もうすこしがんばりましょう
こう言っては何だが、俺は女に困ったことがない。
放っておけば寄ってくるし、別に自分で探して捕まえたいほど情熱を持てる相手はいなかった。それをやっかまれるのと自身の性分で同性の友人のようなものは少なかったが、それに関しても今にところ不便に思ったことも残念に思ったこともない。

「で、結局百之助は何が言いたいわけ?」
「…女へのアプローチの仕方がわからん」
「赤ちゃんかよ」

アヒルみたいに尖った口先をもっと尖らせて隣に座る宇佐美が悪態をついた。この宇佐美という男は断じて友人の類ではないが、まぁ、なんだかんだと同じ空間にいてもそこそこ快適な相手だ。

「うるせぇ。いままで必要なかったんだ」

必要のないものをどこで学べば良いというのか。
話すことがねぇから黙ってりゃミステリアスだなんだと偶像を押し付けられるのがいつものことで、そのうち勝手に幻滅して離れていく。特に追いかけたいとも思わないからさほど気にしていないが、勝手に期待して勝手に幻滅するなんて迷惑な話である。

「それが急に必要になったと」
「……まぁ」
「相手を当ててやろうか」
「いい。余計なこと言うんじゃねぇ」

ニヤニヤ笑う宇佐美はお見通しと言わんばかりの顔をしていて腹が立つ。いや、そもそも話題を出したのは俺だが、そんな細部まで晒してやるつもりはなかった。
俺の制止を無視して宇佐美がそのまま愉快そうに口を開いた。

「経理のミョウジさんだろ」

これがまた当たっているのだから、本当に腹立たしい限りだ。


経理のミョウジ、とは、文字通り俺の勤める会社の経理部に属している女性社員だ。絶世の美女というわけではないが、ちょこまかと動く姿が何となく目についた。フロアが違うので、毎日顔を合わせるわけではない。俺は営業部でわざわざ経理まで出向くことは少ないし、廊下や社員食堂ですれ違うかミョウジが営業部を訪ねてくるか、顔を合わせるのはそれくらいだ。

「すみません、経理部のミョウジです。出張費精算の件で伺ったんですけど…」
「あれ、ミョウジさん。出張費って誰の?」

ここで問題だが、すれ違ったとしても俺はミョウジと全く会話をすることがないという点だ。営業部に顔を出したミョウジに早速話しかけたのも同僚の宇佐美である。
あいつはああ見えて外ヅラがいいから、なんだかんだとどの部署の人間とでも上手く話を合わせて付き合っているようだ。

「わ、ほんとじゃん。百之助ぇ、お前書類間違えてるけど」
「は?」

おかしい。そんなことはないはずだ。そもそもフォーマットがある出張費清算の申請書なんて間違えるわけがないだろう。
俺は怪訝に思いながら宇佐美とミョウジのところへ移動し、一体どこの話だと差し出された書類をじっと見る。その書類の取引先の記載と交通手段の表記が間違っていたが、俺は確かに正確に記入したはずだ。こんな単純なミスをするわけがない。

「お忙しいところ申し訳ないんですが、清算の申請期限まで時間がないので早めに訂正していただいてもいいですか?」
「いや、俺は間違えてーー」
「はいはい百之助、ちゃちゃっと直しちゃおうか」

俺が申請した際はミスなんぞなかったはずだと主張しようとすると、宇佐美が割って入ってきて「今日中に持って行かせるよ」と、ミョウジに言ってミョウジが「よろしくお願いします」と頭を下げて営業部の部屋を出ていった。

「おい宇佐美、あんな書類俺が間違えるわけがないだろ。何かの手違いがーー」
「バッカだなお前、きっかけだよきっかけ」
「ア?」

心底呆れたような顔をした宇佐美がそう言って、俺は思わず意味もなく音だけで聞き返す。なんだ、きっかけって。

「きっかけって何のだよ」
「経理部に顔出すきかっけだよ馬鹿」

その意味不明な言葉にそのまま首をかしげていると、宇佐美が盛大にため息をついて、無理やり俺と肩を組むとこそこそと続ける。近い。うざい。

「お前な、経理なんか用がなきゃ行かないでしょ。だから用作ってミョウジさんと喋ってこいって言ってんの」
「まさかお前が小細工したのか」
「感謝してよね」

ふんす、と鼻息を荒く感謝を要求され、その態度が無性に腹立たしくて癇に障る。喋るって何をだよ、と尋ねようとしてそこで後ろから月島主任に「おい」と声をかけられた。

「雑談はそこそこにして仕事戻れよ」

そう言われ、宇佐美が「はぁい」と返事をした後「僕まで百之助のせいで怒られたじゃん」と抗議されたが、そもそもこんなことをけし掛けたのは宇佐美だ。
俺は別に頼んじゃいない。


