥ずかしいにも程がある。これからもっと危険な世界に足を踏み入れようというのに。

「どんくさ」

いつまで経っても階段にぶつかる衝撃は訪れず、代わりに聞こえてきたのはまだ少し少年めいた男の声だった。ナマエは足元に浮遊感を覚えて恐る恐る目を開け、すると自分が空中に浮いていることに気が付いた。

「え!?ええ!?」

ナマエを追い越すように背後から人影が歩み出る。人影がは長身の男で白い髪が風でふんわり揺れる。真っ黒な丸いサングラスをかけていて、その隙間から目の覚めるような青色が覗く。まるで宝石のようだ。
ゆっくりと階段に降ろされ、降ろされ、彼を見上げるような姿勢になった。見上げると白い髪は透き通って見え、きらきらと毛先が輝く。

「これ、あなたのジュツシキ?」
「あ?あぁ…そうだけど…」
「すごい!空を飛べるなんて魔法使いみたい!」

ナマエは興奮気味にそう言った。術式にはいろんな特性のものがあると聞いていたけれど、まさか空を飛べるなんて思わなかった。まるでこの間の秋に見た映画のヒーローのようだった。

「……お前、俺のこと知らねぇの?」
「え?ご、ごめんなさい。私ここに来るのはまだ二度目で……」

彼は有名人かなにかなのだろうか。「俺のこと知らないの?」と堂々聞くあたりかなり名の知れた人物なのかもしれない。もっともそれがこの高専の中においてなのか、芸能人のような世間一般においてなのかは分からないが。

「別にいいけど」

驚いたような拗ねたような何ともいえない顔のまま彼はそう言い、階段を一段下がってナマエの隣に立つ。まだ何かあるだろうか、と思いながら頭の上にはてなマークを飛ばし、それから「あの、名前聞いてもいいですか?」と尋ねると「ホントに知らねぇんだな」と感心したような声が返ってくる。

「五条悟」
「五条さんですね。私はミョウジナマエといいます。来年から呪術高専でお世話になるので、よろしくお願いします」

ぺこりと改めて頭を下げ、ナマエは階段をゆっくり降り始める。彼はここの学生だろうか。それとも窓と名前のついているらしい外部の協力者だろうか。いやきっと空を飛べるような術式を持っているのだから呪術師には違いないはずだ。ひょっとすると4月にはまた会えるかもしれない。

「魔法使いって……恥ずかしーこと言う奴……」

新学期への期待を膨らませるナマエの背中を見つめながら、彼はそっとそう呟いていた。


家入に言われ、以上のなれそめを説明した。もっとも、五条の術式は空を飛ぶなんて単純なものではなく、もっと難解で貴重なものであると入学してすぐに知ったが。

「ちょっと待って、全然キュンとするポイントがわからないんだが?」
「えっ!うそ、すっごくパウルみたいじゃない?」
「パウル…って…ああ、ジブレのか」

秋にみた映画のヒーローが空を飛ぶのだ。そのヒーローは魔法使いで、主人公の手を引いて空中散歩をするシーンがあって、それが大変に美しい。あんまりにも感動したものだから、映画館に三回通った。

「ナマエ、五条に夢見すぎじゃない?」
「ふふ、そんなことないよ。だってパウルもすっごく我が儘で自分勝手だもん」

魔法使いのパウルは何もアメリカンコミックに出てくるスーパーヒーローでもないし、映画だって勧善懲悪的内容ではない。それと同じで五条のちょっとした理不尽さや面倒くささを可愛らしいと思ったし、戦っているときの生き生きとした姿は恐ろしくて美しいと思った。

「五条くんからはいつも目が離せないの」

ナマエがうっとりと声を漏らすと、家入は不服おとばかりに口を歪める。あんまりにもあからさまな表情をするものだから思わず笑ってしまった。

「…そんなに好きなのに告らないんでしょ?」
「うん。だって五条くん、婚約者がいるんだって。たまたま聞いちゃった」
「まぁ五条家ならあり得るか…」
「すごいねぇ。学生の頃から婚約者がいるなんて漫画でしか見たことなかった」

住む世界が違う。そのことを突きつけられる。呪術界に入って間もないときはよくわかっていなかったけれど、高専で過ごすうち彼がどれほど特別な存在であるかを思い知った。然るべき家柄の女性を娶り、術式と血統を守る。それが彼に課せられた役目だ。平々凡々な家に生まれた自分とはわけが違う。


どうやら五条の婚約者が高専に顔を出しているらしい、と聞いたのは家入とそんなやり取りをした一か月後のことだった。御三家とは本来呪術高専で教育を受ける必要のない家柄である。それに類する家柄だろう婚約者も呪術高専には通っておらず、五条家のなかで呪術的教育を受けているらしい。

