初恋のお味
初恋は叶わない、なんてジンクスを少女漫画で見ていた時は「なんて切ないんだろう」と胸に手を当てたものだけれど、自分の番が回ってきたらそれどころじゃなかった。初恋というものは恋をする人間ならば誰しも経験することで、ナマエにとっては16歳になる年のこの恋こそがそれだった。

「絶対誰にも言えない…」

相手は同じ呪術高専の夏油傑。初めて見たときは地元のヤンキーの如きボンタン姿に、この先五年間も怖い人と一緒なのか、と先が思いやられるようだった。しかし落としたハンカチを拾ってもらう、なんて少女漫画もびっくりのベタなイベントを経て、ナマエはその優しさにすっかり虜になっていた。
いままで恋愛の類は他人事であり、幼いころにありがちだという近所のお兄ちゃんや幼稚園の先生への恋というものも経験したことがない。つまりこれが正真正銘の初恋なのである。

「ねぇ、硝子ちゃんって初恋いつだった?」
「初恋?」

高専唯一の同性の同期である家入にそうさりげなく話題を振る。家入は少しぽかんとした後ににやりと口元を歪めた。

「私は幼稚園のとき。近所の中学生のお兄ちゃん」
「そっかぁ。えっと、そのお兄さんとは…」
「別に何にも。初恋のあるあるでしょ」

流石に推定10歳上の、しかも中学生と幼稚園児だ。何かあるはずがないが、やはり彼女の初恋も叶わぬ恋として終わったらしい。やはり初恋というものは叶わずに終わってしまうものなのか。実績だけが積み上がる。

「ナマエは?」
「えっ…」
「ナマエの初恋は?いつ?」

逆に質問を返されてしまって、とはいえ答えさせておいて自分だけ答えないなんていうのはフェアじゃない。でも言ってしまえばこれをはっきりと初恋と認定してしまうことであって、そうなれば叶わないものになってしまうということだ。

「ま、まだ…!まだしたことないッ!」
「ふぅん、そうなんだ」

嘘をついてしまうのは申し訳ないけれど、これだけは許してほしい。ナマエの真っ赤になる顔を家入はにやにやと面白そうに見つめていた。


最近プリンにハマっている。固いやつじゃなくて、とろとろのふわふわのいわゆる「なめらかプリン」というやつだ。呪術高専からあまり離れていないハブ駅の構内にプリン専門店があり、そこの看板商品がナマエのお気に入りだった。

「あ、あの……新作のクリームスペシャルって…」
「大変申し訳ございません。本日午前の入荷分が売り切れてしまっておりまして…」

がん、と頭をトンカチで叩かれたような気分になった。クリームスペシャルとは文字通り看板商品であるプレーンのプリンにホイップクリームがドドンと乗っている今月発売の数量限定販売新商品である。
ナマエは「そうですか…」としょぼんと肩を落としながら踵を返した。午後からは家入と寮でお茶会をしようと約束している。店員の口ぶりでは午後にも入荷はあるのかもしれないが、それを待っているわけにはいかない。

「はぁ、シュークリームにしようかな…でも硝子ちゃん甘いの好きじゃないし…」

クリームスペシャルを今日のお茶会のお茶菓子として持ち込もうとしていたのだ。ここのプリン専門店はミルク感が強くて甘さが控えめで、だから以前買って行った時も家入がお気に召してくれた。

「よし、シュークリームにしよう」

ここでうだうだと考えていても仕方がない。クリームスペシャルのことはきっぱり忘れて次にいかなければ。ナマエは自分をそう納得させ、改札を出て一番近くにあるビルの地下に店を構える生地のサクサク感を売りにしたシュークリームを売っているパティスリーを目指した。


無事シュークリームを調達して高専に戻ると、門の近くで白髪の長身を見つけた。同期の五条だ。今から任務にでも行くのか、むすりと機嫌が悪そうだ。

「五条くん、お疲れさま。えっと、今から任務?」
「おー、まぁな」
「そっか。気を付けてね」

五条がいるということは夏油も一緒なのではないかと思ったが、そういうわけでもないらしい。ちろりと視線だけで夏油を探してみたけれど、そばにも後方にもいないようである。

