19 ワンアンドオール

最後くらい思い出がほしい。だからと思っていつもなら決して言わないようなことを言った。だって私は悟くんと出逢った夜のことを覚えていなくて、でも一回しちゃったんならもう一回くらいしてくれるかもしれない。思い出に、なんて言えば悟くんは優しいから聞いてくれるかもしれない。そう淡い期待を抱いてのことだった。

「ちょっと待って、なんで今そんなことになったの?」
「え?」

悟くんの声は是非のどちらでもなく、今度は私が呆けた声を出す番だった。
まぁ何でと言われるといくつか理由はある。これは普通に断られる流れなんだろうなと察しながら、私はしょうがなく理由を話した。

「だって呪い祓ってくれたってことは私もう悟くんのお世話になることなくなるってことでしょ?」
「違うけど」
「えっ!?」

違うの?と聞くと、悟くんが「それで?」と続きを求めたので私が先に話してしまうしかないのかと思い言葉を続ける。

「あの、悟くんが特別な人作るの苦手ってことは、私望みないんだなと思って。だから最後に思い出だけでもいいからって思ったんだけど…私悟くんにあった日のこと覚えてないし…」

改めて言葉にすると女子大生とかが駄々こねるみたいな話だなと恥ずかしくなった。25歳の成人女性にしては軽率が過ぎる。私は自分に呆れながら悟くんの言葉を待った。

「それって、一個めちゃくちゃ大事なことが省かれてると思うんだけど」
「うん?」
「ナマエちゃんって僕のこと好きなんだよね」

悟くんはそう言って、じっとこちらを見つめた。サングラスは不自然なくらいの真っ黒で正面を向かれてしまうと湖面のような青い瞳を見ることはできない。好きだな。
こくんと一回頷くと、悟くんは頷いたことには言及せずに「順番に説明するね」と言って話を始めた。

「まずひとつ。呪いを祓ってもナマエちゃんの引き寄せ体質が改善したわけじゃないから今後も定期的に低級が憑けば祓うってのは繰り返すことになる」
「えっ、そうなの?」
「そ。体質の問題だから今回の面倒なのは祓っただけでご新規サマはこれからもじゃんじゃん出てくるよ」

ご新規ってそんな…全然嬉しくないんですけども。私は勝手にどうにかなってるもんだと思っていた。けれどそういう問題ではないらしい。これからも高専にお世話になる生活は続くそうだ。

「そんで次にあの夜のことだけど、僕とナマエちゃん何にもなかったからね」
「は?」
「泥酔したナマエちゃんの呪い祓って今からベッドインって瞬間にナマエちゃん泣き出したんだよ。元カレのこと好きだったのにって」

うそ。全く覚えてない。いや、覚えてないからやらかしたと思っていたわけだが、そんなみっともない姿を晒していたなんて思いもしなかった。「服脱いでたのは?」と聞いたら「暑いって言って夜中に自分で脱いでたけど」と返ってきた。この期に及んで悟くんがそんな嘘を言うとは思えないし、マジで私が勝手に脱いだんだろう。迷惑すぎる。
ああ、このタイミングでそんな間抜けなこと知らせないで欲しい。

「で、最後に僕が特別を作るのが苦手って話」

いつのも調子で話されてちょっとだらってなっていた気持ちがビシッと硬くなる。一番の問題点。私は下唇を噛んで悟くんの言葉を待った。

「あの夜ナマエちゃんの泣き顔見てさ、可愛いなって思って。僕親友のこととかあって特別とか作るのずっと苦手だったから、そういうものとは無縁の生活送ってきてさ。だけどなんでかな…ナマエちゃんのこと見てたらなんとなく放っておけない気分になっちゃって」

悟くんは私に手を伸ばし、頬に触れると親指で口元に触れ、私の噛みしめる下唇を解放するように撫でた。その指の熱がゆっくり侵食するように伝わって私の力をほどいていく。悟くんの指は思っていたよりずっと熱い。

「ナマエちゃんは僕のことを優しいって言うけど、それってナマエちゃんにだけなんだよね」

悟くんは優しい。
なんだかんだと心配してくれて、親切にしてくれる。ちょっと強引だけど私が嫌がるようなことはしないし、まぁ嫌がったことなんてないんだけど、それって充分優しいってことで、その優しさが私にだけ向けられていると彼は言う。本当に?と疑う自分と、手放しで信じたい自分がぐらぐら揺れる。

