もしもこの先
ここ数日少し、調子がおかしい。食欲があまり湧かず、なんだかいつも気持ちが悪かった。なにか悪いものでも食べたというなら数日間ずっと、ということはないだろうし、だからと言って風邪かなにかと言われるほど他の調子が悪いわけではない。

「はぁ、いったいどうしたんだろう…」

ただでさえ足手まといなのに体調不良でこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。なんとか頑張っていたところで、ついに限界が来た。ナマエは口元を抑えてその場でうずくまり、一緒になって厨に立っていたキラウシがギョッとして駆け寄った。

「おい、大丈夫か」
「き、らうしさん……すみませっ…うぅ…」

口を開いていたら戻してしまいそうで、何とか閉じて阻止する。顔色もひどくただ事ではないことは明白で、キラウシはすぐに隠れ家の中に残っているだろう門倉を「おい門倉ぁ!」と呼びつけた。半纏を着こんだ門倉がのそのそと姿を現す。

「なんだよキラウシ…って、え、お嬢ちゃん大丈夫か!?」
「ナマエの部屋まで運ぶ。手伝え」
「俺ぇ!?っていうか尾形はどこにいんだよ!」
「尾形ニシパは鳥撃ちに行ってる」

門倉では非常に頼りないことこの上ないが、体調不良の人間なのだから慎重に運びたい。自分一人で運ぶよりマシだろうというキラウシの判断だった。さてどうやって運んで行こうかとナマエを取り囲んだところ上からぬっと大きな影が落ちてくる。

「お嬢ちゃんを部屋まで連れてくのか?だったら俺が運ぶぜ」
「牛山ニシパ!」

これは心強い。牛山であれば安全かつ迅速にナマエを運ぶことが出来る。キラウシが先に部屋で布団を用意する旨を伝え、牛山はまるで割れ物を運ぶがごとくそっとナマエを持ち上げた。

「体調が悪いのに無理しちゃいけねぇぜ」
「うし、や、まさん……」

ありがとうございますと言おうとしてそこまで辿り着かなかった。ナマエはぎゅっと下唇の裏側を噛む。ナマエに与えられている部屋に着くころにはキラウシがしっかりと布団を用意していて、ナマエはそこに横たえられた。立っているよりは幾分もマシである。

「ナマエ、どこがつらいんだ?」
「えっと、気持ちが悪くて…ここ数日は食欲も落ちて、それから腰が痛くて…」
「咳やのどの痛みは?」
「ありません」

横たわるナマエをキラウシ、門倉、牛山が囲みながら原因を追求していく。季節の変わり目と言えば変わり目ではあるが、風邪の症状らしくはない。さて他にここ最近で何か変化はあっただろうか。男三人でじっと顔を突き合わせているうちに牛山が一番最初に「あ」と何かを思いつく。キラウシもそれに続いた。門倉だけが置いてきぼりだ。牛山が口を開いた。

「お嬢ちゃん、少し立ち入ったことを聞くが、月のものはしっかり来てるか?」
「え?」

ナマエは言われた言葉をじっと頭の中で考える。前に月のものが来たのはいつだっただろう。そうだ、そろそろ来ていてもおかしくない。むしろ遅いくらいである。牛山の言いたいことに気が付き、自分の下腹に手を当てた。

「き、来てないです……」
「そうか…ということは」
「そうだな」

牛山とキラウシが目を合わせてうんうんと頷く。ようやくそこで門倉も二人の言いたいことを理解して「おめでたか!」と手を叩いた。それをキラウシがじろりと見遣り「門倉、お前は気遣いが足りないな」と盛大にため息をついた。

「そうかもしれないなら、余計に無理はよくない。厨の仕事なら俺がやる」
「おう、俺も手伝うぜ」

キラウシが申し出て牛山もそれに賛同する。少しも実感がわかない。尾形とそういうことをしたのはまだ最近の話だ。そんなにもすぐに子供は出来てしまうものなのだろうか。しかし強いてここ最近で変わったことと言えば、一行に尾形が加わったこと、そしてそういう関係を結んだということである。


