06 ワントラック

引っ越しの準備は順調だ。
諸々新しくした家具は当日の搬入を待つばかりだし、それに伴って不要になったダブルベッドも二人掛けソファも粗大ごみの引き取り手続きを済ませた。食器もなるべく処分したし、二人で使っていたタオルとかは雑巾にして、元カレから貰ったバッグとアクセサリーは一切合切リサイクルショップに持ち込んだ。
翌月の末というとんでもないスケジュールで引っ越しの予定を組んだために寝不足になりながら様々な準備をすることになったわけだが、不思議としんどくはなかった。引っ越し準備ハイというやつ。そんなのあるか知らないが。

「えーと、こっちは手持ちで…あっちは業者さんに任せる分で…」

いよいよ引っ越し当日という朝、私は荷物の最終チェックをしていた。段ボールに荷物をすっかり詰めてしまった部屋は、想像以上にがらんとしている。独り言は妙に反響した。
そういえばこの部屋に初めて来た日も、元カレと二人で声が反響することに子供っぽくはしゃいだんだっけ。

「それも四年前かぁ…」

たかが四年、されど四年だ。付き合っている五年間、大学生だった私たちはお互いレポートに追われて、サークルで遊び惚けて、就活でヒィヒィ言いながらエントリーシートを書いた。
特に2008年に起きたリーマンショックの影響で私たちが就活していた年は大卒の内定率がひどく落ちこんだ。
二人とも苦労して入った会社で三年目。なんだかんだでこのまま結婚とかするのかなぁとか、思ってたのに。

「あー、やめやめ。辛気臭いわ」

そうだ、結婚する前で良かったじゃないか。おかげで戸籍にバツがつくところだった。浮気も許しがたいことだけど、相手があのヤマンバってのがヤバイし、それにあの金切り声は何がどう転んでもこれから一緒に過ごせる相手とは思えない。
切り替え切り替え。
私は新居で明るく楽しく、引き続き独身人生を楽しむのだ。
ちょうどインターホンが鳴って、引っ越し業者が到着した。私は荷物を任せて一足お先に新居に移動することにしたのだった。


「あれ、ナマエちゃん?」

新居の最寄りの駅、ロータリー側のコンビニでお昼を調達していたら男のひとに声をかけられた。もう流石に誰かわからないなんてことはなくなっている。

「悟くんだ。今日もこの辺で仕事?」
「うん。小腹すいたからシュークリームでも食べようと思ってさ」

仕事だという悟くんはサングラスではなく怪しげな包帯目隠しだった。それ見えてんの?
買い物かごにはシュークリームが3個と期間限定のチョコレートが入っている。

「ナマエちゃんはまた人と会う用事?」
「ううん。実は今日引っ越しでさ。今から新しい家に行くところ」

この前は内見のことを言えなかったのに、今日はするすると言ってしまった。なんとなく悟くんとの距離が縮まったからだと思う。
悟くんは、神楽坂でお茶をした後も不定期で電話をかけてきた。
大抵深夜にさしかかるような時間で、私も引っ越しの荷造りで起きていたから概ね電話に出ることは出来た。
話の内容は大したことじゃなくて、この前仕事で行った福岡で美味しいもの見つけたとか、ご当地サイダーは当たり外れが大きいとか、そういうなんてことない話。
そして決まって悟くんは私に「何か最近変わったことはあった?」と尋ねた。

「この辺に引っ越すんだ?」
「うん。近くだよ」

店内で話しながら私はお昼ご飯のサンドウィッチをどれにするか吟味した。一年くらい前まではこのコンビニで売ってたカスクートをよく食べていたんだけど、いつの間にか売らなくなってしまって、それからはBLTサンドとたまごサンドをよく食べている。

「僕仕事でこの辺よく来るからまた会うかもね」
「ほんと?でも悟くんの仕事の時間って私寝てそう」
「深夜ばっかりってわけじゃないよ。今日なんかさっき一件終わったところだし」

悟くんは働き者らしい。
私はたまごサンドとペットボトルのお茶を手にレジに向かうべく踵を返す。
すると、悟くんがその二つをひょいっと取り上げ、自分のカゴに入れてしまった。えっ、と思っている間に悟くんは長いコンパスでレジに向かって、電子マネーでサクサク会計してしまう。

「えっ、悟くん?」
「はい、こっちナマエちゃんの分ね」
「あ、りがとう…」

たまごサンドとお茶の入ったビニール袋を渡され、背中を押されてコンビニを出る。確かに店内でごちゃごちゃ居座るのは迷惑かと思ってそれに従い、少し歩いたところで立ち止まった。

「お金、いくらだった?」
「ああ、いいからいいから」
「いや、でも…」

彼氏でも先輩でもない男のひとに、しかも一緒に食べるわけでもないお昼を奢ってもらうわけにはいかない。
私が財布を出そうとすると、もうその話は終わりましたとばかりに悟くんは自分のシュークリームをがさっと開ける。いや、ここで食べるの?

