16 ワンネス

ナマエちゃんが倒れたのは水曜日のことだった。
彼女のマンションの最寄りの駅で出張前に少しだけ顔を見てから任務に出ようと僕は任務と任務の隙間を縫って時間を作った。伊地知にはわざわざこの駅までピックアップに来るよう位置情報を送っている。
しばらくで現れたナマエちゃんはどうにも調子が悪そうだった。何か呪いの影響か、と目を凝らして、僕は思わず浮かべていた笑みを消した。

「…ナマエ、あの宗教団体には行かないでって言ったよね」

肩に不自然な残穢がこびりついている。これを僕が間違えるわけがない。傑の残穢だ。

「…行ってないよ」
「嘘つくなよ、残穢で分かる」

どうして行ったんだ。傑は、僕のたったひとりの親友は、大義のためと一般人を易々と呪殺する凶悪な呪詛師だというのに。
君に何かあったらどうするんだ。そばにいなきゃ守れない。僕が守れるのは、僕に守られる準備がある人間だけだ。

「なんで行ったの、約束したよね」
「さ、悟くんには…関係ない、から…」
「どれだけ心配してると思ってーー」

どうしてわかってくれないんだ、君も僕に守られたくないからなのか。
僕は思わずナマエちゃんの手首を掴み、拘束する。ナマエちゃんは怯えたような悲しむような表情で、視線を地面に落とした。
不意に、彼女の身体がぐらついて抵抗しようとしている手首から力が抜ける。

「うっ…」

だめだ、倒れる。
そう思った瞬間にナマエちゃんは意識を失い、だらりと力なく膝から崩れた。

「ナマエ…!」

くそ、なんだ、どうしてだ。傑の残穢はあくまで残穢でしかない。例えば妙な呪霊を憑かせているとかそういうものは見えない。
僕はナマエちゃんを片手で抱え上げると、ポケットからスマホを取り出して伊地知に連絡をした。

「伊地知、高専戻って
『えっ、ピックアップ先に向かってるんですが…』
「緊急事態。ナマエちゃんが倒れた。僕高専にトぶからお前も高専で合流」
『…わかりました、すぐに向かいます』

伊地知の返答を聞き、僕は通話を終了すると術式を発動させて高専にトんだ。この手段は予めルートを設定しておく必要があるが、それはナマエちゃんがこの前呪霊に襲われた日に済ませていた。

「ナマエちゃん…!」

ナマエちゃんを抱えたまま僕は高専の中を走った。一直線に硝子のいる医務室に向かい、バンっと扉が取れそうなほどの勢いで引き戸を開く。

「硝子!今すぐ診てくれ!」

硝子がひどく驚いた顔をしていたが、そんなことはもうどうでもよかった。
医務室のベッドにナマエちゃんを寝かせる。息を切らし。苦しそうなのが見ているだけで分かった。

「どけ、五条。診察する」

硝子はナマエちゃんのそばに立ち、瞳孔や脈を確認した。僕もその隣に立ってじっとナマエちゃんに目を凝らす。一般人の何倍もになる呪力が垂れ流され、とめどなく溢れる。その中にほんのわずかな歪みを見つけた。

「…脈が速くて体力を消耗しているようだが…外傷の類はないな。五条は何か見えたか?」
「…呪いが影響してる。ナマエちゃんの呪力に隠れて上手く見えないけど…この子の中に働きかけて流れを乱してる」
「なるほどな。呪霊か呪詛師ってところか」

硝子の言葉に、傑の顔がちらついた。いや、それは可能性が薄い。万が一傑がナマエちゃんを殺したいならこんなことをしなくてもいくらだって殺す機会はあったはずだ。
ナマエちゃんに最後に会ったのがかき氷を食べに行った日。約10日。その時は珍しく低級もついていなかったはずだ。そこからこの短期間でここまで疲弊させて、かつ今も僕から隠れている。相当強力か、あるいは厳しい縛りがあるのが妥当と言える。
じっと考えていると、ナマエちゃんをかき乱していた呪力の渦のようなものが緩やかに収束していった。多少の揺らぎを残したまま、ナマエちゃんの呪力の流れが戻っていく。

