01 ワンナイト

ぱちりと目を開ける。
その瞬間に、私は「やらかした」ことを自覚した。
目の前には見目麗しい男がすぅすぅと寝息を立てている。問題は、この男が見目麗しい男だということではなく、名前も知らない男だということだ。

「やっば…」

むくっと起き上がり、一縷の望みをかけて自分の恰好を確認する。ショーツは履いているけれど、残念ながら上半身は裸である。きょろきょろ室内を確認する。
知らない部屋だが、この類の部屋には覚えがある。ガラス張りのバスルーム、大きい鏡の取り付けられた天井、やたらめったらでかいベッド。まごうことなきラブホテルである。
私は自分の失態に腹の底から溜息をつき、のそのそとベッドから這い出る。床に脱ぎ散らかした洋服がごみのような侘しさで横たわっていた。
いそいそとそれらを身につけ、髪の毛をアメニティのブラシで適当に整える。
ベッドの部屋に戻ると、白髪の美形は未だ夢の中のようだ。私は鞄から多めのお札を取り出し、ベッドのサイドボードに置く。
起きて女が消えていたらこの男のプライドが傷つくかもと一瞬思ったけれど、どうせ二度と会うこともないのだからいいだろう。何より起きたところで何を話せばいいのかわからない。

「んっ…」

男が身じろぎをした。起きる前におさらばだ。
私は急いで部屋を立ち去り、エレベーターで一階に降りる。もう既に日はそこそこの位置にあり、時間を確認すると午前八時だった。平日であれば焦る時間だが、幸い今日は土曜日である。
そもそも、今日が休みだからと私はあんなに飲んだのだった。


大学を卒業し、リーマンショックの不景気の中掴み取った企業に勤めて三年目。
私には大学時代から付き合っている恋人がいた。付き合って五年、同棲して四年。彼氏のご両親からも公認で、結婚を意識する間柄だった。
真面目で、ちょっと刺激に欠けるみたいなとこはあるけど、結婚するならこういうひとがいい。母もそう言っていた。
その調和が跡形もなく崩れ去ったのは、一瞬のことだった。

「ただいまー」

がちゃん。出張の予定が急遽取りやめになってしまい帰宅すると、厚底のサンダルがころんと転がっている。もちろん私のじゃない。
頭が真っ白になって、私は通勤用の鞄をどさっと落とした。

「あっ…ナマエ…」

電気の煌々とともるリビングのなかで、時代錯誤のガングロ女が彼に絡みついていた。私の学生時代にももう絶滅危惧種と化していたヤマンバギャルである。

「…なに、どういうこと…?」
「いや、その…」
「タッちゃん、この子が彼女ォ?」

唖然として尋ねる私、どもる彼、飄々としたまんまのヤマンバ。どういうことも何も、こりゃあ浮気だろう。浮気じゃなかったら逆に何なんだ。

「お、俺は生まれ変わるんだ…!ナマエとの生活はうんざりなんだよ!」

彼は女みたいな金切り声でそう叫んだ。間近で聞いているヤマンバは顔をしかめることもなく、平気な顔をしていた。

「俺はキャシーに出逢って生まれ変わったんだよ!もう嫌なんだ!」

いやいやキャシーて。ひゃくぱー日本人でしょこのヤマンバ。わぁわぁと叫び続け、ヤマンバがねちねちと彼に絡みつく。彼は未だなんだかんだと喋り続けているが、私は自分の部屋という慣れ親しんだ空間で展開される異様な光景に、気圧されて全然頭の中に入ってこない。

「タッちゃんはさぁ、自分の殻からカイホーされたわけ。あんたもマジやばい気ィ漂ってっから早め除霊とかしてもらったほーがいーよ」

ヤマンバは金切り声で叫び続ける彼には構わず、私に黒と白で縁取った目を近づけて言った。
なに、ヤマンバでしかもスピリチュアル女かよ。マジで?
はぁ、と曖昧に相槌をうつと、ぜぇぜぇと息を切らせた彼が一等大きな声で言った。