とは言いつつも、書類が不備のある状態で経理に届いているのは間違いなく、俺はPCに保存してあった間違いのない書類を手に経理部に向かった。宇佐美いわく、16時前が一番ミョウジが在席している時間らしい。何でそんなことを知ってるんだ。

「営業部の尾形ですが、ミョウジさんは在席中ですか」

経理部のドアをノックして声をかけると、一番手前にいた見たことのない女性社員が目を丸くして「声かけてきます」と慌てて席を立った。
その様子を目で追いかければ、奥の方で何やらファイルを整理していたミョウジに声をかけに行って、ミョウジがこちらに気付いてぱたぱたと駆け寄る。

「すみません、ご足労おかけしました」
「いや、元はこっちのミスだ」

いや、俺のミスではないんだが。とは口に出さず、再提出の書類をミョウジに手渡す。ミョウジはその場でぺらぺらと不備がないかを確認したあと「問題ありません」と、それを受領した。

「珍しいですね、尾形さんの提出する書類に不備があるなんて」
「まぁ、なんだ…その…」
「あっ、ごめんなさい、責めてるわけじゃなくて!いつも間違いがないから本当に珍しいと思っただけで…」

うまく言葉の見つけられない俺が気分を害したとでも思ったらしいミョウジは、慌ててそう弁明して、俺は「気にしてない」と彼女の見当違いであることを伝える。というか、ミョウジは。

「俺のこと、知ってたんだな」
「え?」
「いや、話したこともないだろう」
「え、えっと、その…」

今度はミョウジが口ごもる番で、視線をうろうろとさせながらなにか適切な言葉を探している。同じ会社に勤めているのだから知っていておかしなことはないが、いつも間違いがない、と個人を認識されているとは思っていなかった。
タイミング悪くその時俺の社用スマホが着信を告げ、それがまた折り返しにしても面倒くさそうな相手だった。取るしかない。

「すまん、取引先だ。書類のほうは以後気を付ける」
「あ、はい。お引止めしてすみません」

俺はその声を聞きながら、面倒くさい取引先の電話に「はい」と、応答して営業部を目指した。


「嘘でしょ、それだけで戻ってきたの?」
「いや普通だろ」

翌日、喫煙室で顔を合わせた宇佐美が死ぬほど驚いた顔をして「お前本当に馬鹿だな」と俺を糾弾した。どこがだ。なにもおかしくないだろうが。
宇佐美は短くなった煙草をじりじりと灰皿に押し付けながら、デカい溜息をついて俺の胸のあたりにぐりぐりと人差し指でさした

「あのな、そういうとこからもっと話広げて食事に誘ったりすんの。お前の場合はミョウジさんとほぼ喋ったこともないんだろ。食事にでも行ってお前のことを好きになってもらう努力をすんのさ」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんだよ、バカ之介」

少しもピンとは来ないが、宇佐美は実際この前気がある女を落として付き合い始めたといっていたし、実績という意味ではそこそこ参考になるかもしれない。

「百之助はどうせ僕意外に相談なんかできやしないんだから、僕の言うこと聞いときな」
「…ちっ…」

改めて言われると腹が立つ。


それから特に進展しないまま一週間。フロアが違うし今週は外回りの時間が長かったからミョウジのことは出勤時に見かけるくらいに留まっている。
宇佐美に言われた「食事に誘え」を一切実行出来ていない。チャンスもない。

「くそ…A製薬の担当者早く変わんねぇのかよ…」

月末、俺の担当で最も愚図な男が担当者になっている取引先会社の取るに足らない仕事に手間を取らされて、しょうもない残業をさせられた。イライラしながら会社のエレベーターを降りてエントランスを抜ける。随分遅くなったために社員はほとんどいなかった。
自動ドアを潜ったところで、やっとほかの社員の姿を見かけた。

「ミョウジ?」
「あれ、尾形さん?」

後ろ姿でもわかる。経理部のミョウジだ。
ミョウジは俺の声に振り返って丸い目をもっと丸くして「お疲れ様です」と言って頬を緩ませた。

「こんな時間まで営業さん大変ですね」
「いや、残業はお前もだろう。他の経理の連中はどうした?」
「あはは、実はちょっとミスしちゃって。月末で他にもいろいろありましたし、残業させて貰ってたんです」

ミョウジは少し後ろめたそうにそう言った。経理の仕事内容は俺の関知するところではないが、月末に特にバタついているのは知っている。まぁ締めだなんだとあるからそれ関連なんだろう。それにしても。

「意外だな、ミョウジがミスするなんて」
「え?」
「持ってくる書類は正確で丁寧だし、あまりミスをするイメージがない」

顧客への請求書、出張費の申請や年末調整の書類。なにかと細かいことを要求されるそれらを彼女は色んな部署に持って回ったり回収したりをしているが、補足の説明がされている頭紙なんかはいつも理路整然として分かりやすい。提出した書類の不備に気が付くのも早いし、根本的にミスは少ないタイプに見える。