「…急に安定したな…何かの縛りか?」
「いや、わかんない。僕の目にも上手く見えなかった」

硝子はもう一度ナマエちゃんの脈を取った。それから硝子は脈が安定してきていることを僕に伝える。時間の縛りか、空間の縛りか、それとも対象との距離の縛りか。何がどうナマエちゃんに害を成しているのか。

「この分だとしばらく寝ていれば目を覚ますだろう。五条、おまえ出張じゃなかったか?」
「そうだけど、この状況でナマエちゃん置いて行けって?」
「現時点で命に別状はないんだ。恋人が心配なのは分かるが、おまえが任務に行かないと別の人間が死ぬぞ」

硝子はそう言い、ナマエちゃんに掛け布団を被せた。それはわかってる。僕にしかできない任務があって、僕がいなければそのせいで死人が出ることもある。今日の出張はまさにその類だ。というか、そこじゃない。

「…じゃない…」
「は?」
「まだ、恋人じゃない」

僕がそう言うと、硝子はぽかんとした顔になったあと大きな声を上げて笑った。ナマエちゃんが起きたらどうしてくれるんだ。

「あははは!五条、おまえでもそんなことがあるのか…ふふ、このまえ高専で保護したのはもう三週間以上前のことだぞ」
「僕にもいろいろあんだよ。前にかき氷食べに行ったときはいつも履いてないのにわざわざヒールの高いパンプス履いてきててさ、しかもデートしようって言ったら水族館に行きたいって言ったんだよ?水族館なんて女の子がデートで好きそうな場所じゃん」
「まぁそれには個人差はあるだろうが、私は五条がなし崩しに恋人になってないことのほうが驚きだよ」

硝子が言った。だって僕は恋人の正しい作り方なんて知らない。正しいことをなんだって僕に教えようとしたあいつはぶっちゃけ女関係はダラダラだったし、僕はずっとその場限りの肉体関係しか持ったことがないのだ。

「たったひとりになりたいなら、そんなふうじゃダメなんだろ。きっと」

想像よりも情けない声が転げ落ちた。なんだ、このセリフは。中坊かよ。
そうは思っても、僕にはこのくらいしか言葉がなかった。硝子は今度は笑わずに「そうだな」と僕の言葉に同意した。

「ナマエちゃん…」

あの日さ、本当は用事なんてなかったんじゃないの。だって、夜の用事の時間だってその場で考えましたって感じだった。ねぇあのパンプス、本当は僕のために履いてきてくれたんじゃないの。
僕はずっとナマエちゃんとデートだって思ってた。ナマエちゃんは、どう思ってた?
自分ひとりで考えたところで答えなんか出やしない。その答えはナマエちゃんの中にしかないからだ。

「硝子、ナマエちゃんのことよろしく」

目を覚ますまでここにいたいところだが、どうにもそうはいかない。
僕はナマエちゃんを硝子に預け、駐車場で待っている伊地知のところへ向かった。


それから出張に向かう車の中で、嫌な予感がして七海と硝子に電話をした。僕がそばにいたいところだけども「悟くんには関係ないでしょ」なんて言われてしまったし、物理的に任務も詰まっている。丁度七海は去年から術師に復帰したところだし、護衛とかの系統の任務はまだやってないはずだ。いい経験になるでしょ、なんて適当なことを言って振れば、あいつはいいやつだから断らずに引き受けた。
木曜日の夜、スマホに受信した七海からの報告は「異常なし」だった。それを受け取ったのは出張先で、呪霊を尻に敷きながら「簡潔すぎてつまんないからやり直し」と返信すると、無視されるかと思いきやもう一度メッセージが入った。

『五条さんに貸しをひとつ作りました。お礼はこれで結構です』

そのメッセージとともにバカ高い日本酒の画像が送られてくる。貸しってなんだよ、と少し考えた。
護衛は任務として割り振られている。だからそんなことをあの七海が貸しとか借りとか言うことはなさそうだ。じゃあ一体何か。まさかナマエちゃんになんか言ったのか、あいつ。
そうしている間に尻に敷いていた呪霊が暴れ出したので、僕は腕のひと振りでそれを祓う。こんだけ分かりやすい呪霊なら苦労もしないものを。


