私はベッドで意識を覚醒させながら、まぶたの向こうの光を感じた。緩慢な動作で何度かまばたきをして、すぐ隣にある熱にするりとすり寄る。うーん、相変わらず抱き心地は悪い。
さわさわと胸板を撫で、皮膚の先にある血液をじーんと実感。ふふ、とくとく心臓が動いてる。
「けんと、おはよ」
そう声をかけても、ん、と息を漏らすばかりで恋人は目覚めない。いつものこと。建人は意外なほど寝起きが悪い。
「けーんと、今日出かけるんでしょ?」
「…ん」
仕方ないなぁ、と思って先に朝食を用意していようとベッドを抜けだそうとするけど、建人の腕ががっちりと私の腰を掴んでいて抜け出すことは出来ない。
寝てるのに相変わらず力が強いなぁ。
「もう」
私はベッドに引き戻され、また石みたいな硬ぁい胸板にこつん。抱き心地は悪いものの、頼りがいのある分厚さは安心できて大好き。
すりすりとおでこを擦りつけると、建人の動く気配がした。
「…ん、ナマエ…?」
「あ、起きた」
ぼんやりしたまなこを私の方へと向けるけど、まだ焦点は合っていない。寝起きの建人は可愛い。
私と建人が出逢ったのは、高専だった。いわゆる同期で、いくつかの死線を三人で越えて、灰原が死んでからはふたりで越えた。
建人は卒業と同時に大学への編入を決め、私は高専に残った。寂しかったけど、べつに建人の選択を責めるつもりなんてなくて、むしろ嬉しいとさえ思った。
だって術師を辞めてしまえば、建人はこんな命の危険に晒されることは無くなるのだから。
高専を卒業して、五条さんに馬車馬のように使われる生活を続けること四年を経たある日だった。
スマホを片手に石畳の階段を登る。
『え?まだ戻ってないの?』
「いや、普通に無理でしょうよ、朝まで広島にいたんですよ?」
『もみじまんじゅう買ってきてくれた?』
「まぁ買ってきましたけど」
一級案件を立て続けに三件ぶつけられ、ブチ切れながら高専に戻る。ガサガサ鳴る紙袋は全部五条さんが買ってこいと言った広島銘菓の数々である。
電話の向こう側から人間っぽくない叫び声みたいなのが聞こえて、いや、この人任務中に電話かけてきたのかと心の中で突っ込んだ。
『サプライズ待ってるから急いで帰りなよ』
「え、何ですか、五条さんのサプライズとか嫌な予感しかしないんですけど」
『まぁまぁ期待してて』
そう言って、五条さんは一方的に通話を切った。いや、何、サプライズってマジで。
そもそもサプライズは予告するものじゃないと思う。それをした上でまだ驚くだろうと思われているのだから、何が待っているのかわかったもんじゃない。
「気が重ずぎる…」
大きなため息をつきながら筵山の石段を登って門にたどり着くと、そのすぐそばに背の高い金髪の男の後姿があった。
東京高専の術師では見覚えがない。なら京都の術師か、窓か、それともどこかの業者か?
疲れで霞む視界を感じながら近づき、もしも道に迷ってるとかなら案内しないと、と声をかける。
「あの、何かお困りですか」
男はゆっくりとした動作で振り返った。いや、本当は私がそう感じただけで、ゆっくりとした動作ではなかったのかもしれない。
緑と青を光の角度で変える美しい瞳が、私をとらえた。
「な、なみ…?」
「はい」
そこにいたのは、四年前に呪術界を去った同期の姿だった。
鉈の調子を確かめるように右手で柄を持ち、左手をみねに添える。あのときより髪が短くなって、少し痩せたような気がする。けれどやっぱり、そこにいるのは、あんなにも会いたいと思っていた七海だった。
「うそ、何で…」
「今日から、術師に復帰します」
思考回路は更に混線した。今日からってそんな急に。いままで一度も連絡も取っていなかったのに。
言いたいことも聞きたいことも全部が絡まって、私は何の言葉もかけることが出来ない。七海も何にも言わなくて、二人の間に乾いた沈黙だけが広がる。
カラカラになった唇をはくはくと何度か合わせて湿らせて、私はやっと声を捻り出した。
「…なんで、帰ってきたの」
「誰かの役に立てるのも、良いものだと思いまして」
なんだ、そんな曖昧な理由。あの日私がどんな思いで七海を見送ったと思ってるんだ。もう会えないと、もう話すことさえ叶わないと、覚悟したのに。
私が言い返してやろうと口を開くと、それより先に七海が「それから」と言葉を続ける。
「…アナタの顔が、見たくなってしまって」
「…なにそれ」
なんでそんな理由で帰ってきちゃったの。せっかくこんな酷い世界から出て行ったっていうのに。
「せっかく、生きるとか死ぬとか、そんなんと関係ない世界に行けたのに」
「ええ、自分でも馬鹿だと思います」
「じゃあなんでよ」
七海に会えて嬉しいという気持ちと、七海がまた危険な世界に身を投じるということへの不安がぐちゃぐちゃに混ざっていく。
嬉しい。嫌だ。また隣を歩ける。こんなところに帰って来てほしくなかった。もう自分でも訳のわからない感情の数々が混濁していく。
「アナタのいない毎日は、つまらなかったですよ」