「傑なら別任務」
「えっ!」
「なんだよ、傑のこと探してたんじゃねぇの?」

頭の中を読まれるようなタイミングでそう言われて、ナマエは「そんなこと…!」と言いながら手をパタパタと左右に振る。五条が面倒くさそうにナマエを見下ろす。第一なんの根拠があってナマエが夏油を探していると思ったのか。

「な、なんで私が夏油くんのこと探してるなんて……」
「は?いつものことだろ?」

あわ、あわ、あわ、とでも効果音のつきそうな始末でナマエがどんどん墓穴を掘っていく。訝しむように五条が視線をやり「ひょっとしてお前傑のこと──」核心を突くようなことを言われてしまいそうになり、ナマエは言葉の続きを遮るように「硝子ちゃんのところ行かないと!!」と慌てて口走る。

「硝子なら緊急の呼び出し食らってさっき出て行ったけど」
「え!」

嘘だ、と思ってケータイを確認すると、怪我人が出たために遠方の県に緊急の呼び出しを受けた旨が謝罪とともに並んでいた。反転術式を他人に行使できるという稀有な能力を持っているために、家入がこうして緊急の呼び出しを受けることは少なくない。
それにしても今日というのはタイミングが悪い。ナマエの手の中には買って来たばかりのシュークリームがある。

「五条くん、シュークリーム食べる?」
「くれんの?」
「うん。硝子ちゃんとお茶会しようと思って買ってきたんだけど、お茶会出来ないみたいだから」

ふーん、と相槌を返しながらナマエの差し出すシュークリームの箱を受け取ると「サンキュー」と機嫌よく言いながら踵を返した。数メートルのところで早速箱を開けている。
さて、すっかり身軽になってしまった。別に全部をあげてしまうことはなかったかもしれないが、まぁひとりでシュークリームという気分でもなかったし、また別の機会でいいだろう。

「…急に暇になっちゃったなぁ」

今日は完全にオフで、だからといって予習復習をしようというほど優等生でもない。寮に戻ると自分の部屋から文庫本を持ち込んで、談話室のソファに座ってページをめくった。わざわざ談話室で本を開くのは、誰か帰って来ないかな、という期待があるからだ。誰か、が誰なのかは言うまでもない。
一時間ほどそうしてだらだらと読んでいた部分にスピンでブックマークをした。文庫本にちょろりとついている紐がスピンという名称であるということは夏油から教わったことだった。

「ナマエ」

どきん、と肩が跳ね上がる。背後からかけられたのは夏油の声だ。聞き間違うはずがない。ナマエは声のほうをそっと振り向く。制服姿の夏油がひょいっと箱を掲げた。

「夏油くんおかえりなさい。任務お疲れさま」
「ただいま。ナマエがひとりで留守番してるっていうから急いで帰ってきたんだ」

多少語弊があるとは思うが、それも誰に聞いたんだろう。ナマエが首を傾げれば、夏油が「悟からメールがあってさ」と情報の出所を補完した。そんなことだろうとは思ったけれども、そんな言い方じゃ子供みたいだし、しかも必要以上にそれを寂しがっているように聞こえて恥ずかしい。

「留守番って、たまたまひとりになっただけなのに…」
「フフ、お土産買ってきたから」

ちょん、と夏油はローテーブルの上に先ほど掲げた箱を置いた。そのロゴに見覚えがあって、しっかり確認すると、それがお気に入りのプリン専門店のものであることに気が付いた。

「ナマエ、ここのプリン好きだったよね?限定の新作が出てるらしくて、それ買ってきたんだけど…」
「えっ、もしかしてクリームスペシャル?」
「そうそう。って、あれ、もう食べたことあった?」

ナマエはぶんぶんと勢いよく首を振る。夏油が箱を開くと、まさにそこには自分が午前中に買い逃したクリームスペシャルがふたつ鎮座している。運命だ、なんて大袈裟に考えているあいだに、夏油が「飲み物用意してくるよ」と言って給湯室に引っ込んでいった。
箱の中のクリームスペシャルは燦然と輝いている。ホイップクリームの上にはいちごがちょこんと乗っていて、それがまた可愛らしい。