「もう俺は出ていく!」

あ、はい。そうですか。
正直こんな姿を見せられて今後一緒に生活なんてのはまずもって無理だろうし、出て行ってくれるならそれはそれでいいのかもしれない。
ヤマンバと浮気してることより正直金切り声でヒステリックに叫ばれたことのほうが私の中でダメージがでかい。

「じゃあねぇ、ナマエチャン」

そう言ってウィンクと投げキッスをして出ていくヤマンバに、いやなんでお前が馴れ馴れしい感じなんだよ。と心の中で突っ込んだ。
彼とヤマンバが出て行ったことによって部屋は途端に静かになった。
彼の愛用のクッションだとか、お揃いのマグカップだとか、そういうものが乱雑に室内を占拠している。つい数分前まで愛しいと思うべきはずだったものが、途端に憎らしく思えてきた。
よし、飲みに行こう。
私は一度メイクを直してスーツを着替え、繁華街に繰り出すことにしたのだった。

一件目はよく行く居酒屋、二件目もよく行く居酒屋、三件目で知らないところに行ってみたくなって、適当に目についたバーに入る。
飲み始めて四時間、いよいよ楽しくなって参りました。

「お兄さん、マティーニください」

バーテンダーにそう言って、何杯目か数えることも辞めたお酒を注文する。
バーカウンターの隅っこでは若い女とおじさんがいちゃいちゃしている。同伴か不倫か。女の子が商売女っぽくないから不倫かな。どっちでもいいんだけど。

「ふふ、それでね、ヤマンバだったんですよ、彼の浮気相手が」

私は壮年のマスターにへらへらと今日の出来事を話した。なんで話したかというともう誰かに話して笑い飛ばしてしまいたかったからだった。
薄暗いバーの中で照明に時おりお酒の瓶がちらちら光る。マティーニが運ばれて来たから、ぐっと一気に半分ちょっとをごくんと飲み込む。

「ヤマンバですよ、ヤマンバ。まだ現存してたんかーいっていうね、ふふ」

マスターはにこにこ静かな笑みで私の話に頷いてくれる。絶滅危惧種のヤマンバを思い浮かべる。うそみたいに黒と白で目を囲っていた。幼少期に見たバラエティ番組によると、マジックでメイクを施していたツワモノもいたらしい。

「おにーさんはヤマンバ見たことあるー?」

私は暫定不倫カップルと反対側のカウンター席に座るお客さんにそう話しかけた。普段はお酒を飲んでるとはいえ知らない人にこうやって話しかけることはないが、今日はもう特別だった。

「本物ならあるよ」
「ほんとー?」

答えてくれたお客さんは若い男のひとで、薄暗い店内だというのにサングラスをしていた。髪の毛が白くて、怪しいけどちょっとかっこいいかも。
お兄さんもヤマンバを見たことがあるらしい。私はその共通点が無意味に嬉しくて、席をひとつ移動してお兄さんのすぐ隣に腰かける。

「どこで見たん?私はねぇ、さっき、自分の家でみたよー」
「僕は北陸の山の中」
「山ぁ?やばいね、そんなとこにいるのほんとに絶滅危惧種じゃん」

嘘か本当かは知らないけど、お兄さんは随分山奥で見たらしい。なにそれ、山の中で夜とか遭遇したら本当に妖怪の山姥だと思っちゃいそう。
お兄さんは怪しげなわりに結構ノリが良くって、私の話を軽快に聞いてくれた。

「それでさぁ、家帰ったらびっくりなの。ヤマンバ女が彼と抱き合っててねぇ、しかもそのヤマンバがスピリチュアル女でさぁ」
「それはびっくりだね」
「彼は殻からカイホーされたとか、私にもヤバい気が漂ってるとか言い出してねぇ」
「…へぇ」

「ヤバい気ってなによって話!」

私がははっと笑い飛ばすと、サングラスのお兄さんはフム、とばかりに顎に手をあてる。それからちょっとだけサングラスをずらし、私のことを観察した。
あ、もしかしてちょっとじゃなくって結構かっこいい?