「…ありがとう」
「どーいたしまして」

まぁ、大人になってワンコインするかしないかの話で押し問答するのもなぁ、と自分を納得させ、私の言葉に悟くんも満足したようだった。

「何か最近変わったことはあった?」
「別にないよ。月から金まで仕事して土日は引っ越しのあれやこれやで買い物行ったりして、そんな感じ」

悟くんのいつもの問いに私は普通に返事をして、そこで「そういえば」ともうひと月近くたつあの新興宗教団体のことをはたと思い出した。
変なところに行ったなんて言いづらくて黙っていたが、あのあと何にもないし言ってみてもいいかな。

「先月、変わったとこに行ったよ」
「変わったとこ?」
「うん。名前なんだっけ…なんかさ、あからさまに新しい宗教団体ですって感じのところ」

そういえば名前聞くの忘れたなぁ。どっかに書いてあったっけ?思い出せないや。

「ふぅん。どんなとこ?」
「なんかね、呪いとかいう目に見えない悪いものを取り除いてくれるんだってさ」

私がそう言うと、悟くんの空気がピリッと変わった。「ナマエ」と急に名前を呼び捨てにされるものだから驚いて見上げると、悟くんがこちらを見下ろしている。包帯で目が隠れているからどんな表情をしているかはわからないけれど。

「…そこの代表の名前はわかる?」
「えっ、と…」

名前を思い出すのに言葉が詰まったというより、悟くんの雰囲気に気圧されて言葉が出てこなかった。何度かお茶したり電話で話したりしたけれど、こんな声聞いたことがない。
いや、そりゃ怒ることだってあるだろうけど、何が原因かがさっぱりわからない。

「確か…ゲトウ、さん」

あの日会った、袈裟姿の男のことを思い出す。
切れ長の目の、涼しい面立ち。人好きのする笑顔で、だけど誰にも触らせないような境界線。そしてそれでもなお人を引き寄せる不思議な雰囲気の男のひと。

「…ナマエ、何もされてない?」
「う、うん…部屋で話しただけ…」

悟くんは依然電気が走っているような鋭い空気を放っていて、私はもっと萎縮した。悟くん、ゲトウさんのことを知っているんだろうか。
知り合いなの?とでも聞ければいいのに、私の口はうまく動いてくれなかった。
悟くんは少し息をついて、それから私の両肩を掴んで向き合う体勢になって言った。

「そこにはもう行かないで、約束して」
「い、行かないけど…どうして?」
「どうしても」

悟くんの語気の強さに、私はこくこくと頷いた。
悟くんはそのあともじっと私を見て、いや、包帯してるからこっちを目を開いてるかどうかもわかんないんだけど、とにかく私をじっと見るようにしてからやっと身体を離した。

「約束だよ」

あんなにピリピリした空気が流れたくせに悟くんから出てきたのはなんだか子供じみた言葉で、その温度差が変な感じ。
ようやく緊張が解け、心臓はどきどき鳴っている。ときめいたからじゃないのは明白だった。

「あ、伊地知着いたみたい」

数分もしないうちにいじちさんは到着したらしく、じゃあね、とあっさり悟くんは長い足をロータリーのほうへ向けた。その先には以前も悟くんを迎えに来ていた黒塗りのセダンが停まっていた。
後部座席のドアが開いて、中から変わったサングラス姿の金髪の男のひとが出てくる。そのひとも随分と背の高い人だった。
金髪の男のひとは悟くんと少し話し、こちらに歩いて来て、私が「え?」と思っていたらすれ違いざまに会釈をしてコンビニに入って行った。
今の金髪のひと、どこかで見たことある気がするけど…サングラスで顔よくわかんなかったしな。そう思っていると悟くんがバイバイとばかりに手を振ったから、私も手を振り返して新居に向かうことにした。