「はい、紅茶。それからスプーンも」
「ありがとう」

戻ってきた夏油からアイスティーの入ったグラスとスプーンを受け取る。「食べなよ」と促されて、ナマエはゆっくりスプーンを差し入れた。ホイップクリームの層をじゅわっと通過して、プリンの部分に到達したことを確認してから両方がいい塩梅になるように掬い上げると、慎重に自分の口へと運んだ。

「んっ!おいひい!」
「フフ、それは良かった」

ナマエの反応を夏油がニコニコと見つめる。ナマエはその視線には気付かずに、目の前のクリームスペシャルに夢中だった。三回ほどテンポよくスプーンを口に運んだあと、満足そうに手を止め、夏油のほうにちらりと視線を向ける。

「私、今日これ買いに行ったんだけどね、午前中の入荷分は売り切れちゃったって諦めて帰ってきてたんだ」
「そうなの?じゃあ丁度良かったね」
「うん。ありがとう。まさか夏油くんが買ってきてくれるなんて思ってもみなかった!」

夏油は自分のプリンにそっとスプーンをさし入れ、一口分を掬い上げて口に運んだ。ナマエよりも随分大きな一口である。あまり口が大きいほうというイメージはなかったけれど、こうしてまじまじと見ると自分とは全然違う。

「美味しいね。ナマエのおすすめの店ってだけあるな」
「ふふ、プレーンのも美味しいけどね、クリームスペシャルみたいに期間限定で出るのも美味しくて、いつも楽しみにしてるの」
「そうなんだ。甘いのって普段そんなに食べないんだけど、これならいくらでも食べられそうだな」

フフ、と夏油が小さく笑う。自分の気に入っているものを自分の好きな人に認めて貰えるというのはやっぱり嬉しいことだ。彼は誰にでも優しくて、だから同期というだけの間柄の自分にも優しくしてくれる。初恋のジンクス通りにそれが破れてしまって、こうしてささやかな時間さえぎくしゃくなってしまったらと思うと、やっぱり余計なことは考えずにこのままの関係でいた方がいいと思える。

「ナマエ、くちの端についてるよ」
「うそ、どこに…」

ナマエが悶々と考えていると、それを割くように夏油がそう言って、ナマエが反応を返す前に彼の指が伸びてくる。顎に人差し指をかけて軽く救い上げ、まるでそのままキスをするかのようにしてから、親指で唇を拭っていく。その仕草に頭が一瞬ショートして、それから顔にとんでもない勢いで血が集まっていくのを感じた。

「…初恋は叶わないってジンクスがあるけど、あれって本当だと思うかい?」
「えっ…」

夏油の涼し気な顔がそっと近づき、ナマエの額にキスをする。柔らかい唇の感触が残されて、じわじわとそこから侵食されていくような感覚に陥った。夏油はナマエの顎から指を外すと、今度は耳の輪郭を確かめるようになぞる。

「私の初恋は確か小学校の時だったと思うけど…残念ながら叶わなくてね」
「そ、う…なんだ…」

彼の初恋とは一体どんな相手だったんだろう。彼に好かれていたという事実に見たこともない誰かに嫉妬をし、叶わなかったという事実に浅ましくも勝手に安心をした。何故そんな話をするんだろうか。夏油が「ナマエのはどうかな?」と尋ねる。切れ長の目に縫いつけられているような気分になって、途切れ途切れの言葉で「わ、た…し…?」と何とか聞き返した。夏油の指先が耳から離れ、所在をなくすナマエの右手に触れる。

「ナマエの初恋、私が叶えてあげよう」

夏油はそう言って、ナマエの手の甲をすりすりと親指でさすりながらじっと見つめる。どうして知ってるの。どこで気が付いたの。叶えてくれるってどういうこと。嬉しいとか恥ずかしいとかいろんな感情がぐるぐる自分の中を巡っていって、もうなんにも言えなかった。

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