14 ワンスター

暗い、狭い、どうしようもなく寂しい場所を漂っていた。声は出せない。口を開けば溺れてしまいそうだから。
だけど溺れるとしたならきっと口を開かなくても溺れるだろう。私が溺れる気配は一向になかった。
苦しいけれども、死ぬほどじゃない。ずっと胸を強い力で押さえられてるみたいな、そんなかんじ。

『ナマエ…!』

だれ?

『ナマエちゃん!』

誰かの声がする。だけど水中で反響するみたいにあやふやで、誰のものかはわからない。私の名前を呼んでいるような気がする。
ふと、この空間の奥底に赤い光を感じた。私はじっと目を凝らし、その正体を確認した。そこにあったのは、真っ赤な美しい花を咲かせる椿だった。

「…きれい」

うっすらと光を放つ。吸い寄せられそう。そう思ったとたん、身体が奥底にずずずと引き込まれる感覚に陥った。あの赤に触れたい。

『ナマエちゃん…』

寂しそうな声に引かれて、ふと上を見上げる。水面のようにぼやけて光の層をつくるそこが、目の覚めるような青色をしていた。泣かないで。
一体誰にかける言葉のつもりなんだろう。そんな思考が脳裏をかすめ、私の意識は急激に浮上した。


「…ここは…」

目を開けると、見知らぬ天井が広がっていた。
板張りで、部屋は電気の明りによって照らされている。白いカーテンのようなものに囲まれて外は見えなかった。察するに、医務室のような場所だった。

「目が覚めたか?」

カーテンの向こうから女の人の声がする。
私は訳も分からず「はい」と返事をして、それからカーテンがシャッと開かれた。女の人は家入さんだった。

「あの…ここって…」
「高専の医務室だよ。君は道端で倒れたんだ」

記憶を辿る。私なんでそんなことになってるんだっけ。普通に仕事行って、帰りにスーパー寄らなきゃいけなくて最寄り駅で降りて、改札を出て…そうだ、悟くんに会ったんだ。

「五条が君を抱えて大慌てで駆け込んできたんだ。いや、面白いものを見せてもらったよ」

ははは、と家入さんが笑う。病院じゃなくて高専に連れてこられたって、何でだろう。あれ、もしかして、普通の病院じゃダメだってこと?
私が身体を起こそうとすると、家入さんは「そのままでいい」と動きを制する。

「いわゆる一般的な病気の類じゃない。五条の六眼によると何らかの外的な呪力が君に悪さをしているらしい」
「が、外的な…呪力、ですか?」
「ああ。まぁ例えば呪いに憑かれているとか、誰か呪詛師…呪術を使った無法者に呪われているとかな」

家入さんの「呪われている」という言葉に思わず息をのんだ。呪う、なんて何か相当悪いことをした人がされるものだと思っていた。そりゃいままで人と揉めたことがなかったわけじゃないが、そこまで恨まれていることもないつもりだ。

「心当たりはあるか?」
「えっ…こ、心当たり、ですか…?」

心当たりなんてない。でも本当に?
自分の大して山も谷もない人生を振り返る。人並みに苦労はしたけど、家庭崩壊しているわけでも学生時代にグレて警察に厄介になったわけでもない。普通に義務教育を終えて、高校、大学と進学して、都内の中小企業に勤めて。平凡を絵に描いたような人生。
それがここ二か月と少しで目まぐるしく変わった。悪い気が漂ってると言ったヤマンバギャル、それを祓ってくれた悟くん、でもまた憑かれてそれを先輩に見抜かれて連れていかれた宗教団体。

「あの…呪われてるのかとかは…分かんないんですけど、変わった人には会いました」
「それはどんな?」
「呪いを取り除くっていうので有名な宗教団体の、ゲトウさんという方です」

私がそう言うと、家入さんは眠そうな目をカッと開いた。それから「そうか…」と漏らす。
少し考える素振りで、それから私にじっと視線をやった。

「そのことを五条は知っているのか?」
「はい。初めは全く知らずに知り合いに連れていかれて、悟くんにはもう行くなって言われてました。それから家の最寄り駅で偶然会って、少し話をしたんです。それも一応悟くんには伝わっていると思います」
「なるほどな」

