10 ワンハーフ

正直に言って、僕は特別とか一番とかそういうのを作るのが苦手だ。
昔から大体のものは与えられていたし、望むものは労せず手に入れることができた。生まれ持った要領の良さから大概のことは自分で出来てしまって、他者を必要とすることも少なかった。
そんな僕が、人生で初めて作った特別というものがあった。学生時代に得た親友、夏油傑。
大それた正しさを大真面目に掲げるその男を、僕は善悪の指針にしていた。傑は誰よりも正しかったし、僕は傑の判断であればきっとそっちの方が善いことなのだろうと疑わなかった。
傑は僕と対等で唯一なのだと思っていた。思っていたのは僕だけだった。

『もし私が君になれるのなら、この馬鹿げた理想も地に足がつくと思わないか』

傑は生き方を変えた。信じる正しさを変えた。僕はあの時去っていく傑の背中をただ見送ることしかできなかった。
僕が五条悟だから最強なのか、最強だから五条悟なのか。そんなの僕にだってわからない。オマエがどこにも行きやしないだろうと信じて疑わなかったそんな間抜けな男が、本当に最強なのかよ。

「おい五条、ひどい顔だぞ」
「…硝子」

傑がいなくなって、僕は恐ろしいほど冷静だった。まるで少しも傷ついていないような、そんな気さえした。
ただ眠れなくなった。元から眠りは浅い方だし時間も短くて支障はない方だったが、傑の一件があってからパッタリと眠れなくなってしまったのだ。

「ひでぇな、国宝級のご尊顔だぜ?」
「リサイクルショップでも売れない顔してる」

硝子はそう言って、顎ですぐそばの窓を指した。その動きに釣られて窓を見ると、死人のような顔をした自分と目が合った。

「はは、ヤバ」
「眠れなくてもいいから目ぇ閉じて横になんなよ」

僕は硝子にひらっと手を振って寮の空き部屋に向かった。自分の部屋には傑との記憶が多すぎて少しも休まる気がしなかったからだ。
硬い備え付けのベッドに体を横たえる。視線だけで掃き出し窓の方を見ると、夏の間あんなに生い茂っていた緑は勢いをなくし、うら寂しい空白が散らばっていた。
もう秋になっていた。


硝子や七海、伊地知に夜蛾学長。僕には信頼できる仲間がいたけれど、誰も傑にはなり得なかった。当たり前だ。傑は傑で、傑以外にはなれないし傑以外の誰かが傑になることなんて出来ない。
詰まるところ、僕は人生で初めて作った親友という特別な存在を引き止められなかったことで、特別という存在そのものを作ることがもう何年も億劫になっていた。

「おにーさんはヤマンバ見たことあるー?」

呑気なトーンで隣からかけられた声。
その日僕は硝子と歌姫の飲みに乱入したはいいが途中飽きてしまい、近くの適当なバーに入っていた。カウンター席のひとつ空けた隣に座った女は傍目から見てもかなり泥酔している。

「本物ならあるよ」
「ほんとー?」

結構可愛い。好みかも。そんなことを考えながらヘラヘラ笑う彼女を見下ろす。彼女は席をひとつ詰めて僕のことを見上げた。

「どこで見たん?私はねぇ、さっき自分の家でみたよー」
「僕は北陸の山の中」
「山ぁ?やばいね、そんなとこにいるのほんとに絶滅危惧種じゃん」

山姥と言うのは妖怪の方を指しているのではなく、ひと昔前に流行ったガングロヤマンバギャルのことらしい。彼女の彼氏が同棲している部屋に浮気相手を連れ込んでおり、その相手がそのヤマンバギャルだったという話だ。
僕の方はガチの山姥なんだけどね、と思いながら彼女の話に耳を傾ける。

