いつかの朝焼け
茨城のとある山の中、便利がいいとはお世辞にも言えない空き家に若い夫婦が住んでいた。夫のほうは顎に大きく二つの傷があって、随分と鉄砲が上手かった。特に鳥を撃つのが上手く、獲れすぎてしまったと妻が村の家々に分けて回ることもあった。
妻のほうはどこで身に着けたのか薬の知識に長けていて、薬草を摘んで煎じて簡単な薬なら容易く作ってみせた。

「百之助さん、今日はお鍋にしましょう」
「今日はというか、今日もだろう」
「だってとり肉のお鍋が好きなんです。嫌ですか?」
「いや、好きにすりゃいい」

夫のほうは右目がなかった。どうやら日露戦争にも出征した軍人のようで、近隣の村では戦争で目を失ったのではないかと噂をされていた。しかし真相を聞き出そうというものはおらず、結局のところ真実は闇の中である。


五稜郭の北側に陣地を構えロシア兵を迎え撃ったものの、逃げ出したアシリパたちを追いかけることは出来なかった。ナマエが足を撃たれたからだ。

「ナマエ!」
「尾形さんっ!」

銃声にいち早く反応した尾形が藪の中に潜む兵士の頭をパンパンと撃ち抜いていく。どうやら彼の射程範囲内に三人潜んでいたらしい。もっとも、殺してしまった今、誰がナマエを撃ったのかは分からないが。

「足を出せ、止血するぞ」
「は、はい…」

尾形は外套の端を裂くと、だらだらと血の流れる患部を強く圧迫するように巻きつけた。今のところ二人の近くには撃ち殺した以上の追っ手はいないようだが、いつ五稜郭から他の兵が来るとも知れない。

「ナマエ、少し我慢しろ。ここにいては追っ手に気が付かれるかもしれない」

尾形はナマエの返事を待つことなく彼女の肩を担ぐようにして立ち上がらせ、兵士の乗っていた馬の一頭に近づく。どうにかナマエを馬上に乗せると、その前に自分の身体を滑り込ませた。

「尾形さん、私のことは置いて行って下さい。じゃないと皆さんに追いつけません」

ナマエが痛みにぎゅうと唇を噛みしめながら言った。確かに、この先の戦いは手負いの女を連れて生き抜けるほど易いものではないだろう。この先に進むのなら、自分の身一つを守るのが精一杯である。

「尾形さん、早くいかないと見失います。私なら一人で街まで行きますから……」

ナマエが尾形の外套をぎゅっと握る。ようやくここまで来た。自分の欲しかったものたちを無価値と証明するために、ずっとずっと生きてきた。その足がかりになる北海道の土地の権利書が、いまこの先にある。ナマエがもう一度「尾形さん」と名を呼んだ。
尾形は馬の腹を蹴り、慣れた動作で操縦する。あろうことか、アシリパたちの逃げていった北側ではなく南に向かって馬を走らせた。

「お、尾形さん…!?」
「しっかり掴まっておけ、振り落とされても知らんぞ」

ドドッ、ドドッと一定の調子で馬は軽快に走った。ひゅうひゅうと身体の左右を風が通り抜けていく。ナマエの動揺は外套を掴む手から充分に伝わった。
彼女をここに置いて行けば、殺されるか捕縛されて尋問を受ける可能性が高い。ナマエが尾形についていることは周知の事実である。そしてひとり権利書を追っていったとして、生きて戻れるかどうかは厳しい賭けだった。

「自分自身が祝福された人間かどうかを知りたかった。勇作と俺は同じであると証明したかった。その方法が、俺にとってはこれだった」

聞き取れないようにわざと小さな声で尾形が呟く。当然ナマエは「え?」と聞き返してきたが、それには勿論答えてやらない。いままでずっと、茨城を出た時から、ともするとそのもっと前から、彼はそのために生きてきた。尾形はふっと口元を緩める。

「お前が俺の計画を全て台無しにしてくれたんだ。せいぜい責任を取れよ」

言っていることは随分と不遜なくせに声音は優しくて、そんなことはかけらも思っていないだろうということは手に取るように分かった。ナマエはぎゅっとしがみつくように尾形の腰に抱き着き、風に消されてしまわないよう大きな声で「はい!」と返事をしたのだった。