三人に言いつけられてそのまま布団に横になっていた。いつの間にか眠てしまっていたようで、深いところにあった意識がすうっと昇ってくるのを感じる。いつもの天井が広がっている。

「ん、寝ちゃってた…のか…」

きょろきょろと視線だけで部屋の中を探る。右隣に尾形が座っていた。鳥撃ちから帰ってきたのか。

「起きたか」
「はい。すみません。ちょっとその……調子が悪くて…」
「牛山から聞いた」

牛山から聞いた、ということはナマエが身籠っているかもしれないと聞いたということだろう。どんな反応が返ってくるかが少し怖かった。こんな旅の途中だ。身重になれば自分はこの先ついていけなくなるだろう。それに自身の生い立ちに劣等感を感じている彼のことだ。自分の子と聞いてどう思うかさっぱりわからない。

「あの、その……」
「寝てろ」

ナマエが起き上がろうともぞもぞ動くと、尾形は右肩を押さえてそれを制する。表情は普段と変わらなかった。身籠ったと聞いて彼はどう思っただろう。身重になってしまったらこの先尾形と離れなければいけなくなるのか。ナマエが尾形の袖口を引こうとすると、襖の向こうから「ナマエ、入るぞ」と永倉の声がかかった。慌てて手を引っ込める。

「ナマエ、調子はどうだ」
「あの、今はだいぶ……すみません、お手間をおかけして…」
「構わん。男手なら掃いて捨てるほどあるからな」

永倉は茶碗の乗った盆を持って現れ、ナマエの左隣に腰を下ろす。茶碗の中身はお粥だった。中央に梅干しが乗っている。朝から結局何も食べていないナマエに、なにか食べやすいものを、とキラウシたちがわざわざ作ってくれたらしい。

「少しは食べられそうか?」
「はい、なんとか…」
「妻のきねも身籠ってすぐの頃はずいぶんと辛そうにしていた。そういう苦しみは男連中にはわからんことだ。こんな時くらい存分に頼りなさい」
「ありがとうございます」

永倉から妻の話を聞くのは何か新鮮な心持ちになる。薬店で奉公していた時にお得意様の産婆から出産の話は聞いたことがあったが、身籠ってすぐの話はそうも聞いたことがない。永倉の妻も辛そうにしていたというんならきっとみんな多かれ少なかれ苦しむことであることは間違いないだろう。自分だけではないということにほっと胸をなでおろす。

「尾形あとは頼んだぞ。身体を温めてやると多少は楽になるらしい」
「ああ」

尾形はやはりいつも通りのスンっとした表情を崩さず、その先の感情はあまり見えなかった。永倉は盆を尾形に託すと部屋を出ていき、二人で残された室内はいつもよりも沈黙が重い気がした。

「食わせてやる」
「えっ、大丈夫ですよ。病人じゃないんですから」

そんな手をかけさせるわけにはいかないとナマエは遠慮をしても、尾形は早速茶碗を左手に持ち右手に匙を持つ。役得だとでも思うことにしようかとのそのそ布団から上体を起こしたが一向に匙が差し出される様子はなく、尾形の手元を見ればその理由がすぐに分かった。匙を天地反対に持っている。それでは掬えるはずがない。

「あの…尾形さん…それお匙反対です…」
「…チッ…わざとだ、わざと」

彼に限ってそんなことがあるものか。表情があまりにも変わらないからわかりづらいが、彼は彼で動揺しているとみえる。尾形は匙を持ち替え、その半分ほどに粥を掬うとナマエの口元に差し出す。ナマエはそろそろと口を近づけ、ぱくりと頬張った。控えめな塩気の滋味あふれる優しい味だった。

「熱くないか」
「はい。丁度いいです」

尾形はそれを聞き、また匙を粥の中に沈めていく。同じくらいの量を匙に掬うとナマエの口元に差し出し、ナマエは先ほどよりも素早く頬張った。皆が自分のために作ってくれたお粥を尾形が甲斐甲斐しく食べさせてくれる。それだけで普段よりも何倍にも美味いもののように感じられた。
さほど量が多くなかったということもあり、茶碗はすぐに空になった。茶碗と匙を盆に戻して隅に追いやり、ナマエは今度こそ尾形の袖口を引く。