七海は私の手を引いて、ぽすんとその腕の中に収める。硬くて、少しも柔らかいところはなくて、抱き心地最悪。
「ばか」
私はその抱き心地最悪な胸の中に顔を埋め、それから三回「ばか」と言った。七海は大きな左手で私の頭をまるで綿毛に触れるみたいな慎重さで撫でた。
ベッドの中で「あと五分」を二回繰り返した建人のほっぺをふにふに抓り、いよいよ覚醒させる。建人の寝顔見ているのもいいけれど、今日は珍しく二人とも丸一日お休みなのだ。せっかくなんだしお出かけもしたい。
建人はくすぐったそうに顔を左右へふるりと揺らし、私よりももっと緩慢にまぶたをまたたかせた。
「おはよ」
「…おはよう…ございます」
寝起きの声は掠れていて、髪にもすっごい寝癖。建人は普段すごくきっちりして隙がないから、こういう姿を見ることができるのは恋人の特権だ。
「よく眠れた?」
「ええ、久しぶりに」
ふぁ、と大きなあくびをする建人の腕の中を這い出してうんと伸びをする。建人の朝寝坊に付き合っていたから、予定より時間は押している。
「朝ごはんつくるけど、トーストはハムとチーズ?それともハニーバター?」
「ハムとチーズでお願いします」
了解、と返事をして、私はとことこキッチンに向かった。
ふふ、これは後からもう一回起こしてあげないと、建人はまた寝ちゃうに決まってる。
そうこうしながら予定が押していくのはわりといつものことだけれど、こういうやり取りも楽しいから私は本当に建人のことが好きらしい。
コーヒーとトーストの準備が出来て寝室に戻れば、まだうとうとしている建人が上体を起こしてベッドに座っていた。
「建人、ご飯できたよ」
「…はい…」
「まだ寝ぼけてるね?」
「…はい…」
本当にまだ目が覚めていないらしい。このままの流れで「私のこと好き?」なんて聞いたら、うっかりそのまま惜しげもなく「はい」って言いそう。
あ、それよりもいいこと思いついちゃった。と、私は建人のそばまで寄ると、顔の高さを合わせるようにしてベッドに手をつく。
「おはようのキス、する?」
「…はい」
またぼんやり肯定しちゃって。と、私は少しだけ笑ってそっと顔を近づける。頬に唇を着地させて顔を離そうとすると、後頭部をぐっと掴まれて留められ、唇がちゅっと音を立てる。
「…起きてたの?」
「今さっき」
おでこを合わせる至近距離で建人が笑う。ああ、してやられた。
何か文句を言ってやろうとしたら、もう一度キスをされて、抗議することも出来ない。
「もう、ご飯冷めちゃう」
「それはいけませんね」
建人はそう言って笑って、首を左右に伸ばしてからベッドを出た。
私は先にダイニングに向かって、歯磨きと洗顔を済ましてくるだろう建人がすぐに食べられるよう、トーストの乗ったお皿をダイニングテーブルに運ぶ。
冷静な感じを装ってはいるが、内心どきどきが止まらない。建人があんなにも愛情表現をストレートにするひとだということを、私は付き合い始めるまで知らなかった。
「すみません、また朝食の用意をさせてしまって」
「いーよ、健人、朝苦手なんだし」
洗面所から戻った建人はすっかりシャキッとした顔になってしまっていて、髪もセットはされてないけど寝癖は軽く直されてしまっている。
ぼんやりした建人も好きだから、ちょっと残念。
「いただきます」
「召し上がれ」
建人はリクエスト通りにハムとチーズのトーストで、私はちょっと甘いものが食べたかったからハニーバター。この食パンは建人お気に入りのベーカリーのもの。グルメな建人が選ぶものは本当にハズレがない。
今まであまり食にこだわりはなかったが、付き合うようになってから自然と気にするようになった。
「美味しい?」
「ええ、美味しいです」
トーストなんて誰が作っても同じだと思うけど、建人が決まって「美味しい」と言ってくれるからいつも聞いてしまう。
建人のいつもの答えを聞いて満足した私は、自分のハニーバタートーストにかぶりついた。
「ねぇ、今日建人の用事終わったら西荻窪の本屋さん行きたい」
「ああ、いつものところですね、いいですよ」
さくさく、軽快な音を立ててトーストは私と建人のそれぞれのお腹に収まっていく。朝食を終えたら洗い物をして、出かける準備をしよう。
普段はあんまり化粧はしないけど、今日はデートだからいつもより丁寧に。
「建人、口の端にパンついてる」
「ん、こっちですか」
「ううん、逆」
ひょいっと手を伸ばして、右の口の端を拭う。ふふ、きっと建人を知るほとんどの人が、こんなふうな無防備な姿を見ることはないんだろうな。そう思うと嬉しくなっちゃって、思わず笑いが溢れた。そしたら建人は「どうかしましたか」なんて言って、私は「なんでもないよ」と答えた。
「今日晴れだって。よかったね」
おんなじベッドで目を覚まして、気の抜けた寝起きの顔を見て、一緒にご飯を食べる。こんな何気ない時間を一緒に過ごせるのがたぶん幸せってことなんだと思う。
明日も明後日も、その先もずっと建人におはようって言えたなら、それだけで美しい世界。
私は最後のひとくちを放り込んで、コーヒーを飲み干した。