それからそもそも尋常じゃない量の任務を巻きで終わらせる。ナマエちゃんとお茶する時間はいつもこうして任務を前倒しでこなして作っていた。
翌日の午後7時。廃校で呪霊を祓って僕が帳を破って出ると、伊地知が車のそばで控えて待っていた。ようやくこれで高専に戻れる。三日分くらいのスケジュールを二日分まで縮めた。明日、土曜日、ナマエちゃんをデートに誘おう。

伊地知の運転で高専に戻る。結局時計の針はてっぺんを回ってしまった。そのままなんとなく二人で校舎に向かって歩いていたら、伊地知のスマホが着信を告げる。
伊地知は「出ます」と律儀に言ってから通話を開始する。

「はい、伊地知です。…七海さん?」

電話の相手は七海だった。嫌な予感がする。こんな時間にわざわざかけてくるなんて。七海がついている任務はナマエちゃんの護衛だけだ。

「はい、はい。えっ、ミョウジさんが!?」

僕はその声を聞くや否や、伊地知からスマホを取り上げる。
伊地知はぎょっとこちらを見ていたが、そんなのはお構いなしだ。

「七海!ナマエちゃん無事!?」
『ちょ…五条さん!?』
「何があった…つーか今どこ!?」
『電話口で怒鳴らないでください。今から高専に向かいます』

七海の落ち着き払った口調がもどかしくて、僕はぎりっと奥歯を噛む。焦ったところで仕方ないことは分かっていたし、頭の隅の冷静な部分では七海がこれだけ落ち着き払っているのだから、リカバリーは充分可能で最悪の事態が起こっているわけではないということも理解していた。けれど焦る気持ちはコントロールすることが出来ない。

『今は気を失っているだけです。五条さんに状況の説明と家入さんにミョウジさんの治療を依頼したいので伊地知くんにピックアップをお願いしました』

この時間なら渋滞もないだろう。伊地知がここから向かってピックアップして戻ってくるまでの時間を頭の中で計算した。

「…わかった。七海、頼む」
『…はい』

電話口で一瞬七海が息をのむような音がした。絞り出した声は自分でも驚くくらい情けない声だった。
通話を切り、スマホを伊地知に返す。

「伊地知、七海の要請通りピックアップに向かって。僕は硝子に連絡してくる」
「わ、わかりました!」

伊地知は僕の言葉に踵を返し、元来た道を走って駐車場へ向かった。
僕は高専の医務室に足を運んだが、あいにく硝子は不在だった。スマホにかけると、今日に限って自宅に荷物を取りに行っているという。

『そう急かすな。いますぐタクシーで向かう』
「僕が硝子の家にトんで行く」
『落ち着け。私の家から高専まではルートを引いてないからトべないだろう。ナマエさんの家に伊地知の運転で向かってるなら私のほうが先に高専につくよ』

硝子にそう言われ、僕は徐々に冷静さを取り戻した。そうだ、一瞬で空間を移動するのは引き寄せる僕の術式であって、なにも万能な瞬間移動というわけではない。あらかじめルートを引いていないところを行き来することは出来ない。そんなことを失念して口走るほど僕は焦っていたらしかった。
僕は硝子に「よろしく」と言って通話を切る。

「はぁ…だっせぇ…」

こんなことなら任務なんて他に振ってしまって僕がついていればよかった。出来もしないくせにそんな思考が頭を過ぎり、僕は誰もいない医務室の丸椅子にどっと腰を下ろした。
らしくない。誰かの窮地なんて今まで何度も見てきた。そのいずれの場合も、こんなに冷静さを失うことなんてなかったのに。
僕は両手で顔を覆い、深く息をついた。冷静になれ、僕が焦ってどうするんだ。原因を探れ。あの呪力の乱れの渦を消滅させることが出来れば解決する。

「ナマエちゃん…」

会いたい。

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