鶴見中尉や他の第七師団の面々の目をかいくぐるため、二人は函館から室蘭に移動した。そこから青森港に船が出ている。青森駅からは上野駅行きの列車があり、これに乗れば約丸一日程度で東京まで行くことが出来た。乗り込んだ三等車両の椅子は固くて座り心地が悪く、とてもじゃないが身体は休まらない。それでも少しもかまわなかった。

「東京に着いたらそこからどうしますか?」
「水戸まで列車に乗れればいいが……乗車賃が足りるか微妙だな。そんときゃ歩いて移動だ」
「それもいいですね」

尾形は郷里の近くへ戻るつもりらしい。まったくの地元では都合が悪いから少しずれた場所にはなるだろうが、尾形の育ったくにに行けるというのはとても嬉しかった。あいにく路銀がほとんどなく、上野行きの乗車賃でかなり心もとなくなっている。最終的には二人で歩いて移動をすることになるだろうが、それも悪くないと思える。

「尾形さんと二人旅って、小樽から茨戸に行ったとき以来じゃないですか?」
「まぁ確かにそうだな。あの後はなんだかんだと同行する連中がいやがった。なんだ、俺と二人では不満か?」
「いいえちっとも。初めてのあの頃みたいで懐かしいなって」

尾形が少し不服そうに言うものだから、ナマエは真っすぐに打ち返してやった。こういう確かめるような言い回しをするときは不安になっているだけなのだと、もう充分に承知している。そんなに不安になることはないと、何度も言って教えてやらなければいけない。

「尾形さんのお里はどんなところですか?」
「別に何の変哲もない田舎だ。特別面白いものはない」
「そんなこと言ったって、私北海道から出たこともなかったんですから。きっと北海道には咲いていない花とか食べものとかあるはずですよ」

尾形が適当なことを言うものだから、すかさずそう抗議をする。旅の途中でだって「あれは北海道にはない」だとか、逆に「これは北海道にしかない」だとかと話を聞いたのだ。同じ日本だけども、何から何まで同じということは絶対にないはずだ。

「尾形さんのお里に行けるなんて…楽しみだなぁ」

ナマエはそう言葉を漏らし、車窓に目を向ける。春めく季節は日差しも柔らかく、列車は蒸気を上げながら橋を渡ろうとしていた。彼の郷里に行ってみたいと半ば独り言のように言ったことがあったけれど、その時はまさか実現するなんて思ってもみなかった。

「…何もないところだが…朝焼けは綺麗だ」
「そうなんですか?」
「ああ。稜線を超えてあたりを明るくしていくのは……どこで見た朝焼けよりも美しいと思う」

尾形がそうぽつりぽつりと語った。曰く、祖父の猟銃を持ち出して鳥撃ちをしていたとき、その光景をよく目にしたこと。そのときの朝焼けは目を奪われるほど美しく、それからどんな場所で見た朝焼けよりも郷里で見たそれが一番だと思うこと。
それを聞くだけで、尾形にとってくにが思っているよりも大事なものであるのだと想像することが出来た。ありふれた日常を美しいと思えるのは、その場所を愛しているからだ。

「楽しみです」

ナマエはにっこりと笑いかけ、尾形に身を寄せもたれかかる。尾形の腕が首の後ろに伸び、ナマエの頭を抱えるようにして支えた。がたんごとんと列車は揺れる。ふたりをぐんぐんと温かい場所に運んでいく。


結局乗車賃が足りず、上野から水戸まで二人で歩いて旅をすることになった。北海道のように道中危険にさらされるようなこともあまりなく、しかもあの旅を経験しているから物怖じするようなこともほとんどなかった。
ささやかな二人旅を終えると、二人は小さな空き家を借りてひっそりと生活を始めた。

「この見た目は便利だな」
「見た目って…あ、義眼のことですか?」

暮らし始めて一か月が経過したころ、出し抜けに尾形がそんなことを言い出した。義眼でいることが便利だなんて言っているところを見たのはこれが初めてだ。どういう意味だろう、と首をかしげていると、それを感じ取った尾形が言葉を続ける。

「この目が日露戦争で負ったもの思われる。それで実家には帰りづらくて妻と二人で見知らぬ土地に来たのだと勝手に推測されるし、こちらの事情に踏み込んで来ることも少ない」

ようは腫れ物に触る、という状況に近いということだ。状況によってはその方が煩わしく思うこともあるだろうが、二人には聞かれたくない事情など山のようにある。放っておいてくれるほうが好都合というものだった。

