シュガーメルト
建人くんと私のデートの約束というものは、基本的にあまり守られない。
私は術師としての勉強をしたものの術式的、性格的に現場に出ることが向かなくて、高専の研究者みたいなことをしている。
片や建人くんは一級呪術師。ばりばり現場で呪いを祓う最前線の仕事。
つまりはシフト通りに仕事がこなせることも少なく、緊急の呼び出しなんてザラで、デートの予定なんて大概思ったようにいかない。

「ありゃ、帰ってこれないか」

高専で今日の分の文献整理を終えてスマホを確認すると、建人くんから『すみません、緊急で任務が入りました。今日は返れそうにありません』とメッセージが入っている。帰る、を返る、と誤字のまま送信してしまっているあたり、だいぶ焦っていたとみえる。
今日はドルチェの美味しいレストランでディナーデートの予定で、高専に戻ってくる建人くんを待って一緒に出ようという約束をしていたのだ。

「うーん、どうしよっかなぁ」

さっき更衣室で最近買ったおニューのワンピースに着替えたれど、建人くんは来れないならもう少し作業進めていこうかな。
この前同期の五条くんが探してきた東北の民間信仰の面白い資料があった。あれの解読を進めるのもいいかもしれない。
私は自分のデスクに戻って資料を広げた。東北は蝦夷の文化もあって、独自の民話形成がされている。調べれば調べるほど奥が深くて、私はこのあたりの風俗を調べるのが好きだった。
文献を読み進めていると、ノックもなしに研究室のドアががらっと開く。

「お疲れサマンサ―」
「五条くん?」

鴨居にぶつかるくらいの背の高さの五条くんが、ひょいっとそれを避けて私の研究室に入ってくる。

「研究?」
「うん、五条くんがこの前持って帰ってくれた東日流外三郡誌関連のやつだよ」
「勤勉だね」

五条くんはそう言って、私のデスクに椅子を引き寄せるとはす向かいに座った。
長い指でぺらぺら資料をめくり、つまらなそうに眺める。興味がないなら見なければいいのに。

「五条くんは今まで任務?」
「そ。で、このあとまた任務」
「わぁ、相変わらず激務」

五条くんは四人しかいない特級だ。尤も、その中のひとりは今呪詛師になってしまっているけれど。
特級術師のスケジュールは相当過密。しかも九十九さんは高専の任務受けないし、乙骨くんはまだ学生さんだし、必然的にしわ寄せは五条くんと、それから他の一級術師にいくことになる。

「珍しい服着てるね」
「あ、着替えれば良かった」
「えぇ、似合ってんだからいいじゃん」
「余所行きのワンピースは動きづらいの」

裾もひらひらしているし、そこそこのお値段だから生地も上等。それに汚したくないし。
私は椅子の掛けていた白衣を適当に羽織って、襟の位置を簡単に直す。

「余所行きって、なに、おしゃれでもして今からデート?」
「の、予定だったんだけどねぇ」

私が苦笑すると、五条くんは察したように「あー」と声を漏らした。
そうです、その通りです。

「僕がこの後詰まってるから七海にお鉢が回ったか」
「みたいだね。明け方までかかりそうだって」

五条くんのこの後の任務というのも恐らくそこそこに時間のかかるものなんだろう。
強い術師、特に一級以上ともなると他の術師には手に余る任務の引継ぎや、突発的な調査不足案件にまわされることも多い。その上五条くんなんかは上層部とバチバチだから無理難題を押し付けられていることもままある。

「いやぁ、悪いね、僕が代わってあげられたらよかったのに」
「ふふ、いやだよ、五条くんに借りなんて作ったらどんな目に合うかわかったものじゃないんだもん」

そんな軽口を叩きながら目の前の文献に目を通す。
なるほど岩木山の噴火のときの解釈はこういうのもアリか。

「…甘えらんなくて寂しくない?」
「まぁ、寂しいと言えば寂しいけど、建人くんのほうが私よりよっぽど危ないところで頑張ってるんだし、我儘は言えないよ」

さらさらルーズリーフに頭の中身を書き留める。デジタルで管理すれば楽なのにと言われるが、アナログのほうが捗るのだから仕方ない。
ふんふん、群公子の渡来の時期とここで繋がるわけね。

「僕が慰めたげよっか」
「え?」

五条くんが思わぬことを言うものだから、つい手を止めてはす向かいを見上げる。
するとニヤニヤ顔の五条くんがいつの間にかスマホをこちらに構えていて、嵌められた、とすぐにわかった。