荷物の運び込みは滞りなく行われた。
広めの1LKで、部屋のほうにシングルベッド、本棚、それからハンガーラック。リビングの方にはローテーブルとかテレビとか。家電は流石に買い替える余裕なかったけど、ソファも無くしたしベッドも替えたし、そもそも間取りも違うし、気分一新。

「はぁ、荷ほどきしなきゃなぁ」

とりあえず一番よく使うのから開けていこう。着替えと仕事で使いそうなやつと、あとはキッチン用品に食器類かな。
段ボールに書いた自分の字を見ながら必要なものを優先的に開梱していく。お客さん用のお皿とかお箸はとりあえず最後でいいだろう。使うかどうかもわかんないし。
テレビとプレイヤーの配線は面倒だから明日でいいとして、電子レンジとかはちゃんと設置しておいた方がいい。レンジでチンは偉大だ。
優先順位をつけながら片付けをして、結構いい時間になったな、と遅めの昼食をとる。
私はたまごサンドに齧り付いた。

「そういえば、あの金髪の人も悟くんと同業者なのかな」

声が無駄に反響するのを感じながらポツンと言った。未だ悟くんの職業は不明なわけだが、あの金髪の人も背が高くてスタイル良かったし、モデルさんとかなのかもしれない。芸能人説強し。

「あ、でも芸能人とかって気軽に土日の神楽坂歩いていいもんなのか…?」

というか最近すっかり忘れていたが、私と悟くんはワンナイトの関係なのだ。芸能人ってバーで会った素性もわかんない女と気軽にホテルなんか行くだろうか。
それを考えると、芸能人説はちょっと怪しくなってきたな。
ぱくぱくたまごサンドを食べ進め、最後のひとくちを飲み込むとごくんとお茶で流す。

「よし」

荷解き作業の先は長い。


思いのほか集中してことが進み、段ボールは半分ほどまでに減った。またこの段ボールを処分するのが面倒臭いのだけど、それは今は考えないことにしてなるべく小さく畳む。
日が暮れて、最寄りのコンビニで夕飯のお弁当を調達し、レンジでチンと温める。お弁当はほかほかになって、やっぱりレンジでチンは偉大だなと考えながら夕飯を済ませた。
ちょうどスマホがちかちか光って、ディスプレイを確認すると今週末も合コンに参加すると気合を入れていた後輩からのメッセージが入っていた。

『昨日の合コン超当たりでした!めちゃイケメン!』
「よかったじゃん!昨日の合コンは何の仕事してる人だったっけ?」
『広告代理店です!めちゃ優しいスポーツマンで次会う約束もしちゃいました』

末尾にはピースの絵文字が付けられている。うんうん。会社の後輩とはいえ、やっぱり身近な子がいい縁に恵まれると嬉しいものだ。
彼女の場合は付き合って長続きしないのが一番の問題なので、これからが肝心なわけではあるけども。

『ミョウジ先輩、引っ越しもうすぐでしたっけ?』
「今日だよ」
『マジですか?今度引っ越し祝い買っときますね』
「気遣わなくていいのに」

話は段々逸れていって、今までのお隣さんで変な人がいただとか、ペット可のマンションに住みたいけど家賃が高くなるだとか、他愛もない話をメッセージで続けた。
何気なく始まったメッセージのやり取りはテンポよく進み、楽しくなってきちゃって荷解き作業の手は完全に止まった。
ああ、なんか眠いな。今日朝早かったし、ずっと身体動かしてたし、今目ぇ瞑ったら三秒で寝られる自信がある。

「いやいや…おふ、ろ…」

ぷつん。私の言葉とは裏腹に、そこで意識が途切れた。


はっと目を覚ましたのは、随分経ってからだった。
いけない、結局あのまま眠ってしまっていたらしい。明日は日曜で休みなんだから、根をつめることはないんだ。ベッドはちゃんと眠れるようにしているんだからちゃんとベッドで寝ないと。体を痛める。
そう思って、テーブルに突っ伏していた体勢から上体を起こすと、視界に鮮やかな赤色が飛び込んできた。
なに、こんな、赤いの、なんか持ってたっけ…。

「え、うそ…なにこれ…」

眼前に広がるのは、見事な枝ぶりの椿の木だった。もちろん私の持ち物にそんなものはない。つやつやとした葉と、燃えるような花が鮮やかで、暗い部屋だと言うのに妙に鮮明に見える。
時計を見ると午前零時。部屋の真ん中に、椿の花が咲いている。

「ほ…本物…?」

ぽとり、花がひとつ落ちた。

戻る


- ナノ -