境界線の左右から
恋人の職業を、ナマエは知らない。というより、正確には本当の職業を教えてもらっていない。
紆余曲折あってナマエの母親に身分を明かした際は私立専門学校の事務員を名乗っていたが、同棲していて凡そそれとは程遠い勤務形態を察さざるを得なかった。休日出勤だけならまだしも、夕方から深夜に及ぶ勤務、上司らしき男の送迎、月に何丼も発生する出張。明らかに事務員の仕事の範疇を超えている。というか、事務員であるかどうかも甚だ怪しい。
一体どこの専門学校なら事務員がそんな勤務状態になるというのか。


12月某日。ナマエは買い物を済ませに出かけてた。伊地知と同棲するようになって、現在は都内の家具メーカーで契約社員として働いている。伊地知には自分の給与だけで生計は成り立つので働く必要はないと言われているから、働きに出ているのはできれば外に出て自分も働きたいというナマエの意思だった。

『しばらく新宿には近づかないようにしてください』

これは二週間前の伊地知の言いつけである。深く理由は聞かなかったが、ナマエは素直に頷いた。キャバクラに勤めていた時ならばいざ知らず、根本的にあまり新宿に用のないナマエには特に不便はなかったし、その言いつけを破るほどのこともない。
世の中はクリスマスムード一色で、そこかしこからクリスマスソングが聞こえてくる。

「あれって…」

買い物を済ませて帰ろうとした時、交差点の向こうの駐車場にピカピカと磨き抜かれた黒いセダンを見つけた。いわゆる国産高級車であるそれは、伊地知が通勤用にも使う社用車と同じものだ。彼の職業がわからないのだから社用車という表現が正確か否かはわからないが。
もしかして、と思いその車を見ていると、運転席からスーツの男が出てきた。それは伊地知で、忙しなくスマホを耳に当てて手元ではタブレットを操作している。

「…お仕事、大変そうだなぁ」

後部座席から学生風の少年が二人降りてきて、その二人があの日コンビニで見かけた二人だと気がついた。あの時もやはり仕事中だったらしい。
忙しそうにしているし、わざわざ外で声をかける必要もないだろうとナマエはそのままその場を立ち去り、その夜帰宅した伊地知に実は昼間に見かけたのだと伝えると「声をかけてもらってもよかったのに」と少し恥ずかしそうに笑った。それがクリスマスの四日前のことだった。


ナマエは伊地知の職業を明かされていなかったが、それを尋ねることはしなかった。どんな仕事をしていても伊地知が伊地知であることは変わらないし、それがどんなものでも伊地知という人間の人格が損なわれることはないと思っていた。

「伊地知さんおかえりなさい」
「ただいま戻りました」

だから、クリスマスを一緒に過ごすことができなくても、文句の一つも言わなかった。このところ伊地知は忙しくしていて、特に12月に入ってからの忙しさは尋常じゃなかった。
ナマエは今日も深夜に差し掛かるような時間に帰ってきた伊地知を出迎え、風呂の用意ができていることを伝える。ヨレヨレの伊地知はほろっと笑って「ありがとうございます」と風呂場に引っ込んでいった。

「ミョウジさん、明日のご予定は何かありますか」

風呂から出てきた伊地知が尋ねた。時刻はすでに深夜0時を回っているが、明日というのはおそらく24日のクリスマスイブのことだろう。

「明日ですか?日曜日で会社も休みですし、特に何もありませんけど…」

そう答えながら、一体何を言われるのかとナマエはじっと伊地知を伺った。一般的に考えて日付的にはクリスマスイブなのだから何かしらのデートの誘いのようではあるが、そういう類のものではないということは聞かなくてもわかった。

「明日は一日、家から出ないでください」
「えっと…それは…」

新宿に近寄るなとは言われた。理由は聞かなかったし、ちゃんとそれに従った。
伊地知は時おりこうして説明をせずにナマエの行動を制限するような要求をすることがあるが「一日家から出るな」という明確で厳しい要求をされたのは初めてだった。

「…明日、新宿が封鎖されます。現場は新宿と予告されていますが、正直どこまで被害の規模が及ぶのかが予測できません」
「封鎖…」
「はい。なので、可能な限りここを動かないで欲しいんです」