「何撮ったの?ちゃんと消してよ」
「やだ」
「ていうかシャッター音しなかったんだけど」
「しないように設定してあるからね」
「それ、違法」

結局五条くんは何を撮ったのか教えてくれなくて、しかも多分消してくれなかった。
まあどうせ文献整理していただけだし目くじらを立てることもないか、と見逃して、一時間後、次の任務に向かう五条くんを見送った。

結局私もその一時間後くらいに区切りをつけて、タクシーで帰宅することにした。
おニューのワンピースを披露できなかったのは残念だけど、次のデートの時にでも着ればいいや。
少し華やかで夜のデート向きなワンピースだから場所を選ぶだろうけど、それこそ今日行くはずだったレストランに行く予定を立て直してもいい。

「はぁ、もう2時か…」

家に帰ってなんだかんだとしていたら時刻はすっかり深夜の2時を回っている。明日はお休みだから、思い切って朝寝坊しよう。
パジャマに着替えてベッドにもぐりこみ、その柔らかさに意識がとろんと溶けて行った。


美味しそうな匂いで意識が浮上する。
香ばしくて甘い、焼きたてのパンみたいな匂い。
私はぱちぱち何度かまばたきをして、枕元の時計を確認した。時刻は午前9時。いつもよりは幾分も朝寝坊の時間である。

「ん…」

ぼやける視界で目の前を認識しながら上体を起こすと、寝室の入口に人影がある。
金髪の、背の高い、ポロシャツ姿でーー。

「おはようございます」
「えっ!建人くん!?」

そこに立っていたのはプライベート用の眼鏡にポロシャツ姿の恋人だった。
どうしてここに?いや、合鍵を渡しているんだからもちろん好きに入ってくれて構わないんだけど、建人くん明け方まで任務だったはずなのに。

「建人くん、任務は?」
「巻きで終わらせたので、3時くらいには終わりました」
「お疲れ様。怪我はない?」
「ええ」

朝食を用意したんです、と建人くんが言って、この美味しそうな匂いの正体はそれか、と納得しながらベッドを出た。ダイニングに向かうと、フレンチトーストとフルーツジュース、それからマンゴーソースのかかったヨーグルトが準備してある。

「美味しそう」
「朝、ブーランジェリーに寄ってきたんです。美味しそうなブリオッシュがあったので、これはフレンチトーストだなと思いまして」

椅子に座り、手を合わせる。
いただきます、といってフレンチトーストを一口大に切って咀嚼すると、とろける甘さがじんわりと広がった。

「美味しい」
「それは良かった」

同じようにして建人くんも自分のフレンチトーストに手を付ける。
家事が得意な建人くんだけど、本当に料理はいつまでたっても敵わないんじゃないかと思う。

「建人くん、深夜まで任務だったのに大丈夫?」
「はい。仮眠は取ってきましたので問題ありません」

仮眠を取ったと言っても本当に数時間の事なんだろう。建人くんはいつもそうだから少し心配。
絶品の朝食を食べ進めていると建人くんが「それに」と言葉を続けた。

「あんな動画を送られて黙って寝ていろという方が土台無理な話です」
「あんな動画?」

なんだろう。何にもピンと来なくて首をかしげていると、建人くんはポケットからスマホを取り出して私に画面を向ける。

『…甘えらんなくて寂しくない?』
『まぁ、寂しいと言えば寂しいけど、建人くんのほうが私よりよっぽど危ないところで頑張ってるんだし、我儘は言えないよ』
『僕が慰めたげよっか』
『えっ?』

これは昨日の夜の五条くんとのやり取りだ。てっきり写真を撮られたと思っていたけど、どうやら動画だったらしい。
悪いことをしてるわけじゃないんだけど、こうやって建人くんのことで誰かと話しているのを後から見られるのは恥ずかしい。

「現場に入る直前に送られてきました」
「いやぁ、なんかごめん…」
「アナタが謝ることじゃないでしょう」

そりゃ、動画を撮ったのも送ったのも五条くんなんだからそれはそうなんだけど。
私がもごもごと口ごもったままでいると、建人くんはじっと私を見て言った。

「寂しい思いをさせてしまってすみません」
「え、本当に気にしてないよ。だって任務なのは仕方ないし、建人くんのせいじゃないんだから」

本当にその通りなのだ。
寂しいからって我儘を言うほど子供じゃないし、約束が不意になるたびに建人くんが埋め合わせをしようと頑張ってくれているのは知っている。
今日だって、多分建人くんは昨日のディナーデートが不意になってしまったのを気にして朝から訪ねてくれているに違いない。確か、この後だって任務のはずなのに。