「あの…その…本当に身籠っていたら…尾形さんの子なんです…」
「当たり前だろ。それ以外の可能性があってたまるか」

たしかにそれはそうなのだが、当たり前にそう言われるとくすぐったい。薬店に奉公していたという経験上、堕胎薬の種類も製法もそれなりに心得ている。尾形に止められればそれを飲むしかないのだろうか。

「俺はロクな父親になれんぞ」
「え…?」

尾形はそんなことを言って、まだ膨らんでいるはずもないナマエの腹部に手を当てる。彼のじんわりとした手のひらの温度が伝わってきた。ナマエはそれが尾形の言葉少ない慈しみのひとつと気が付き、尾形の手の上から自分の手のひらを重ねた。


翌日、今日は調子がいいぞ、と晴れやかな気持ちで洗濯をしていたら牛山と門倉に見つかり、たらいごと引っ手繰られて部屋の中に戻された。調子がいいのだから家事くらい平気だ、と立ち上がり、そこで自分の足の付け根に良く知った不快感を覚える。

「……うそ」

月のものだ。着物にまで染みさせるわけにはいかないと自分の部屋に慌てて戻り、荷物の中から丁字帯と脱脂綿、それから手拭いを引っ張り出して部屋に備えてある衝立の向こうにこそこそと隠れる。ぺらりと腰巻の下を確認すると、やはり赤く血が流れ出ている。つまり結果として身籠っていなかったということだ。

「ちゃ、ちゃんと説明しないと……」

汚れた腰巻を剥ぎ取って手拭いで汚れを拭い、それから脱脂綿を当てた丁字帯を締める。昨日あれだけ盛り上がっておいて実はそんなことありませんでした、なんて言いづらいことこの上ないが、身籠っていると誤解させたままでいるわけにもいかない。

「おいナマエ、部屋にいるか」

丁度そのとき、廊下から声がかかって襖の開く音がする。尾形だ。言うならこんなこと早い方がいい、とナマエはひょこり衝立から顔を出した。まさかそんなところに隠れるようにしているなんて思ってもいなかっただろう尾形は少しだけ目を見開く。大抵こうして隠れている時は着替えなどをしているときと決まっていて、だから彼は衝立に近づくことなく部屋の真ん中あたりに腰を下ろす。

「あの、尾形さん、ちょっとお話が……」
「……なんだ」

ナマエはパタパタと着物の裾を正すと、汚れた腰巻は一旦衝立の向こうに隠したままにして尾形の元へと近づく。どうやって言おうか、ともごもごと口を濁らせると、尾形はジッとナマエを見つめた。

「……えっと、身籠っていなかったみたいなんです」
「は?」
「あの、さっき月のものが来たんです。だから勘違いだったようで…」

言わなければ仕方ないのだからしようのないことであるが、盛大に勘違いをさせてしまった手前かなり気まずい。昨日さえ耐えておけば今日こうして月のものが来て、あれだけ世話をかけることもなかったはずである。
ちろりと尾形を見上げると、きょとんとした顔になったあとに髪をナデナデと撫でつけた。

「…そうか」
「あの、御免なさい。早とちりで…」

所在なさげにナマエが自分の指と指をあわせる。すると尾形はふっと口元を緩め、ナマエをぐっと引き寄せた。彼の胸の中に飛び込むようなかたちになってごく至近距離で尾形を見上げる。どんな顔をしているんだろう、と思えば、想像よりも柔らかな顔をしている彼と目が合った。

「構わん。そのうち本当のことにしてやる」
「えっ!」
「なんだよ、不満か?」
「ち、違いますけど…」

尾形がぐっと口角を上げる。それはつまり、尾形が自分との子供を作ってもいいと思っていると言うことだろうか。そんなに深く彼の人生に関わることを、許してくれるということだろうか。

「元気な子を産んでくれよ」
「き、気が早いです!」

にやりと笑うのはどこまで本気なんだろう。少なくともナマエは尾形との子なら欲しいと思っていた。尾形さんに似た子ならいいな、なんて自分も大概気が早い。
とりあえず今日のところは厨に行って一行に勘違いであったことを伝え、昨日の分まで働かせて貰わなければ。

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