幸せのかたち
じっと見つめる。

「……やっぱ、陽性だよね」

私は細長い棒状のプラスチックを前にそう漏らした。白いそれには小さな小窓がふたつあり「終了」と「判定」の両方にくっきりと線が出ている。これは紛うことなき妊娠検査薬であり、陽性、つまり妊娠しているという判定がなされていた。

「何て言おう…」

「嬉しい」と思う気持ちを、不安が途轍もない勢いで追い越していく。私が本当に親になれるのか、そもそもこの妊娠を、パートナーは本当に喜んでくれるのか。説き伏せるようにしただけで、傑は元々子供をつくることには否定的だった。

「……とりあえず産婦人科だなぁ」

スマホを取り出し、少し遠くの産婦人科を検索した。近くだとご近所さんに妊娠したということが分かってしまうかもしれないし、不安な気持ちが勝ってしまっているこんな状況で他人に知られるのは本意じゃなかったからだ。


呪霊操術。己の身の内に取り込んだ呪霊を使役する稀有な術式。腹の中に呪霊を取り込む作業というのはひどく不快で耐えがたいものであると、結婚する少し前に打ち明けられた。

「吐瀉物を処理した後の雑巾を丸呑みしているような感覚だ。呪いそのものに味なんてないと頭では理解しているのに、それでも通常の味覚を飛び越えて不快な味を感じる」
「そう…だったんだ」

呪霊を取り込む際、それに苦痛が伴うのは何となく気がついていた。しかしそれを傑の口から直接聞いたのは初めての事だった。おいそれと話すことのできないそれを私に打ち明けてくれたことを嬉しく思う反面、その先に続く言葉にガツンと頭が殴られたような気分になった。

「だから、私はこの術式を持つ人間を…私で最後にしたい」

術式は血で継承される。呪霊操術を持つ呪術師の子供もまた、呪霊操術を得て生まれてくる可能性が充分にある。これはつまり、自分はこの先子供を持つつもりはないと、私との間に子供をつくる気はないと、そう言われているということだ。

「そっか」

どうにかそう返したと思う。根本的な話をすれば、発現しているかは別にして、呪霊操術を継いでいる人間というものは傑だけではない。傑の父方と母方のどちらにその才が流れているかは分からないが、その血縁には原則呪霊操術の血が流れているわけで、誰も知らずに脈々と受け継がれていく。
私で最後にしたい、という言葉を実現するのは現実的に困難であり、恐らくそれは傑も承知のことである。それでも、苦しみを知っている人間が、自分の子にそれを背負わせるなんて、出来ようはずもない。


予めそう承知して結婚をした。一年が経つ頃に実は子供を持つことに憧れていた、と打ち明けると、傑がひどく驚いていたのをよく覚えている。騙し打ちにしようというつもりは勿論なくて、傑が欲しくないというならそれでも良いと思っていた。
数少ない非術師の友人から届いた年賀状に家族が増えたという報告があり、それを無責任に羨ましく思ってしまっただけなのだ。

「あっ、でも傑と二人の生活も楽しいし!全然…その、ほんのちょこっとだけそう思っただけって言うか…」

しどろもどろになりながらそう言い訳をして、でも子供を持つことに憧れがあるということが思い付きなんかではないと、傑には充分すぎるほど伝わってしまっていた。

「ご、ごめん……えっと、本当に騙すとか、そういうのじゃなくて…」
「わかってるよ」
「ごめんね、傑が子供欲しくないって知ってるのに…」

困ったような顔をする傑になんて言ったらいいんだろう。どんな言葉も言い訳のように聞こえてしまって口にするのが嫌になる。だけど言葉にしなければもっと何も伝わらない。思わずぎゅっと下唇を噛むと、傑の手が唇に触れてそれを阻む。傑の顔を見れば、浮かべていたのは想像もしていない表情だった。

「…術式を継いだ子供が生まれたらどうしようって未だに考える。別に私だけが呪霊操術の血を引いているわけではないし、私の子だからって完全に同じようになるわけじゃないってわかってるのに」
「傑……」
「ナマエの望みを叶えたいって、今は一番にそう思うよ」

傑は目尻を下げて笑って、私はたまらなくなった。こうやって言わせてしまっているんだろうか、無理をさせてしまっているんだろうか。ただ一つ間違いなく言えることは、私は傑との子のためなら、どんなことだって出来るという覚悟があるということだ。


