余裕なんてありません
同棲を始めて一年と少しの恋人がいる。呪術師なんてものをしている限りはパートナーなど作らないと決めていた私の考えを覆した、どうしようもなく愛しいひと。始めはささやかな感情で、少しの時間を共有するうちに私の気持ちは瞬く間に大きくなっていった。一度は身を引くことも考えたけれど、誰かが隣に立っていると想像しただけで胸を掻きむしりたくなった。そんな感情を認めてやらないわけにはいかず、私は恋という感情に諸手を上げて降伏した。
7歳という歳の差は、まだ彼女の年齢を考えるとかなり大きなものだろうと思う。私だって二十歳そこそこの女性をまさか好きになるなんて思っていなかった。でも実際に交際してみるとそんな差を壁に感じることはあまりなく、お互いの居心地のいい場所がお互いに居心地のいい距離だった。
目下の問題は、彼女が男女問わず人気者というところだろうか。とくに五条さんから目をかけられているのは恋人としてはいただけない。

「建人さん、明日って高専行きますよね?」
「ええ、昼前から近隣で任務があります」
「じゃあ一緒に出ても良いですか?」

ベッドに寝転がりながらナマエさんがそう尋ねた。婚約したことを機に私たちの関係を正式に報告した。報告したといっても親しい間柄の人間には言っていたから、何をいまさら、という反応をされることが殆どではあったけれど。

「もちろん構いませんが、ナマエさん明日高専に用事ありましたか?」
「えっと、任務じゃないんですけど五条さんに呼ばれてて」

ぴきり、と自分の中で苛立ちが音を立てる。しかし婚約までしておいて些細なことで腹を立てるというのも格好悪い気がして、私はなんとかその苛立ちを飲み込んだ。その代わりに隣で横になるナマエさんをぐっと引き寄せ、ぴったりと抱きしめる。

「あの人、ナマエさんを私の恋人だってわかってるんですかね」
「はは、流石にわかってますって。だって最初に建人さんのことで相談乗ってくれたのも五条さんなんですから」

腕の中でナマエさんがくすくす笑った。そもそも彼女に他意などないし、腹立たしいことに相談をしたというのが割と重要な事実である。釈然としないのは、結局のところ五条さんの本音というものが見えないからかもしれない。まぁそもそも、あの人の本心なんてわかったためしは一度もないが。

「それにしても、ナマエさんいい度胸ですね」
「えっ、何がですか?」
「ベッドの中で他の男の名前を出すなんて」

私の言葉にこの先の展開を予想したのか、ナマエさんが慌てて「そう言うのじゃなくて!」と弁明を始める。あいにくだが、そう言うのじゃないことは百も承知だ。承知のうえでそれでもやはり、ベッドの中で他の男の名前が出てくるのは気に入らないに決まっている。

「覚悟はいいですか?」
「お、お手柔らかに……」

私は抱き込んだナマエさんの身体の上にのしかかり、そのまま逃げられないように両肘を顔の横についてキスをする。付き合い始めたころに比べれば上手くなっている彼女のキスが、私のせいで私のためだと思うとたまらない満足感があった。

「んっ、ん、ん…」
「ナマエさん、少し唇を開けて」
「ひゃい……」

ナマエさんは返事をして素直に口を開け、その隙間に自分の舌を差し入れる。当然皮膚よりも熱く、お互いの熱を分け合うようなそれに気が昂っていくのが自分でわかる。ナマエさんは交際経験という意味で私よりも前に付き合っていた男性がいるそうだが、期間が短いこともあって殆どの初めてを私が貰っていた。

「け、んとさ……」

キスの隙間に私の名前を呼んだ。はじめは息継ぎだって出来なかったくせに、いつの間にこんなにも私を煽るのが上手くなってしまったのか。
明日の任務は何時だっただろう。あまり彼女を疲れさせないようにしなければいけないのは承知のことだけども、残念ながらそれさえ出来そうにない。


翌日、結局いつもよりも二十分遅い時間に起床して、朝の支度は相当慌ただしかった。なんとか出発予定時刻の五分遅れで揃って車に乗って高専に向かう。ひとりの時はいままで電車か、任務地の立地によっては補助監督に迎えを頼むかということが多かったが、二人で行きかえりの時間が分かっているときは車の方が効率的である。

「五条さん、何の用事でしょうね」

私がそう話を振ると、ナマエさんは助手席でわかりやすく跳ねた。昨日これを口実にしたことを忘れているはずがないのだから反応としては当然だ。「私が振った話ですから」と付け加えるとやっと少しだけ緊張をとく。

「本当に思い当たることないんですよねぇ。仕事関係の話で五条さんから私なんかに申し送りなんてないでしょうし、最近はスイーツの買出しにも行かされてないし…」
「いや、行かせる方が問題だと思いますけど」
「まぁそうなんですけどね」

実際行って来いと言われて断れるはずもない。簡単に断れるのであれば伊地知君あたりはもっと快適に仕事が出来ているはずである。ひとの恋人をそう簡単に使いっ走らないでくださいとはっきり言ったのが効果的だったのか。真相は定かではないが。

