03 ワンステップ

私は取り戻した社員証を手に、いつも通り出勤した。
出入り口のドアのところにピッと社員証をかざし、ロックを解除して事務所に入る。ロックを解除する、といっても、私の勤める会社はたいして大企業というわけでもない。新しいもの好きの社長がノリノリでセキュリティ機器を導入した結果だ。

「おはよー」
「ミョウジ先輩おはようございます」

私は隣席の後輩に挨拶をしながら自分のデスクにどさっと荷物を置く。この後輩は私のひとつ下の後輩で、可愛い顔に似合わず結構ズバズバ言うタイプだから付き合いやすい。
ちなみに彼女の夢はイケメンのお金持ちとの結婚である。男女同権女性の社会進出等のセンシティブな問題はおいといて、まぁ労働しなくていいならしたくないのが真理だ。私も石油王とかと結婚したいし。

「私の地元の友達がこの前出産したんですよー。それで母親から孫はまだかとか言われて!私なんかまず相手探しからだって話なんですけど」
「あー、身近な子が出産するとあるあるだよねー」
「てか私まだ24なんですけどね、気が早いんですよ」

後輩ちゃんは土日にそんな災難に見舞われたらしい。まぁそう言うのって結構年齢関係なく言われる。特に、彼女は年の離れたお兄さんが独身だから託されてるのかも。

「ミョウジ先輩のとこも言われます?」
「あー、言われるねぇ。私なんか同棲長かったから」

過去形に目ざとく後輩ちゃんは気が付いたようで、マグカップをデスクに置くと「え!?」と大きな声をあげた。

「別れましたー!」

私がブイサインを作りそう言えば、マジですかぁ!?と追加で驚いてくれた。これだけ驚いてくれると別れ甲斐がある。別れ甲斐ってなんやねん。

「いろいろあってさ、金曜の夜に別れたんだよねぇ」
「うっそ、ミョウジ先輩めちゃ長くなかったです?」
「五年」
「長っ!」

確かに我ながらよくお付き合いしたもんだと思う。高校の時にままごとみたいなお付き合いはしたことがあったけれど、こんなに長く付き合ったのは彼が初めてだった。
同棲もしてたし、うちの親にも彼のご両親にも会ったことがあったから、結婚秒読みとでも思われていたに違いない。

「でも、ミョウジ先輩ってもうちょっと自分のこと振り回してくる男好きそうですよね」
「えー、やだよー。普通に優しくされたい」

そんな適当なことを言いながらパソコンを立ち上げ給湯室に立って自分のコーヒーを淹れる。あー、なんでだろ、肩が重いや。
マグカップを持ってデスクに戻れば、向かいの席の先輩が丁度出社したところだった。

「おはようございます」
「おはよう、ミョウジさん」

先輩は私の方をじっと見た。この先輩は私の6年先輩で、中途採用だから年齢はもう少し上。お局さんというほど怖い人ではないが、ちょっとオーラが話しかけづらい。
自席に腰かけてメールのチェックを始める。ちら、とスマホを確認したけれど悟くんからは連絡は来ていない。いや別に待ってないけど。
電話の対応と見積書の作成、受注作業や資料の整理。それから打ち合わせが一件。そんなこんなで仕事に追われていたら、インターホンが来客を告げた。
ちょうど手が空いたタイミングだったから対応すると、社長がお世話になっている証券会社の営業さんだった。

「すみません、すぐ参りますのでかけてお待ちください」

私は営業さんを応接に通し、社長室に向かった。まぁ、社長室といっても別フロアの結構普通な部屋。中小企業なんてそんなもんだ。
社長室で来客のことを伝えて、自分のフロアに戻るとちょうど後輩ちゃんがお茶出しをしてくれていた。

「ありがとー」

そう声をかけると「とんでもないでーす」と間延びした声が返ってくる。
さて、と自分のパソコンに向きなおり、見積書の見直し。別に仕事が好きというわけではないが、3年目で色々わかるようになってきて少しだけ楽しい。
証券会社の営業さんは、三十分程度で帰っていった。若い男の人で、去年前任の人が退職しちゃうからって1年目にして後任をしてくれることになった営業さんだ。