「……妻って、そんな風に思われてますかね?」

ナマエがぽつんと口にする。思っているより拗ねたような口調になってしまって慌てて言い直そうとしたが、尾形の耳に届いてしまっているのだから根本的に意味がない。面倒だと思われたらどうしよう。

「どういう意味だ?まさか兄妹になんて見えやしないだろう」
「えっと、いや…なんでも……ない、です……」
「はっきり言え。そういう風に濁されるのはおさまりが悪い」

尾形がじっとナマエを見つめる。これは白状するまで解放してくれないだろう。ナマエは正直に言うべきか、それともなにか別の言葉を探すべきかを逡巡する。本当のことを告白してしまえば、煩わしがられるかもしれない。

「……だ、だって…その……尾形さんが私のことをどう思ってるか…聞いたことがあるわけじゃありませんし…」
「は?」
「もしかしたら都合のいい飯炊き女だって思われてるかも知れないじゃないですか」

もっとも、それは随分な暴論だけども。後半は取って付けた話だが、前半はナマエの胸の中でほんの少しだけ気になっていたことだった。
彼の口から自分のことをどう思っているかという話は聞いたことがなかった。もちろん尾形は利益もない面倒な人間関係を築こうとするタチではないと知っているし、今までの態度でおおよそ自分と同じ気持ちでいてくれているのだろうということは理解している。けれど言葉にして聞いてみたいというのも事実だった。

「……お前、そんな風に思っていたのか」
「後ろ半分は冗談ですけど……尾形さんの言葉で聞いてみたいなとは思ってます」

ナマエがそこまで言えば、尾形はじっと黙るようにして考え、数秒たっぷりと間をとったあと、ゆっくりと口を開いた。

「……お前を好いている。自分でも気が付かないうちにどうしようもなくなっていた」

理由を言語化することは難しかった。ただ、はじめは食い物の感想をぺらぺらと良く喋る変な女だと思っていて、会うたびに面白がって団子を買い与えたりしていた。くるくる変わる表情が新鮮で、それをすっと見ていたくなった。小樽を離れなければならないというとき、二度と会えないのは惜しいと思った。だから連れ出した。

「お前が愛してくれたから、俺は今ここにいる。お前が俺を、人間にした」

尾形が手を伸ばし、ナマエを引き寄せて抱きしめる。旅の中で何度も何度も彼女は尾形についてきたことを後悔していないと言った。彼女の柔らかな指先はそのたびに尾形へと愛を注いでくれた。

「ずっとそばにいてくれ」

尾形の声がじかに耳へと触れる。ナマエは尾形の背に腕を回し、自分よりもずいぶんと分厚い身体をぎゅっと抱きしめた。心臓がこんなにも近くにある。分かっていたことだけれども、言葉にされると何倍も愛おしさが募っていった。


尾形の生業は主に狩猟。といっても、猟師というよりは食べ物を自給自足するという程度のものだった。ナマエは薬店で得た薬草の知識を生かし、薬を作っては近所の村や町で売って小銭を稼いだ。

「まるで薬売りだな」

薬研で薬草を煎じていると、後ろからそれを眺めていた尾形がそんなことを言い出した。薬売りを自称できるほどの金は稼いでないように思うが、どんな仕事をしているのかと問われると「薬売り」と答えるほかないだろう。
頭に過ったのは、関谷輪一郎と対峙することになった阿寒湖でのことだった。あの時土方は飲まされたフグ毒を相殺するために咄嗟の判断で適量のトリカブトを口にしたと言っていた。その後若い頃の薬売りの経験が役に立ったとも添えていたけれど、経験というものは本当に身を助けるものだ。

「この時代を生き抜くには、運だけでは事足りないってことですよ」
「なんだそりゃ」

阿寒湖での話を知らないのだから、尾形から見ればいきなり飛んだ話に一体何なんだと思うに違いない。
必要のない経験などないのだと思う。尾形と旅をした日々も、彼を待った時間も、それまで無縁だった苛烈な出来事たちも、すべてが今日ここへ繋がっている。

「ふふ。尾形さんと一緒に居られて、幸せだなって話です」

尾形はもっとわからないとばかりに首をかしげる。薬研を片づけたら食事の支度をしよう。尾形が獲って来てくれる鳥は、なにより一等美味いのだ。

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