ゲトウさんは有名な人なんだろうか。家入さんもどうやら彼を知っているような口ぶりだ。

「ゲトウさんって、その、こういう世界でも有名なひとなんですか?」
「まぁ、有名だね。あいつは呪詛師といって、呪術を使って一般人に害を与える犯罪者だよ」
「えっ…!」

確かにだいぶ胡散臭い人だと思ったけど、犯罪者だなんて強い言葉を使われると少し背筋が冷えた。先輩の叔母さんは大丈夫なんだろうか。

「詳しく知りたいなら五条に聞くといい。私よりよっぽど夏油のことを知ってるさ」
「悟くんが…」

悟くん、やっぱりゲトウさんと知り合いだったんだ。
初めてゲトウさんの名前を出したときから様子がおかしかったもんなぁ。謎の納得感を覚えながら、倒れる前悟くんに言い放った言葉を後悔した。
説明はしてくれなかったけど、ゲトウさんが犯罪者だというならあれは私を単純に単純に心配してくれていた言葉なんじゃないだろうか。

「それで、他にここ最近変わったことは何かあるか?」
「家に…椿の花が咲くんです」
「椿?」
「はい」

暗い部屋の中でもその存在をはっきりと認識できる。少し光を放つような鮮烈な赤色。吸い寄せられるような、美しい椿。

「あの…私この後どうなるんですか」
「一応規程上は帰っても構わないことになっているが、どうしたい?」

どうしたい、と尋ねられ、私はぼんやり考えた。今日は水曜日。明日も明後日も仕事があるし、もし休みを貰うとしてもいくらか引継ぎはしたい。私が「家に帰りたいです」と伝えると、家入さんは「わかった」と相槌を打った。
ここには悟くんがいる。仕事が気がかりなのもそうだけど、今このままここにいて悟くんと話すのはちょっとしんどい。あ、でも悟くんが運んでくれたのならお礼だけはちゃんと言っておきたいな。

「家入さん、悟くんって今いますか?」
「五条なら残念ながら任務で出てるよ。しばらく出張続きで帰れないだろうから、何か伝えておくか?」
「じゃあ、運んでくれてありがとうって伝えてください」

私のセリフに家入さんは了承し、それから簡単な診察をされた。ぼうっとしていた意識も徐々に覚醒して、身体も少し楽になってきた。

「君はなんというか、普通だな」
「え」
「いや、気を悪くしないでくれ。呪術師っていうのは奇人変人の巣窟なんだ。君みたいに普通の感性を持った人間に会う機会は少なくてね。なんだか新鮮だよ」

一瞬めちゃくちゃ愚弄されたのかと思ったが、そう言うことではないらしい。
確かに、話を聞いているだけでも呪術師の世界というものは一般人には理解できないくらい特殊だ。そんな世界だと平凡を絵にかいた私のほうが珍しいらしい。

「五条はそういうところが気に入ったのかも知れないな」
「…悟くんが…?」

そのとき家入さんのスマホが鳴って、すまない、と断って通話を開始しながらベッドを離れていく。窓から見える外は真っ暗で、これが倒れた日の夜なのかはたまたもう少し経過してしまっているのかも今は分からなかった。
上体を起こすと、カーテンの向こう側には保健室に置いてあるみたいなデスクと、それから薬品の入っているような棚が見えた。