「今の人ってあんま証券マンっぽくないですよね」
「え?あぁ、担当の?」

後輩ちゃんがちょうどおんなじようなことを考えてい多様で、不意にそんなことを言った。確かに、証券マンっていうより公務員っぽいかも。

「前の担当の営業さんめっちゃイケメンじゃなかったですか?」
「あぁー、イケメンだったねぇ」
「えーっと、名前なんだっけ…」

二人して並んで、去年うちの社長を担当してくれていた営業さんのことを思い出す。
背の高い人で、ブルーストライプのスリーピース着てて、すっごい頭の良さそうな人だった。あの人もあの人で証券マンとかよりどこぞの教授とか言われた方が納得しそうだけど。

「な、なが…なつ…な、な…」
「あ、七海さんだ」

私が言うと「そう!七海さん!」と後輩ちゃんが手を叩いた。ナイス、脳の活性化。

「七海さんかっこ良かったよね」
「かっこよかったです、こう…大人の男って感じで…」
「え、でも確か七海さん私と同い年だよ」

うそ!と驚く声がした。まぁ私もちょっと信じらんないなとは思うけど。
確か社長下の息子さんと同い年だとかなんとかっていう話を忘年会で聞いた。私は社長のところのその末っ子と同い年だから、あれが酔っ払いの妄言でなければそのはずだ。

「彼女いるんだろうなぁ」
「いるだろうねぇ」

世の中のいい男というものは大体素敵な恋人がいるものだ。これは不労所得で生きていたいと思うのと同じくらいの真理である。
イケメンでお金持ちで特定の相手がいない男なんていうのは、大体他に何かしらの欠陥があると疑ってかかるべきだ。

そうこうしているうちにあっという間に時間は過ぎ、先ほど就業時刻を超えた。閑散期なので残業は多くなく、それから1時間もしないうちに帰りの荷物をまとめる。

「あ、ミョウジ先輩週末合コン行きません?」
「えぇぇ、私は遠慮するよ」

後輩ちゃんは合同コンパに非常に精力的に参加している。可愛らしい子だからいい雰囲気には結構なるらしいが、付き合うってなっても長続きしないらしい。
今すぐ新しい相手を、と考える気もなかった私がそう断ると「弱気じゃダメですよ!五年分取り返さなきゃ!」と背中を押してくる。

「ま、次があったら誘ってよ、今週は彼の荷物の処分とかしたいし」
「はぁい、りょーかいです」

お先に失礼しまーす、と会社を後にする後輩ちゃんを見送り、私もパソコンの電源を落としたかを最後にもう一度確認してから鞄の中身を見る。社員証、よし。

自宅までの満員電車を乗り越え、今日は疲れたからスーパーのお惣菜を買って帰宅した。元彼の私物は大体ビニール袋に詰め終わったけど、なんか変なスペースが空いてるようで落ち着かない。
私はシャワーを浴びてお惣菜で夕飯を軽く済ませると、チューハイの缶をプシュッと開ける。

「おひとりさまにしちゃ広いんだよなぁ」

もともと、同棲のために借りた部屋だ。そこまで広々言う訳ではないが、やっぱり無駄が多いような気もする。家賃も高いし。
そういえば、運よく来月更新月だったはずだ。月末まで居座るとして、さっさと探ばいい感じに引っ越せるかもしれない。
私はスマホの賃貸情報サイトを漁った。

「うーん、出来れば通勤時間は同じくらいでなんとか…」

欲を言えばそりゃいろいろあるが、そんなに譲れない条件が多いわけではない。
けど、いままでと違って女ひとりになるわけだから、1階の部屋とかは避けた方が無難。築年数はそんなにこだわらないけど、出来れば駅が近いほうがいい。どうせ電車通勤だし。
そんなことを考えながら物件を探していたら、築浅の駅近で魅力的な物件があった。

「え、この家賃ヤバ…」

相場の半分くらいだ。絶対事故物件。うーん、でもここいいなぁ。
チューハイをごくりと飲み干し、ぽちっと内見予約のボタンを押した。まぁ内見くらいしてみてもいいじゃん。


そんなこんなで迎えた翌々日の退勤後、私は例の物件の最寄りまで行って不動産屋と待ち合わせた。
そこまで大きい駅じゃないけど、駅前にスーパーとドラッグストアがあるのがいい。
不動産屋さんとの約束の時間よりだいぶ早くついてしまって、ロータリーのところでたぷたぷとスマホをいじる。

「あれ、ナマエちゃんじゃん」
「はい?」

不意に名前を呼ばれて顔を上げると、黒づくめの長身の、目を包帯でぐるぐる巻きにした男が立っていた。え、誰?