「すみません、道を伺ってもよろしいでしょうか」
「あ、はい」

えんじ色の鮮やかな着物の少女に声をかけられた。見たことのない少女だったけれど、呪術界にも高専にも入って日が浅いナマエにとっては見知った顔でないことはさして珍しいことでもなかった。彼女は応接に用事があったらしく、それを終えて案内を断り高専の中を見て回っていたそうだが、うっかり迷ってしまったらしい。

「お恥ずかしいですわ。ひとりで平気ですなんて一人前に言ってみせたくせに結局迷ってしまって」
「あはは敷地広いですからね」
「通りすがりの方に甘えてしまって本当にお恥ずかしい。こんなことなら大人しく悟様に道案内をお願いすれば良かった…」

はぁ、と少女がため息をつく。五条の婚約者が来ているらしいという前情報があった以上、この少女がどういう立場の人間であるかを想像するのは難しくなかった。ああ、こんな綺麗な子が婚約者なのか。脈なんてないとわかっているから平気だ、と思っていたはずなのに、五条の婚約者を目の前にして想像よりも傷ついていることに自分で驚いた。
ナマエは門まで五条の婚約者を送り届ける道中、彼女と他愛もない話をした。少し世間とずれているかも知れないが概ね愛想のいい少女で、きっと五条にはこういう綺麗な少女が相応しいのだろうと思った。彼女の背中を見送りながら、ナマエはぽつんと言葉を漏らした。

「……映画みたい」

素敵なヒーローには、素敵なヒロインがつきものなのだ。五条はその舞台に立つべき人間であり、その隣は自分じゃない。わかりきっていたことで、知っていたこと。
ナマエが踵を返し、寮のほうへ戻ろうとすると、目の前に大きく影が落ちる。はっと顔を上げれば、五条がじっとこちらを見ていた。

「あ、五条くん……あの、婚約者さん、今帰っちゃったよ?」
「知ってる。見てた」
「えっと……見送ってあげなくて良かったの?」
「べつに」

ぷいっと五条は視線を逸らした。彼が何を考えているのか全く見えてこなくて、ナマエはうろうろ視線を泳がせる。心の中は複雑だった。自分が口出しできる問題じゃないし、そもそもその立場にない。けれど五条の婚約者を目の前にして、それを圧倒的に理解をし、彼のことを遠く感じた。

「……お前、何とも思わねぇの?」
「え?」
「だから!俺の婚約者見て何とも思わなかったのかって聞いてんだよ!」

五条がぐっと詰め寄り、ナマエの両肩を掴んだ。無理やりに視線が合い、真っ黒なサングラスの隙間から目の覚めるような青が覗く。初めて見たときにこの青を宝石みたいだと思ったけれど、そんな例えでは勿体ない気がした。もっともっと特別なものだ。

「……綺麗な子だと思った。五条くんの婚約者になれるのは……ああいう子なんだって」

慎重に言葉を選んだ。五条がどういう意図で聞いてきたのかはわからないけれど、嫉妬であの少女のことを悪く言ってしまわないように細心の注意を払った。それでも本音を言えば嫉妬にまみれて醜いことしか思えなくて、ナマエは逃げ出したい気持ちになった。
ぎゅっと目を瞑る。このままでは彼の前で泣いてしまいそうだ。そうなったらもう言い訳が出来ない。

「…俺のこと好きになれ」

五条の声がぽつんと降りてくる。一瞬何を言われたのか頭が追い付かなくて、思わず目を開けてぱちぱちまばたきをする。五条の青がナマエを焼くように見つめる。彼の白い肌がほんのりと赤くなっていて、それまで観察してやっと何を言われたかを理解した。

「なに言ってるの!五条くんには婚約者が━━」
「あんなもん家が決めただけだっつーの!俺が当主になればどうとでもできる!」
「だけどあんなにお似合いな子……」
「似合うかどうかなんて他人が勝手に決めることだろ!」

いくつも自分に言い訳をして、五条がそれをすべて振り払ってしまう。彼とは住む世界が違って、あんなに綺麗な女の子が婚約者で、こんなにも遠い存在で、だけど全部全部分かっていても好きでいるのをやめられない。

「魔法使いなんだろ、俺は!だったら魔法にかかってみろよ!」

らしくなくそんな夢見がちなことを言ってみせる。白い髪は初めて会った時のように透き通り、毛先がきらきら輝く。ナマエは自分の肩を掴んでいた五条の手に指先を添えると、そのままぎゅっと握りしめた。

「……魔法なんか、もうとっくにかかってるよ」
「遅いくらいだ、ばか」

あの映画のヒーローも青い目をしていた。だけど彼のほうが綺麗な青かもしれないなんて、惚れた弱みにもほどがあると思う。

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