「ナマエさん、君に護衛をつけることになった」

戻るなり、家入さんが言った。ごえい、と聞きなれない言葉を頭の中で再生する。
家入さんに下の名前名乗ったことあったっけ。あ、そっか、カルテで見たのかもしれない。

「五条の判断だ。不便だと思うが、身を守るためと思ってしばらく我慢してくれ」

悟くんの判断。その言葉が喉の奥にひっかかる。護衛って、もしかして悟くんがつくのかな。いや、出張って言ってたからそんなことないか。

「あの、私、結構ヤバいんですか?」
「そうだな、どれだけヤバいかを今調べてるって感じだ」

ヤバいのは確定なんだ。と他人事のように考え、それから一時間もしないうちに私は帰宅できることになった。


時間は深夜に差し掛かる少し手前。高専から帰れる電車はもうないとのことで、車で送ってもらうことになった。正面で待つように言われて向かうと、そこに七海さんがいた。

「あれ、七海さん?」
「こんばんは」
「こんばんは。お仕事ですか?」

七海さんは夜だというのにサングラスをしていた。証券会社に勤めていた時からスタイルは良かったけど、なんかあの時よりふた回りくらいガタイがいい気がする。

「ええ、ミョウジさんを護衛するように言われています。窮屈だとは思いますが、少しの間辛抱してください」
「えっ、七海さんがですか?」

誰が護衛してくれるとは聞いていなかったけど、まさか七海さんとは。知り合いっちゃ知り合いだけどそんなに話したことがあるわけでもないし、中途半端に気を遣ってしまう。いや、文句を言うわけじゃないけど。

「主にミョウジさんに同行して護衛するのは外出中です。家と職場にいる間はこの呪符を肌身離さず持っていてください」

そう言って、七海さんは私にお札を手渡した。なんだか文字のような幾何学模様のようなものが書いてある。口ぶりによると、護衛してもらう間もプライベートは確保されるらしい。

「その呪符の対になるものを私が持っています。効力自体は露払い程度ですが、発動するとこちらの札が燃えますので、ミョウジさんの危機を察知次第速やかに救助に向かいます」
「え、すごい。便利ですね」

その便利さにのんきな感想が出てしまって、まずい、と口をふさぐ。ちろ、と七海さんを見ると案の定少し呆れた顔をしているように見えた。

「…規程上はアナタを拘束する効力がないので希望通り帰宅していただけますが、あくまで要警護対象になっているということを忘れずに」
「す、すみません」

もっともすぎてぐうの音も出ない。
私はお札を鞄にしまうと、丁度いいタイミングで車が迎えに来てくれた。七海さんと二人後部座席に座る。車はゆるりと走り出した。運転手は伊地知さんじゃなかった。

「報告にあった椿の件ですが、いつから気が付きましたか」
「引っ越しの当日です。夢かと思ってたんですが、そうじゃないみたいで…」
「いままで心霊体験のようなものは?」
「ありません」

いくつか七海さんに質問されたことに答えていく。七海さんは「なるほど」と相槌を打って手元のタブレットに何事かを記入した。
ふと外を眺めると、段々市街地に近づいていて、街の明かりがちらほらと見える。八月も真ん中を過ぎ、お盆も終わってしまった。今年は実家に帰れなかったし、来月くらいには一度帰ろうかな。
それからしばらくで見慣れた景色に入り、私の住むマンションに辿り着いた。そう長い時間離れていたわけではないのに、マンションの外観を見るとどこかほっとした。

「念のため、私の番号を渡しておきます。何か異変を感じたらすぐに連絡を下さい」
「ありがとうございます。あ、ワンコールするので私のも登録お願いします」

七海さんと無事緊急連絡用に番号を交換し、私は部屋に戻った。そういえばお札が燃えたら駆けつけてくれるって言ってたけど、まさかどこかで待機してくれてるのかな。いや、それは流石にないか。


翌朝、私はマンションを出て愕然とした。

「おはようございます」
「お、おはようございます…」

エントランスの向こうに七海さんが立っていたからだ。

「あ、あの…護衛ってもしかして通勤中も…?」
「はい。むしろ同行する護衛は通勤時がメインですね」

マジか。いや、説明を聞いていなかったわけじゃないけど、マンションの前にこんなシークレットサービスみたいに待ってると思わなかった。

「では、行きましょうか」
「え、なんで方向知って…」
「そりゃ、元取引先ですから」

ああ、そうか、そうだった。
私は駅までの道のりを歩きながら、会社の人に見つかったら本当のことを説明するわけにもいかないし面倒なことになるだろうな、といくつか言い訳を見繕うことにした。

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