「尾形さん、私のこと知ってくれてたんですね」

これはこの前の逆だ、とここではたと気が付いた。
同じ会社に勤めているのだから知っていておかしいところはないし、なんなら一週間前に宇佐美の仕業で不備にされた書類の再提出で顔を合わせているのだから当然だ。でもそれはミョウジがどんな勤務態度で仕事をしているかということまで知っていることの言い訳にはならない。

「…お前のことだから、見てた」

なんとか言葉を捻りだしてみたが、これは果たして正しいのか。なんで今日に限って宇佐美がいないんだ。クソ。
「僕デートだから帰るけど。百之助残業?ウケるね」そう言って帰ってった宇佐美を脳内で思い浮かべて八つ当たりをする。
というかそもそもなんで宇佐美に頼らなきゃなんねぇんだ。

「えっ…それって…」
「駅まで送る。最寄りでいいか?」
「は、はい…」

俺は飲み込めていないだろうミョウジの言葉を無視して最寄り駅の方へと足を向ける。無意識のうちに手を掴んで引っ張っていて、それに気が付いたのは駅の改札を潜るときのことだった。


翌日、社員食堂に向かう途中で宇佐美に昨夜のことを話すと、開口一番「馬鹿だなぁ」と罵る。

「そこまでしといて百之助チキン過ぎるでしょ」
「…うるせぇ」

どうしてこんなにも難しいんだ。ただ女と話して食事に誘うだけだろう。それがなかなかどうして上手くいかない。
そう言えば今まで自分から女を飯に誘ったことさえなかったな。思い返してみても言い寄ってくる女を適当に相手して、自分から何かをしたことというのは殆どない。そう考えていると、頭の中を見透かしたように宇佐美が「だから百之助は赤ちゃんなんだよ」とまた馬鹿にして笑った。

「なんなんだよ、それ」
「それって?…あ、赤ちゃんってやつ?」
「ああ」
「何にも自分で出来なくて人にやってもらうばっかりの赤ん坊ってこと。そうだろ?実際お前食事にも誘えてないし。前途多難だね」
「チッ…」

食堂に辿り着き、券売機でA定食の食券を購入する。カウンターにそれを出して盆を受け取り、適当に座れる場所を探した。今日は外が雨だから社食を利用する人間が多いらしく、いつもより随分混み合っていた。

「あ、あそこにいるのミョウジさんじゃん」

B定食を頼んだ宇佐美が隣でそう言って、視線の先にミョウジを見つけた。いつもは数人でつるんで飯を食っているが、今日はひとりらしい。
宇佐美が「行って来いよ」と俺の足をげしげしと蹴り、じろりとひと睨みしてからそのテーブルに向かう。ミョウジもA定食を食べていた。

「ミョウジ、ここいいか」
「あ、尾形さんお疲れ様です。どうぞ使ってください」

ミョウジは相席を承諾し、俺は前の椅子に腰かけた。ミョウジの茶碗は白米が山盛りになっていて、今まで一緒に飯を食った女はみんな「そんなに食べれない」だなんだと言って全然食わなかったなと勝手に頭の中で比べる。
対してミョウジはメインのおかずのサバを綺麗に一口大にほぐして、白米と一緒にせっせと口に運んでいた。
良く食う女を好きだと思ったことは特にないが、美味そうに飯を食っているのは見ていて気持ちがいい。

「尾形さん?えっと…なにか…?」

ミョウジが箸を止め、じっと俺を見た。脳裏に宇佐美がちらつく。うるせぇ。メシに誘えばいいんだろ。そのくらい俺にだって出来る。俺は脳裏の宇佐美のしたり顔を追いやり早速切り出した。

「ミョウジ、その、なんだ。飯食いにいかねぇか」
「えっと…ごはんは今食べてます、けど?」

ぽかんとしたままのミョウジにそう言われ、俺は目の前のA定食を見つめた。そりゃ確かにその通りだな、と次に続ける言葉をなくし、隣のその隣のテーブルで宇佐美がこちらを見ながら笑っているのが視界の端に入る。鬱陶しい。

「あの、尾形さん、えっと、今週の金曜日とか、なら…」

ミョウジがそう続けながらこちらを伺うように見上げていて、俺は「ああ」とそれを承諾した。
よし、ここまで来たらあとは簡単だ。相手の好物でも二人で食いに行きゃいい。

「あー、なんだ。その、好きな食いもんとか、あるのか」
「私、しいたけが大好きです」

ーー前途多難とはまさにこのことである。
おい宇佐美、そこで笑ってんじゃねぇ、クソが。

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