伊地知の口ぶりは、まるで新宿がテロの予告を受けているように聞こえた。その静かながら有無を言わせぬ様子にナマエはコクコクと頷く。大丈夫だ、もとよりそう大した用事などない。

「あの…伊地知さんは、新宿に行くんですか…?」
「…はい」

伊地知の肯定にゾクっと寒気が走る。何か重大で危険なことがあって、伊地知はその渦中へ飛び込む。それが何かはわからないけれど、伊地知が危険に晒されることだけは明白だ。

「気をつけてくださいね、怪我とか、その…」
「はい。私は大丈夫ですよ」

伊地知はゆっくりと笑う。ナマエは思わず伊地知の手を握り、伊地知がそれを握り返した。じっと見つめあって、それからナマエは伊地知の胸元に頭を預ける。とくとくとく、心臓の音がする。

「…いつも、すみません」
「いいんです。私、伊地知さんがそばにいてくれるだけで」

伊地知がナマエの頭を優しい手つきで撫で下ろした。


12月24日。伊地知の言う通り、新宿で不発弾が発見されたというニュースが流れ、警察と自衛隊により新宿が緊急封鎖された。伊地知は朝早くから出かけていて、ナマエはそのニュースを一人で見ていた。

「伊地知さん…昨日予告って言ってたよね…」

ニュースの口ぶりでは、早朝に近隣住民によって不発弾らしきものの通報があったために緊急封鎖を行なったと言っていた。少なくともそれは真実ではない。
その時ふと、脳裏によぎったのは自分の父親のことだった。
高級クラブの客で、自称除霊を生業としていたという男。母とナマエを残し、一切の消息を絶った男。

『もっとこう…裏の世界の…私たちが会っちゃいけないような人だったと思う』

母はそう言った。それなりの金を遺しそれを人に託してまでも母やナマエを大切に思っていたらしいその男のことを、母親は自分たちとは住む世界が違うと言った。外国なんかよりももっともっと遠い世界で生きていた、そのもっともっと遠い世界とは、思いの外日常のすぐ背中合わせにあるのではないのか。

「…ダメダメ。考えても仕方ない」

池袋で悪質なキャッチから助けられた時、伊地知は警察ではないが仕事で警察に出向くことが多いと言っていた。ひょっとすると、彼は何か国防に関わるような重大な仕事をしている人間ではないだろうか。
例えば公安や内閣情報調査室のようなーー。

「いやいや、ドラマの見過ぎ」

自分のフィクションめいた発想をははは、と笑う。
言いつけの通りに近くのコンビニにさえ行かず、ナマエは映画配信サイトを利用して公開時に見損ねたままになっていた洋画を鑑賞すべくリモコンを操作した。
昼を過ぎ、映画を二本見終わって、掃除と洗濯を済ませる。いわゆる火災なんかの事件とは違うからか、新宿の様子は現場付近からの中継はもちろんヘリコプターからの映像も出なかった。

「…伊地知さん、大丈夫かな…」

新宿で何が起こっているのかはわからないが、十中八九伊地知は危険に晒されているのだろう。だがそうとわかったところでナマエにできることは何もない。
なんだかそれでも今日はいつもと違う気がして、ナマエはスマホを取り出した。

『お仕事お疲れ様です。晩御飯とお風呂用意してます。お仕事お気をつけて』

普段なら仕事中に迷惑だろうとそんなメッセージは送らない。返って変なことをしてしまっただろうかとスマホをぎゅっと抱きしめた。
大丈夫、大丈夫だ。自分に言い聞かせ、それからなるべく今日のことを考えないように無関係の映画を見ることに専念したが、ちょっとしたことで新宿のことや伊地知のことを連想してしまって結局一日中モヤモヤとした気持ちを抱えたままだった。


夕飯を済ませ、ニュースを確認する。新宿では結局何か損害が出ているらしく、明日も立ち入り禁止は解かれないらしい。
ニュースで流れた映像は警察車両と自衛隊車両がぴたりと入口を封鎖しているものだけだった。

「あ、メッセージ既読になってる…」

伊地知に送ったメッセージが既読になっていると気づいたのは24日が終わるころだった。返信はないが、既読がついたことにひとまず胸を撫で下ろす。
明日は月曜日だが、新宿の封鎖は解かれていないし伊地知の様子が気になる。こんな年の瀬にとも思ったけれど、伊地知が帰ってこないのなら明日の仕事は体調不良とでも誤魔化して欠勤させてもらおうとナマエは返事の来ない画面を見つめた。

