花時
お付き合いは順風満帆。そもそも後ろめたいところはないが、親公認になったのは精神的にかなり大きいといえる。
今日はナマエの希望で隣県の遊園地に行く予定だったのだが、あいにくの雨で取りやめることになり、代わりに宇佐美の部屋で映画でも見て過ごそうという話になった。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」

玄関でナマエを出迎える…のではなく、勿論自分の最寄りの駅まで迎えに行った。雨の中ひとりで歩かせるなんてとんでもない。と思うのは流石に過保護の部類だろうか。ナマエを駅まで迎えに行って、途中のコンビニで飲み物や菓子類を調達する。こんなことになると分かっていたらパティスリーでもなんでも行っておいたものを、と思うもそんなことはもはやどうしようもない。
コンビニに行ったことがないと言われでもしたらどうしようかと思ったが、流石にそんなことはなくて安心した。

「適当に座ってて。いま用意するから」
「はい」

ビニール袋入れた品物たちをがさごそと取り出し、あとから食べることになるだろうカップスイーツを冷蔵庫に入れる。彼女の選んだミルクティーと自分の買った炭酸飲料を手にリビングスペースに戻れば、ナマエがきっちりと背筋を伸ばしてソファに座っていた。まるで面接だ。

「フフ、そんなに畏まらなくてもいいんだよ」
「き、緊張してしまって…」

気恥ずかしいとばかりにナマエが俯いた。もう承知のことだが、彼女は今までこうして男の部屋に上がったことなどないのだ。自分が初めてだと思うと気分がいい。
宇佐美はペットボトルをローテーブルの上に置き、ナマエの隣にわざわざ距離を詰めて座った。びくりとナマエが反応する。宇佐美はにんまりと笑みを深めた。

「ナマエ、なんか見たいのある?」

ナマエは気を取りなおし、リモコンを操作して動画配信サイトの画面を弄る宇佐美に「ホワイトクロワっていう映画が見たいです」と答えた。聞いたことのない映画だ。宇佐美は早速検索ボックスにタイトルを入れ、このサイトで配信されているか検索していく。丁度配信されているようで、それを検索すればサムネイルでバレエを題材にした映画だということが分かった。

「バレエ映画?好きなの?」
「あの、バレエが好きっていうか…尾形さんに勧めていただいたんです」
「……百之助?」

ぴくり、と目尻が痙攣したのが自分でもよくわかった。なんでこんなところで尾形の名前が出てくるのか。尾形が勧めた映画だから見たいという行動原理も甚だ気に入らない。ナマエは密かに苛立つ宇佐美に気が付いていないようで、映画のどんなところをおすすめと言っていたかなどを嬉々として語る。

「尾形さんってすごいですね。沢山映画をご覧になってて、私がフランスの映画が好きだという話をしたら、これはどうかって紹介してくださって。イギリスの映画ではあるんですが、きっと気に入るだろうって」

ナマエはにこにこと楽しそうにしていて、その顔を引き出したのが尾形だと思うと忌々しい。尾形の悠々自適な生活の財源が異母弟の勇作であることをこのまま暴露してやりたいところだが、それをごちゃごちゃと言うのも格好悪くていただけない。

「実在する伝説のダンサーをモチーフにした作品なんです。やっぱり舞台のシーンが圧巻だそうですよ。……時重さん?」
「ん?」
「すみません…あの、私ばかり話してしまって……えっと、時重さんが見たいものがあればもちろんそちらで構いません」

宇佐美が黙ったままでいるのを気が乗らないと解釈したのか、ナマエは隣から顔を覗き込んで慌ててそう提案した。別に彼女の見たいもので構わない。ホラーだろうがスプラッタだろうがラブロマンスだろうが、ナマエが見たいと言えば反対する理由がない。問題はそこじゃないのだ。

「ナマエが見たいならどんな映画でもいいけどさ」
「……けど…?」
「百之助から聞いたって言うのが気に入らない」

宇佐美はそう言って、もともとロクに開いてもいなかった距離をぴったりと詰める。ナマエの身体がまたびくりと強張る。ナマエの華奢な肩へと抱き込むように腕を回し、少しだけ力を入れる。すると簡単にナマエの身体が傾き、宇佐美の胸のなかから見上げるような体勢になる。

「ナマエの彼氏は僕でしょ?」

じっとナマエを見つめると、首元から耳の先まで見えているところが全部真っ赤に変わった。それからはくはくと何度か唇を動かし、視線を逸らそうとするものだからすかさず頬に手を添えて柔く拘束してやる。

「ナマエ」

短く名前だけを呼び、顔をゆっくりと近づける。ナマエが覚悟でも決めるかのようにぎゅっと目を閉じて、睫毛がふるふると震えていた。その顔が愛おしくて、なんだかキスをしてしまうのは勿体ない気になってくる。こんなに初心でいてくれるのはいまだけかもしれない。もっとも、慣れたナマエの姿というのは想像も出来ないけれど。
唇ではなく鼻先にちょこんとキスをして、すると唇にキスをされると思っていただろうナマエが目をまん丸にして開いた。

「口にして欲しかった?」
「えっ!あっ…ち、ちが……」

もういじめるのも可哀想なくらい真っ赤で、このまま茹ってしまうのではないかと思う。こんなふうに羞恥に顔を染める彼女は、これから先自分以外の男に見られたくないし、見せるつもりもない。