「好きだよ」

悟くんの言葉が空気を震わせて、私の耳に届いた。すきだよ、の四文字を理解するのに物凄い数の思考回路をぐるぐると回って、ようやく私の心の奥まで辿り着く。
すきだよ、悟くんは今確かに、私に向かってそう言ってくれた。嘘みたい。悟くんが私のことを好きだなんて。
舞い上がる気持ちとは裏腹に、外回りのときにたまたま見かけた悟くんと女の人の後姿を思い出した。

「嬉しいけど…でも…セカンド女はちょっと…イヤ、なので…」
「嘘でしょ、この告白聞いてなんでそんな発想になんの?」

甘やかだった悟くんの声が一気にポンと軽くなって私の両肩をがっちり掴む。
実際目にしたし、知っている状態で私は二番目の女としてそばにいられるほどタフじゃない。悟くんには「好き」がいくつもあるかもしれないが、あいにく私にはひとつしかないんだ。

「…だって悟くん他にも女のひといるでしょ?」
「いないけど」
「えっ…でもこの前もラブホに入ってくの見たよ」

私がそう言うと、悟くんは耳元で「はぁ!?」と大きな声を上げた。耳がキーンってなって痛い。
悟くんは頭の上からはてなマークを飛ばしに飛ばして「え」「なにそれ」「いつの話?」と独り言なのか私に話しかけているのか分からない調子で続けている。

「あ!分かった!それ歌姫だ!」
「うたひめ?」
「そう!術師の同僚みたいなもんでそんときラブホに呪い祓いに行ったんだよ!」
「祓いにって…仕事ってこと?」

私がそう尋ねると、悟くんは「そうそうそう」と捲し立てるみたいな勢いで言う。ええ、そんなこと言われても悟くんって夜中に女のひとと一緒だったっぽいところもあるし。真偽のほどを見極めようと私が眉間にしわを寄せると、悟くんが私の手を引いてぎゅっと腕の中に抱きしめられた。

「信じてよ、ほんとにナマエちゃんだけ」
「…ほんと?」
「ほんとにほんと」

私は少しだけ躊躇って、それでも腕を伸ばし、悟くんの背中に触れた。それからぎゅっと掴むようにして、私と悟くんの距離は限りなくゼロに近づいた。悟くんの身体は分厚くって、私の腕じゃ背中で指先がちょこっと触れるくらい。充分抱きしめるのは至難の技のようだ。

「悟くん、彼女にしてくれる?」
「僕のほうこそ。彼氏にしてよ」

私たちは抱き合ったままそう言いあって、どちらともなく笑った。
窓辺に座ってるんだから暑いに決まってるのに、いまはそんなことはどうでもよくって、悟くんの体温をすぐそばに感じられるのがどうしようもなく嬉しかった。


月曜日は会社に休みを貰って火曜日からは無事出勤することができた。私の部屋には高専で作ったというお札が貼られるようになって、前よりも空気がなんとなく軽い気がする。
火曜水曜と問題なく勤めて木曜日。あんなことになっても仕事は普通に出来てしまうんだから、現代人というものは随分労働に毒されている気がしなくもない。

「せんぱーい、今週末どうですか?」
「どうって…え、もしかして合コン?」
「そうです!今度の相手は医療機器メーカーの営業マンですよ!」

後輩ちゃんが嬉々として言った。この子はつい先日ネット宝石商で痛い目にあったばかりなのに合コン大明神は全然へこたれていない。前向きでいいと思う。可愛くて応援はしたいけど、流石にもう合コンに行くわけにはいかない。これを言っておかないと多分こうして定期的に声をかけてくれるだろうからそれも悪いし、きちんと後輩ちゃんには言っておこう。

「遠慮しとくよ。その、実は彼氏ができまして…」
「えっ!うそ!まじですか!おめでとうございます!」

後輩ちゃんはどんな人なのかどこで出逢ったのかと次々私に質問を投げた。勢いが凄すぎてかえって答える隙間がない。そうこうしているときに昼休みが終わるチャイムが鳴って、私と後輩ちゃんの会話は中断される。帰りには教えてくださいね!という言葉を残して後輩ちゃんは外回りに出かけて行った。

「あ、悟くんだ」

午後のちょっと気の抜けた時間。お手洗いに立ったタイミングでスマホを見ると、悟くんからメッセージが入っていた。電話だけじゃ不便だと申し出てメッセージアプリのIDを教えてもらったのだ。