「そのヤバい気って奴は、僕にもわかるなぁ」
「えぇぇ、おにーさんもスピリチュアル女なんー?」
「男だけどね」

はは、そりゃそーだ。

「早めに祓っちゃおうか」
「おにーさんがやってくれるん?」
「ちょちょいのちょいでね」

お願いしまーす。と私は勢いよく頭を下げた。酔っぱらっていた。
バーに入ったあたりからかなり記憶は曖昧だったけれど、ここでバツンと途絶えている。しかしこの後の経緯は記憶がなくても予想できる。
このままホテルに雪崩込み、勢いだけでワンナイト。それ以外の何者でもない。


私はラブホテルを出ると、とりあえず早くここから離れたい一心で適当に右に向かって歩き出した。近くで車の行き交う音が聞こえる。
そのまま1分も歩かないうちに、二車線の道路に突き当たった。残念ながらこの道に見覚えはない。

「あったま痛ぁ」

二日酔いだ。少し急いで歩いたからか、ガンガンと頭が痛くなる。
さっきまでなんともなかったのは、やらかしてしまったことに焦っていたからだろう。我に返れば普通に二日酔い。当たり前だ。あんだけチャンポンしてたんだから。
こめかみを押さえながらマップアプリを開く。バーがあった繁華街からわりと近い場所だった。
もういいや、タクシー使おう。いやちょっと待て、飲み代で結構消えたんじゃない?
私は鞄の中から財布を取り出し、中身を確認する。飲み代では思ったほど減っていなかったけれど、さっきホテル代を置いてきたから多少心もとない。
私は交通手段をちょっとだけ悩み、戒めのために電車で帰ることを選択した。しじみエキス配合のドリンクをコンビニで調達することを忘れずに。

電車を乗り継いで自宅のアパートへと辿り着く。ああ、そういえば昨日の晩ここでヤマンバ見たんだった。
彼氏、もとい元カレの荷物があると思うと多少気は重いが、なんか別れ方が劇的過ぎて悲しいとかそういう感情が一切湧かない。
私はカチャンと鍵を開け、玄関の扉を開く。当たり前だけど、飲みに出かける前とおんなじ風景が広がっている。

「さぁて、善は急げと言いますしねぇ」

私は上着を脱いで腕まくりをすると、どこから取り掛かろうか部屋の中を見回した。
二日酔いも時間の経過としじみエキスでだいぶ緩和されている。
元カレの面影の一切を処分してやろうと意気込んだその瞬間、ポケットのスマホが着信を告げる。ディスプレイには知らない番号が表示されている。
誰だろう。セールスかな。と思いながら「もしもし」と電話に出ると、向こう側から男の声が聞こえた。

『や、ミョウジナマエちゃん?』
「えっと…あの、どちらさまですか…?」
『ひどいなぁ、あんなに熱い夜を過ごしたじゃん』

さぁっと血の気が引くのがわかった。これアレだ、ワンナイトのお兄さんだ。
なんで電話番号知ってんの?どうしよう、やっぱり勝手に出て行ったのはあまりにあまりだったか?

『忘れ物してるよって教えたげよーと思って』

忘れ物?何だろう、財布はあるし、スマホもいままさに使ってるから忘れてない。
他に大事なものなんて何もないだろう。そう判断して「捨てちゃってください」と言おうとしたとき、先に電話口から言葉が投げられる。

『社員証』

…ダメです。
化粧品もクーポン券もイヤホンも諦めがつくが、社員証はまずい。紛失届はカッコ悪い上に責任問題だ。

『明日返したげるからさ、待ち合わせしようよ』
「え、いや…その…」

どうにか会わずに済む手段を考える。郵送…はダメ。住所なんか教えたくない。ホテルに戻る…のもダメ。絶対もうお兄さんホテル出ちゃってるでしょ。なんか、なんかないか…。ないな。

「よ、よろしくお願いします…」

かくして私は、ワンナイトのお兄さんと再び待ち合わせをする羽目になってしまった。
それにしても、まじでお兄さんなんで私の電話番号知ってたんだろう。

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