そんなやり取りがあってから9か月ほど。生理が予定通り来ないな、と思ってドラッグストアで検査薬を買った。そしてくっきりはっきり陽性が示され、こそこそと産婦人科で妊娠の診断を受けてきた。まだ初期だから一週間後にもう一度検査を受けるようにと言われているけれど、ほぼ妊娠は確定している。
いつまでもこうしてこそこそしているわけにはいかない。傑は10日間ほどの出張に出ているためにこの件は知れるところではないけれど、一緒に住んでいて、というか結婚していていつまでも隠せるわけがないし、そもそも隠すべきことではない。

『お疲れさま。今日は帰り遅くなりそう?』

私は意を決し、今日出張から帰ってくる傑にそうメッセージを送った。一時間程で既読が付き、今日は19時には帰宅するという旨の返信があった。出張帰りで疲れている日にどうなんだろうと思ったけれど、隠しているほうがもっと問題だ。
私は傑にどんな言葉で報告すればいいだろうかと、残り4時間のタイムリミットであれこれと考えを巡らせた。

「おかえりなさい」
「ただいま」

あっという間に夜になって、傑は19時よりも10分早く帰宅した。彼を玄関で出迎え、出張に持って行っていた鞄を受け取る。ジャケットを脱ぎながら部屋へ上がり、手洗いうがいを済ませに洗面所にむかった傑を見送って、一足先にリビングに入る
傑の鞄を定位置におくと、ポケットにしまっていた検査薬を取り出してその線を確認した。傑の足音を背中に感じて咄嗟にそれをポケットに隠し、私は傑の向き直った。

「お疲れさま。出張どうだった?」
「今年の京都の学生は結構粒ぞろいだったよ。身体が完成してないから体術は改善の余地があるけど…将来有望」
「そっか、任務のついでに京都校で教えてきたんだっけ」

なんの変哲もないいつも通りの世間話からきっかけを掴もうとしてみたけれど、こんな非日常のきっかけを日常から見出すなんて高等技術は持ち合わせていない。そのあとも任務の話だとか東京校で帰りがけに珍しい顔を見かけただとかと話を聞いたが、私はどこか上の空だった。

「ナマエ、どうかしたかい?」
「え?」
「ぼーっとしてるみたいだったから。もしかして疲れてる?」

私は「まさか」と笑った。10日間もスケジュールを詰め込みに詰め込んだ出張を終えた傑より私が疲れているなんてことがあるはずがない。話すなら今このタイミングだ。

「傑、あの…その、話があって……」
「話?」

私は頭の中で組み立てたはずの言葉をあれこれと持ち出しては引っ込めて繰り返す。どこからどう切り出すのが良いのかと考えているうちにわけがわからなくなってしまって、意味も開く唇を何度も開いては閉じた。

「えっと、なんていうかその…言いたい、ことが……」

ぐっと内臓が潰されるような気分になった。傑は私の望みを一番に叶えたいって思ってくれていると言っていた。私だって好きな人との、傑との子供は欲しかった。だから怖がることなんてひとつもない。ないはずなのに、彼からどんな反応が返ってくるかが、怖い。
二の足を踏んで口ごもったままでいると、傑が勢いよく私の両肩を掴んだ。驚いて見上げると、同時に彼の言葉が降ってくる。

「…離婚なんかしないからな」
「え?」
「一緒に過ごせる時間が少ないのはわかってる。教師って思ってた以上に忙しいし、私の場合地方任務も入るし…寂しい思いをさせてるとは思う。できることは何でも努力する。だから別れるなんて言わないでくれ」

傑は反論の隙間も与えずに話し続け、私は思わずぽかんとしながらそれを聞いてしまった。何をどう思ったのか、傑は私が別れ話をすると思ったらしい。こんな勘違いをさせてしまうのなら尚更、勿体をつけた話し方なんてしている場合じゃない。

「ち、違うの!そう言う話じゃなくて!子供が出来たの!」
「こ、子供…?」
「うん」
「私とナマエの?」
「そうだよ。だって傑以外に相手がいるわけないでしょ?」

組み立てていた言葉もなにもなく勢い任せにそう言って、私はポケットから陽性判定の出ている検査薬を取り出す。すると傑は手で顔を覆い、ハァァァと大きくため息をついた。変な勘違いをさせてしまうくらいならと思い切ったけど、実際目の前でため息をつかれるのは、ちょっと、結構、しんどい。私は唇を噛んだ。
傑が嫌なら堕ろすしかないのかな。私は育てたいと思っても、傑が元々言っていた「呪霊操術を持つ人間は自分で最後にしたい」という話のことを思えば、生まれることそのものが彼の負担になってしまう。