「今日は、一日アナタを甘やかします」
「え!に、任務は?」

思わぬ言葉にそう声を上げると、建人くんは少しだけ口元を緩める。あ、これは何かいいことがあった時の顔だ。

「昨日の緊急のものを受けた関係でスケジュールに調整が入りましたので、今日はオフです」
「えっ、ほんとに?」
「はい。もしナマエさんの都合が悪くなければ今日仕切りなおさせてもらえませんか」

珍しい。調整が入ったとはいえ、一日オフになるなんて。
涼しい顔で調整が入ったなんて言ってるけれど、もしかして補助監督と交渉してくれたのかもしれない。

「うん。デートしよう」

建人くんのお誘いを断るはずのない私はそう言って、残りのフレンチトーストとヨーグルトを平らげる。
あのワンピースはクリーニングに出したいから着れないけれど、お気に入りのブラウスを着てみてもいいかもしれない。

「良かった。実は朝イチでレストランにディナーの予約を入れたんです」
「用意周到」
「アナタとのデートですから」

私が断るはずなんてないと、建人くんもお見通しのようだった。
あのレストランに行くなら、ブラウスに合わせるのはレースのロング丈のスカートにしよう。
朝食の食器類を流しに持っていって、片づけくらいやるよ、と言ったのに建人くんにスポンジも水栓も先に取られてしまって手を出せなかった。
仕方なく私は二人分のコーヒーを淹れてリビングにむかい、キッチンに立つ建人くんを眺める。
しばらくで建人くんの洗い物は終わって、布巾で手を拭いてから建人くんもリビングに合流した。

「コーヒー、今日のはエチオピアだよ」
「いい香りですね」

建人くんはマグカップを受け取って、私の隣に腰かけた。ディナーまではまだまだ時間がある。どこかに出かけるのもいいし、このまままったりするのもアリ。
そう考えながらコーヒーに口をつけると、隣で建人くんが「先ほどの話の続きですが」と切り出した。

「デートのこと?」
「いえ、というよりはナマエさんを一日甘やかすという方です」

あ、その話続いてたの?と思って建人くんを見るとまだ続きがあるようで、私は大人しく言葉を待った。

「なにか、して欲しいことはありませんか」

して欲しいことなんて。私は建人くんがいてくれるだけで満足なのに。
だけど目の前の建人くんは私が何か要望を言うまで引かないぞ、という雰囲気で、私は何かないだろかと考える。

「あ」
「ありましたか」
「え、いや、うーん…でもこれは流石に…」

思いついたには思いついたけど、これ実際してもらうってかなり恥ずかしいのでは?
学生じゃあるまいし、そんなキャッキャウフフなんて二人っきりでも恥ずかしい。
私がごにょごにょと言葉を濁すと、建人くんはじっと私を見て続きを促した。どうやらだんまりは許してもらえないようだ。

「あ、あのさ、あの…ひ、膝枕とか…してほしいなぁ…なんて…」

私が思い切ってそう言うと、建人くんは目をぱちぱち瞬かせて、それから目元をふっと緩めて笑った。
それから建人くんはソファに腰かけ、膝の上を整えるかのようにさっさと二回手のひらで払った。

「どうぞ、こんな硬い枕で良ければ」

建人くんがそう言って、私は「お邪魔します」と断ってからそろりそろりと膝に頭を乗せる。
硬くて、少しも寝心地良くなくて、それがとっても心地いい。
恥ずかしいのなんて最初だけで、じんと耳に感じる建人くんの体温に嬉しくなる。すると、建人くんが私の髪を梳くように撫でた。

「ふふ、クセになっちゃいそう」
「クセになっていただいても結構ですよ」

珍しく建人くんが冗談なんて言うものだから、私はそれがおかしくってちょっと笑った。
建人くんも同じようにして笑って、太ももからその笑いが振動になって伝わる。
こんなふうに笑う建人くんなんて珍しいなと思って顔を上げようとしたけど、撫でてくれる手が気持ちよくてやめた。
こうやってどんどん甘やかされてしまったら、私はそのうち溶けてしまうかもしれないな。なんて夢みたいなことを考えて、私はうっとり目を閉じた。

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