「まぁ、変なこと言われたらはっきり断ってください。私の名前を出していただいて構いませんので」

私が大真面目にそう言うと、ナマエさんは「あはははは」と笑った。いや、そこそこ本気で心配しているんだが、これは伝わっているのだろうか。
そこそこで高専の駐車場に到着し、ナマエさんは五条さんを探しに彼の私室同然と化している空き部屋へ、私は呪術師の待機する控室へ向かった。今日の任務は埼玉県の推定一級呪霊の祓除任務である。出現条件も特性もそれなりにわかっていることから対策もしやすく、比較的簡単な任務だ。定時にはしっかり終わらせて、五条さんの用事のあと家入さんを手伝うというナマエさんと一緒に帰路につき、途中でお気に入りのスペインバルに寄る予定である。

「あっれー七海じゃん。おつかれサマンサー」

控室の中にある椅子に座って新聞を読んでいると、扉の方から絵に描いたような軽薄な声がしてちろりと視線をやる。そこには黒づくめに目隠しをした任務スタイルの五条さんが立っていた。

「お疲れ様です。ナマエさんに会いました?」
「いや?」

五条さんはそう否定して長い足を持て余しながら私の斜め向かいに座った。ポケットから取り出したチョコレートの包みをピリピリ開けて口の中に放り込む。呼び出したことを覚えていないのか。

「ナマエさん、アナタに呼ばれてると言っていたんですが」
「は?……あー、わかったわかった」
「一体何だったんです?」

五条さんは数秒考えてやっと何のことかを思い出したふうだった。この様子じゃ大した用事じゃないことは間違いないだろう。現に焦ってナマエさんを探しに行こうというふうでもなく、もうひとつチョコレートを包から取り出して口に放り込む。

「大した用事じゃないよ。預かりもん渡すってだけ。てか今日じゃなくてもいいのに」
「預かりものって?」
「歌姫からのお祝い」

どこをどう行き違っていたのか、五条さんの言い方が悪かったのかナマエさんの捉え方が悪かったのかはわからないが、何も非番の日に出てくることはなかったらしい。五条さんが三つ目のチョコレートを放り込みながら「ミョウジ、非番に出てくることないのに」と付け加える。どうして普段勤務表もなにも見ない五条さんがナマエさんの非番を知っているのか。

「随分ナマエさんのことを目にかけているようですが」

苛立ちが完全に声音に出た。刺々しい声はどこをどう切り取っても嫉妬を隠すことが出来ていなかった。そんなことに五条さんが気付かないわけがなく、目元が隠れていてもわかるくらいニヤニヤニヤと笑みを浮かべた。もうここまできたら自棄だ。

「五条さん…一応はっきりさせてください。本当のところナマエさんのことどう思ってるんです?」
「うわぁ、丸出し」
「丸出しでもモロ出しでも結構です」

読んでいた新聞を閉じ、ローテーブルの上に置く。サングラス越しの視線をじろりと送って、五条さんはさらに笑みを深める。

「ミョウジのことは気に入ってるよ。真面目だし、面白いし、一生懸命だし、一緒にいたら楽しいし」
「それは──」
「ただ、七海が思ってるような感情はないよ。これはマジ。妹とか、こんな感じなのかなぁってところ」

五条さんの言葉にきゅっと言葉を飲み込んだ。純粋な親愛というのもそれはそれで厄介な気もしなくもないが、ナマエさんを良く思わないで下さい、なんて言えるわけもない。ナマエさんは沢山の人に愛されるひとであるし、そうあることが誇らしくあることも事実だ。

「ははっ、七海でもこんなかっこ悪いことするんだね」
「…しますよ。必死ですから」

自分でもわかっている。必死過ぎてみっともない。だけど尋ねずにはいられなかった。ナマエさんはナマエさん自身のものだとわかっていて、それでもまるで自分の所有物であるかのように誰にも晒したくないと思ってしまっている。

「ていうか、もう高専でも名前呼び解禁?」
「そりゃ、籍を入れれば二人とも七海になりますから」

実際のところミョウジさんは高専で利便性上、旧姓を通そうと思っているという話にはなっているので東京高専に七海が二人になるなんてことはないわけだが、かこつけて名前で呼ぶくらい許されるだろう。
そうこうしているうちに伊地知君が五条さんを探しに来た。なんでもこれから新潟まで出張らしい。

「そういえば五条さん、付け加えておきますが、アナタの妹ならもっとアナタに似た女性だったでしょう。ナマエさんみたいにはならないと思いますよ」
「あはは、めちゃくちゃ言うじゃん」

ひらひらと手を振って五条さんが出ていく。ナマエさんが彼を探しているといけないので、用事は庵さんからの預かりもので、別に今日でなくてもいいらしいと伝えに行こう。今日の担当補助監督が来るまで約五分。早めに済ませてしまわなければ。
足取りは不覚にも、随分と軽くなっていた。

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