『任務早く終わるから夕方迎えに行くね』

メッセージは頭の中で勝手に悟くんの声になって再生された。ずっと電話でやりとりばかりしていたからそのおかげかもしれない。よし、あと三時間頑張るぞ、と気合を入れ直し、私は自分のデスクに戻った。溜まっていた書類は想像以上の速さで片付いてく。浮かれてパワー倍増なんて私も大概単純な女だと思う。


幸い仕事が定時そこそこに終わり、私はいそいそと帰宅の準備をする。エントランスで丁度後輩ちゃんが後ろから合流し、少しだけ並んで歩いた。すると、後輩ちゃんが私にこそこそと話しかける。

「うわ、先輩見てくださいよ、超イケメンがいる…」
「え。どこに…」

いるの、と続けようとしてそれが何のことだかすぐに分かった。悟くんが会社の正面で私に向かってひらりと手をあげたのだ。迎えに来るって聞いてたけどこんなに目立つとこにいるなんて聞いてない。

「えっ、あのイケメンこっちに手ぇ振ってません?誰の知り合い?」

後輩ちゃんは引き続き難事件に直面した刑事のように声をこもらせてひそひそと話す。私の彼氏ですなんて言える空気じゃないが、言わずとも悟くんがこっちに話しかけてきそうなことはなんとなく予想がつく。

「ナマエちゃん、お疲れサマンサー」

ほらやっぱり。
後輩ちゃんはギョッとして私と悟くんを交互に見る。わかる。私でもおんなじ反応しちゃうと思う。後輩ちゃんの視線は最終的に私に注がれ、私は大人しく口を開いた。

「わ、私の彼氏…です」

なんだかタイミングを逸してしまったのもあって気分はまるで罪を自白する犯人のそれだ。後輩ちゃんは「えっ!!」と大きな声で驚いて、迷惑になってしまうと咄嗟に口を塞いだ。

「どうもー。ナマエちゃんの後輩の子?よろしくねー」
「あ、はい、先輩にはいつもお世話になっていて…」

退勤の人並みが私たちに視線を注ぐ。悟くんは注目されることなんて慣れてますといった様子で後輩ちゃんに話しかけた。どうしてだか二人はそこで少しの世間話をして、なんかこういう誰にでも平気で話しかけちゃうところが悟くんなんだよなぁと出逢った当初から気安かった彼のことを思い浮かべる。
数分もしないうちに世間話は終わったみたいで、悟くんが「帰ろっか」と私に向かって言った。私は頷き、後輩ちゃんに手を挙げる。

「じゃあまた明日。お疲れさま」
「はい!お疲れ様です!お幸せにー!」

お幸せにって。全力の笑みの後輩ちゃんにちょっと気圧されながら、私は悟くんと並んで最寄り駅に向かって歩き出した。

「…悟くん、何で急にお迎え?忙しいでしょ?」
「え、だって七海はナマエちゃん迎えに来てんのに僕は行ってないとかなくない?」

いや、七海さんは護衛でついてくれてただけなんだけど。そう主張しても悟くんは「そんなの関係ないの」と言って取り合ってくれない。
まあ来てくれて嬉しいんだけどね。と思っていたら、悟くんがひょいっと私の右手を攫ってするする指を絡めた。

「ちょ…まだ会社の近くなんだけど…!」
「いいじゃん、皆にナマエちゃんの彼氏だよって覚えて貰いたいしね」

なに子供みたいなことを言ってるんだ、と呆れてしまうけれど、そこまで嫌じゃないと思っているんだから恋っていうのはいつだって盲目。
私は悟くんの手を握り返し、まさか偶然出会ったワンナイトのお兄さんとこんなことになるとは思わなかったな、とあの夜のことを思い出す。
あれ、そういえば。

「悟くん、北陸のヤマンバってもしかしてマジの妖怪のほう?」
「うん、ガングロギャルじゃなくてしわしわおばあちゃんのほう」

私は未だ鮮明に姿かたちを思い出すことのできるキャシーに思いを馳せた。キャシー元気かな。今となっては納得できる話で、あの日キャシーが言っていた「悪い気」というのは呪いのことだったんだろう。
現実は小説より奇なりという言葉があるけれど、本当にその通りだ。あんな衝撃的な失恋からこんなことになるんだから。

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