「僕以外にこんな顔見せたらだめだよ」
「ど、どういうかお…ですか……」
「僕のこと好きで好きでしょうがないって顔」

言葉にしてやればわなわなと口を震わせ、逃げられもしないのに視線を左右に動かした。それからやっとという様子で声を絞り出す。

「と…ときしげさんにしか…そんな顔、しません」

消えてしまいそうな声でとんでもない爆弾を落とされ、今度は宇佐美の心臓がバクバクと鳴る番だった。柔く拘束していたはずの手に力が入ってしまいそうになり、慌てて引っ込める。はぁぁぁぁ、と大きくため息をついて、ナマエを引き寄せて抱きしめた。

「ナマエが可愛すぎて困る」
「え?」

もっと甘い言葉をかけて、からかって、真っ赤になる彼女を堪能したいところだけども、そんなことをしていて手を出さない自信がない。親公認ということは、いわば「清い付き合いをすること」を約束しているようなものだ。つまり少なくともナマエが大学を卒業するまで手を出すことは許されないだろう。

「時重さん?」
「大丈夫、こっちの話」

気を紛らわすためにリモコンを手にテレビへ向き直り、サムネイルを選択してナマエの見たいといったバレエ映画を再生する。ソ連に実在した伝説のバレエダンサーの半生を描いたというそれは、しっとりとした画面とセリフ回しが印象的な映画だった。クライマックスで彼が海外公演中に亡命をするシーンがあり、そのぎりぎりのやり取りにハラハラさせられる。尾形が勧めたという一点を除けば、確かに芸術性とドラマ性が両立した良い映画のように思われる。
エンドロールが流れていくが、ナマエは少しも目を離さなかった。映画は字幕派だという彼女にあわせて字幕にしていたし、正直約130分間ずっと画面に釘付けになっていた。エンドロールが終わってやっとナマエは息をつき、隣に座る宇佐美を見上げる。

「とっても良かったです!1950年代の郷愁というか……画面のくすんだ感じがとっても惹きつけられました」
「映像、綺麗だったね」
「はい!亡命のシーンはドキドキしてしまいました」

ナマエは胸に手を当てて余韻を楽しんでいるようだった。百之助にしては良い映画を紹介するものだ。あいつならもっと妙な映画を見せて反応を楽しみそうなものなのに。いや、まともなものを紹介してきたというのが返ってナマエに真面目な対応をしているように思えて腹が立つ。

「良い映画を紹介していただいたお礼を言いませんと」

ナマエは嬉しそうににこにこと笑いながらそう言った。これに全く他意がないのだから逆に始末が悪いのではないかと思う。宇佐美は上機嫌なナマエにどう指摘したもんだろうかと頭を抱えた。いや、あれこれ遠回しにするよりも、結局ストレートに言うのが一番なのかもしれない。

「ナマエ、そんなに百之助誉めそやすようなこというと、流石に僕も妬くんだけど」

ナマエを覗き込むように体勢を変えて真っすぐに言ってやれば、一直線でそれを受け取ったナマエがカッと顔を赤くする。

「あっ…ご、ごめんなさい。あの、時重さんのお友達だから…共通のお話があるのが嬉しくなってしまって…」
「ナマエに他意がないのも百之助にそんな甲斐性ないのも知ってるけど…やっぱり面白くないから」

ナマエがしょぼんと肩を落とすのは少しかわいそうな気もするが、純粋すぎる彼女にはきっぱり言わなければ気付かないだろうし、それにどうせここまで読んで尾形が面白がっているに決まっているのだ。思い通りになってやるのは御免だ。
ただ誤算だったのは、ナマエが想像以上に事態を重く受け止めてしまったことである。覗き込む視線を避けるようにしてナマエが俯いたまま口を開いた。

「ど、どうしたら許してくださいますか…?」
「え?」

いや、そこまで腹を立てているわけじゃない。悪気があったり、ましてナマエが尾形になびくだなんてことは万に一つもないと分かっている。そのままそれを伝えようとして、言葉にする前にひとつちょっとした悪戯心が頭をもたげた。

「……どうしようかなぁ」
「あの、私に出来ることならなんでもします。時重さんに嫌な思いをさせてしまったままなんて自分が許せません」

まったく生真面目なことだ。そういうところもまぁ、ナマエの好きなところのひとつではあるけれど。宇佐美は笑ってしまいそうになるのを堪えながら、にやけそうになる口元を律して無理難題を口にした。

「じゃあ、ナマエからキスして」
「えっ…!」

ナマエが予想外の展開に勢いよく顔を上げ、目を丸くして宇佐美を見つめた。可愛い。どうしたらいいだろうかと必死に頭の中であれこれ考えているのが手に取るように分かる。

「はやく」

ずい、と体を寄せ、顔を近づける。ナマエのまつ毛がふるふると震えた。きょろきょろと忙しなく視線を揺らし、もうこれ以上はからかってやるのもかわいそうか、と口を開こうとすると、それより早く頬にふにゃりとしたものがぶつかった。ナマエの唇だ。

「こ、これで…ゆるしてください……」

不意打ちだ。いや、自分からやれと言ったのだけど、彼女の性格からしてまさか本当にすると思わなかった。今度は宇佐美が顔を真っ赤にする番で、それがナマエに見えてしまわないように咄嗟にぎゅっと抱きしめる。ずるい。こんなの予想できるわけないじゃないか。

「…ナマエ、可愛すぎ」
「……ゆるしてくださいました…?」

許すも何も、最初から怒ってなんていないのだ。さてそれにしても「なんでもします」なんて危うすぎる。それがどれだけ危ういことか教えてやりたいけれど、それはどうにも、自分の理性との戦いになるだろう。

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