「家この辺なの?」
「あ、あの…どちらさまですか…?」

やけに親し気に話しかけてくるけどこんな知り合いいたっけ、いや、いないはずだ。反語。
男のひとは「え、うそ」と言って、少しの間の後、得心がいったように包帯をくるくる解き始めた。その包帯の下から出てきたのは傷跡ではなく、日曜日に見たばかりの青い瞳だった。

「これでわかる?」

悟くんだ。

「悟くんだったんだ。その包帯怪我?大丈夫?」
「いや怪我とかじゃないから大丈夫」

怪我じゃないならなんで包帯?あ、悟くん芸能人疑惑も私の中で独り歩きしてるし、全然意味わかんないけど、何かの撮影か?でなきゃただの顔がいい不審者だ。

「悟くん、こんなとこでそんな包帯で何してんの?」
「うん?僕はこれから仕事」

仕事ぉ?じゃあやっぱり撮影?

「で、ナマエちゃんは今仕事帰り?」
「え、うん。これから人と待ち合わせ」

不動産屋さんと言ってしまうと個人情報モロバレ感が凄まじいから適当にそんなことを言って濁すと、ふぅん、と少し怪訝な相槌が返ってくる。
別に悪いことはしていないのに、悟くんの眼力で圧を掛けられるとなんか悪いことしてる気分になってきた…。

「あれから変わったことない?」
「え?まぁ…変わったと言えば元カレの持ち物処分出来てスッキリしてるくらいかなぁ」
「いや、そういうことじゃないんだけど」

悟くんは「まぁいいや」と言った。変わったことなんてない。出勤して仕事して帰宅して、変化と言えば朝晩の食事をひとりでとることになったとか、ベッドがひとりで広くなったとか、そのくらいのものだ。

「悟くん、やっぱり変なひとだね」
「いやいや、僕はーー」

悟くんが何か言おうとして、丁度私のスマホが鳴ったから「ごめん」と断ってから通話をする。電話の相手は不動産屋さんだった。あと少しで到着するという旨で、私は「わかりました」と言って通話を切る。
通話を切る直前に今度は悟くんのスマホが鳴って、悟くんが電話に出た。

「ア?伊地知やっとついたの?」

いじちさん、ってホテルに迎えに来てたスーツのひとじゃない?
秘書かマネージャーかと思ってたけど、やっぱマネージャーなのかな。

「じゃあ後でマジビンタな」

そう言って悟くんは通話を切った。ビンタって単語久しぶりに聞いたんだけど。

「お迎え?」
「うん。もうすぐ着くって」

もうすぐ、というのは本当にすぐで、いじちさんが運転する車は私が待つ不動産屋さんより先にロータリーに到着した。
悟くんはひらりと手を挙げると、じゃあね、と言って車に乗り込んだ。
ばいばーい、とばかりに手を振ろうとすると、後部座席の窓が下がり、中から悟くんが顔を出す。

「明日の夜、連絡する」

私が何の反応を返す余地もなく車は発進して、私はひとりロータリーであほ面のまま硬直することになってしまった。
明日の夜に連絡って、一体何の?
私がそうして呆気に取られていると、今度は不動産屋さんがロータリーに到着した。

「すみません、お待たせしました」
「あ、いえ、問題ないです」

不動産屋さんの車でものの五分、徒歩だと十分くらいの場所に、そのマンションはあった。
ネットで見たよりも少し狭くは感じるけど、それはどこの部屋でも同じこと。まぁ、多少狭いくらいがいいかもしれない。
築浅なので水回りも綺麗で、予め設置されているエアコンも新しそうだった。

「あの、この部屋の安さって…」
「…はい」

私が尋ねると、不動産屋さんはついに来たと言わんばかりの神妙な顔になった。きっと内見者は皆尋ねているだろう質問だ。

「ふたつ上の階の方が半年前にお亡くなりになりまして、それでちょっとこういったお家賃になっておりまして…」
「えっ、この部屋じゃないんですか?」

あまりのお安さに絶対この部屋が現場だと思ったのに。え、この部屋じゃないなら関係なくない?ふたつ上の階ならなんかその間の部屋ワンクッションされてる感じもするし。

「すみません、この部屋って来月からとか入居できます?」

こうして私は軽率に、このセミ事故物件へと入居することを決めたのだった。
まさかこの選択のせいでのちにとんでもないことになるとは、知る由もなかった。

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