「産みたいの…傑がダメって言うなら、ちゃんとその…考えるけど…」

思わず俯きながらそう言うと、傑が私の身体を引き寄せて抱きしめた。10日ぶりに感じる体温は思っていたよりずっと高くて、その温かさが心地よくて仕方がない。ダメなら考える、なんて言いながら、出来れば傑に「いいよ」って言って欲しい。祈るように目をつむった。

「駄目なわけないよ。ナマエと私の子供なのに」
「ほんと…?」
「本当。まだ実感が湧かないけど……ナマエの子なら、私だって欲しい」
「私…産んでもいい?」
「もちろん」

想像の何倍も柔らかい声が返ってきた。そう言ってくれることが嬉しくて、ぐりぐりと傑の胸板に額をこすりつけるように甘える。胸がいっぱいで、どうしようもなくて、私は何度も何度も傑に「ありがとう」と繰り返した。
それからそっと、まだ膨らんでもいない自分の腹部に手を添える。この向こうに、小さい小さい命が宿っている。

「その検査薬だけ?それとも産婦人科で見てもらったの?」
「検査薬で陽性だったから、今日産婦人科で妊娠の診断受けてきたところなの。まだ初期でもう一回来てって言われてるけど」
「そうか…。ごめんね、ひとりで行かせて。心細かっただろう?次の検診は私も行くようにするから」

傑がそう言いながら私の頭を撫でる。その指先からじんわりと愛おしさが伝わってくる。産婦人科で待っている間も、診断を受けて今打ち明けるまでも、ずっと不安だった。けれど傑の一言で、そんな不安なんて元々なかったのではないかと思うほど心が満たされていくのを感じた。
それから傑に手を引かれ、リビングのソファに腰かける。隣り合って座って、傑は私の右手をぎゅっと握った。

「焦ったよ。あまりにも仕事ばかりだから、ついに愛想尽かされたのかと思った」
「そんなことくらいで愛想尽かすわけないでしょ。こんなに好きなのに」
「だってナマエがあんなに暗い顔してたから」

傑が忙しいのは知っている。特級術師の上に高専で教鞭まで執っているのだ。だけど忙しくても少しでも時間があれば帰ってきてくれるし、連絡だってマメにくれる。
私が傑にもたれかかると、握ってきた手を一度解いて、包み込むように私の腰をそっと抱いた。守られているみたいですごく安心する。そして実際、私は何度もこの優しい手に守られている。

「この子には、術式は発現するかな」

傑がぽつりとそう溢した。産んでいいと言ってくれていたって、きっと呪霊操術が継承されることへの懸念はあるに決まっている。気休めかもしれないと思いつつも、私はそっと口を開いた。

「…痛みを知ってる傑だから、きっとちゃんと、伝えていけると思う」
「ナマエ……」
「孤独じゃ怖いことだって、分かってくれるひとがいれば、大丈夫だと思う」

夜の暗さを知っているからこそ、たった一つのろうそくの明るさを尊ぶことが出来る。生まれてくる子に術式があるのかないのか、そもそも呪いが見えるのかどうかだってわからないけど、もしも同じ術式を持っていたとして、傑にならその苦しみを理解してあげることが出来ると思う。傑は優しくて、優しすぎて傷つくぐらいで、そんな彼にだからこそ出来ることがあると私は根拠もなく信じていた。

「私は呪霊操術の辛さを分かってあげられないけど……出来ることならなんだってする。だから、一緒にがんばろう」

傑のためならなんだってできる。どんなことだって頑張れる。お腹にいるこの子にだって同じだ。うんとたっぷりの愛情を注いで、世界中で一番幸せな子供にしたい。

「幸せにする」

傑がプロポーズのときと同じ言葉で私を抱きしめて、私はたまらなくなって涙を堪えるのでいっぱいいっぱいだった。お腹の子のために、私に産んで欲しいと言ってくれた傑のために、私にこれから何ができるだろう。
まだ心拍さえ感じられるはずのない赤ちゃんから、なにか信号のようなものを受け取った気分になった。

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