「…お風呂…保温切れちゃってる…」

風呂の保温の時間はとっくに切れ、湯船は冷たくなっている。ナマエはもう一度湯沸かしのボタンを押し、風呂の追い焚きを始めた。いつ帰ってくるかはわからないけれど、この寒い中仕事をして帰ってくるなら風呂は用意されていたほうがいいに決まっている。
そのまま伊地知の帰りを待ち、懸命に瞼を上げていた。しかしそれも次第に難しくなり、徐々に瞼が降りてくる。時計を見る。深夜三時。伊地知はまだ帰ってこない。
ソファの上で毛布に包まる。一人きりのリビングはひどく寒く感じた。


「ーーさん、ミョウジさん」

ぼんやりする意識の中で名前を呼ばれた。視界が白む。人口の光は瞼を容赦なく叩きつけた。

「ソファで寝ていては風邪を引きますよ」
「ん…いじち、さん…」
「はい」

そうだ、ソファで伊地知の帰りを待っていて、寒くて、縮こまっていてーー。覚醒し始めた頭を回転させて状況を整理する。私、伊地知さんをーー、伊地知さんを?

「い、伊地知さん…!」
「はい、ただいま戻りました」

室内灯を背にいつもより疲れた様子で立っていたのは伊地知その人であった。ナマエはそこで飛び起きて縋るように伊地知のスーツを掴む。よかった、やっと帰ってきた。
伊地知はナマエの肩をそっと抱いた。

「心配させてしまいましたね。大丈夫です、怪我もしてません」
「よかったです…新宿のニュース心配で心配で…」

声が震えた。もしも、という悪い想像ばかりがナマエの頭を支配していた。

「現場そのものはそこそこの時間に終わったんですが、色々後処理をしていたらこんな時間になりまして…すみません、返信もできずに」
「いいんです。無事に帰ってきてくれただけで…」
「メッセージ、嬉しかったです。丁度合間の時間に確認して、すごく元気が出ました」

そう言いながら伊地知は震えるナマエの頭を撫でる。暖かな体温がじんわりと伝わり。伊地知の存在を確かにナマエへと伝えた。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあって、でもそれら全てより目の前に伊地知が帰ってきてくれることがすべてだった。

「ミョウジさん、聞いてくれますか」

伊地知が改まった声で言った。ナマエは少し体を離し、伊地知を見上げる。伊地知はそこから膝をおり、ソファに座るナマエの前に跪くように屈んだ。それから数秒覚悟を決めるような間があり、ゆっくりと口を開く。

「あなたも、その…気づいていると思いますが、私は専門学校の事務員ではありません。ですが職務上、これからもずっとあなたに打ち明けることもできません」

両手を握り語られるそれはまるで懺悔のような憂いを帯び、ナマエは口を挟むこともできなかった。
気づいていた。そんなの、とっくの昔に。それでもいい。それでもいいのに、まさか別れを告げられるのかと心臓が掴まれた。

「自分の都合ばかりで身勝手なのはわかっています。それでも、ミョウジさんともっとちゃんとした形でそばにいたい」
「それって……」

伊地知の芯を持った瞳がナマエを見つめる。握られた手の力が強くなる。じわりとそこから汗が滲むようなものを感じて、伊地知も緊張しているのだと伝わってきた。

「私と結婚してくれませんか」

冷たく掴まれた心臓は一気に解放され、今度はどくどくと脈を打って熱くなった。目頭がぐっと痛くなり、双眸から涙が溢れて頬を伝う。断る理由がどこにあるだろう。こんなに好きになれる人は、彼の他にどこにもいない。

「…喜んで」

ナマエの返答に伊地知は緊張を解き「よかった」と頬を緩めた。
きっとそばにいればいるほど、伊地知の住む世界が違うのだと思い知らされることだろう。それでもよかった。
世界の境界線に立ち、伊地知は向こう側で、ナマエはこちら側で、並んで手を繋いでいたい。

「大好きです、伊地知さん」
「私も、誰よりもあなたを大切に思っています」

ナマエはソファから体を下ろし、伊地知と同じ目線になってぎゅっと抱きしめた。スーツからは埃と鉄の臭いしている。
カーテンの向こうから光がさす。朝がきた。夜の境界線を越え、太陽が昇った。

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