「彼は殻からカイホーされたとか、私にもヤバい気が漂ってるとか言い出してねぇ」

そのヤマンバは見える人間だったようだ。窓か、それともただの見える一般人かまではわからないが、確かに言う通り、彼女の肩には蠅頭が二匹。
サングラスをずらし、じっと観察する。少し変わっている気がした。見えない人間にしては彼女の内から湧き出る呪力量が多い。

「そのヤバい気ってやつは、僕にもわかるなぁ」

僕がそう言うと、彼女はケラケラ笑った。早めに祓った方がいいな。放っておくと面倒なことになりそうだ。これは六眼で見えているというより今までの経験と勘。
話の流れで僕が祓ってあげることになり、酔っ払った彼女を連れて近くのラブホテルに入った。
別にその辺で祓ってあげてもよかったけど、この様子じゃ泥酔してその辺で寝こけるか、別の男にお持ち帰りされるのが関の山だろうし、それをわかっていて放置するほど鬼でもない。
まぁ、結構好みだから一回ヤれるならそれでもいいかと思ったのが本当のところだけど。

「おにーさん名前はぁ?」
「悟。君は?」
「ナマエー」

ナマエと名乗り、ホテルの部屋を見回して「いい部屋ですねぇ」なんてリポートを始めるもんだから笑った。
この後僕に食われるかもしんないのに、呑気な子だなぁ。
ぶっちゃけた話、プロでも素人でも肉体関係になるような人間とはなるべく深く関わらないようにしている。面倒だから呪術界と繋がってるやつは絶対NG。
だからナマエちゃんはお誂え向きだった。

「ナマエちゃん、番号教えてよ、ケータイの」
「いいよー」

ガードがゆるゆるになっているナマエちゃんはガサゴソとスマホを探して、その拍子にバランスを崩して鞄の中身をぶちまける。「あららー」なんて言いながら拾い始める彼女の隣にしゃがんで僕も集めるのを手伝った。
無事ナマエちゃんの番号を聞いたから、これで万が一祓った後にまた憑かれるなんてことがあっても高専から連絡が取れる。僕ってば仕事熱心。

「はい、こっち向いて」
「んー?」

ナマエちゃんは酔っ払った顔を体ごと向けた。僕はサッと手を動かし、蠅頭二匹を祓う。するとナマエちゃんはくすぐったそうに身を捩った。

「もー終わり?」
「うん。悪いのは祓ったよ」
「ありがとー」

間延びしただらしない話し方でナマエちゃんがにこにこ笑う。さて、まぁ適当に流してこのまま事に持ち込もうかな。
そう思ってベッドに腰掛け、ナマエちゃんに隣に座るよう言うと、少しの警戒もなく隣に座った。
この子、連れ込んでなかったら絶対他の男に食われてただろうな。まぁ、今から僕が食うんだけどさ。

「ナマエちゃん、いいよね?」

そう主語もなく尋ねると、ナマエちゃんは「何が?」と言わんばかりの顔で僕を見上げた。
僕はナマエちゃんの腰を抱き、それから体勢をくるりとひっくり返してベッドに組み敷いた。

「あのね」
「うん」

首筋に顔を埋めようとしたとき、不意にナマエちゃんが言った。適当な相槌を打つと、ナマエちゃんがバッと体を起こし、ベッドの上にぺたんと足を折って座る。
僕は出鼻を挫かれて、仕方なく隣にあぐらをかいた。

「タッくんのことさぁ、私ずっとずっと好きだったんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
「ずっとさぁ、タッくんと付き合ってて、結婚もすんのかなって思ってたの」

ぽつぽつと落ちていく声に、セックスに持ち込むタイミングを失った僕はため息をついた。
バーで話した時は吹っ切れたように笑い飛ばしていたけれど、あれは強がりだったらしい。ナマエちゃんはいじいじと自分の爪をいじりながら俯く。

「タッくん、私のこと好きだって、愛してるって言ってくれたのに…」
「ふぅん」

愛なんてろくなもんじゃない。と、脳裏を術師的な思考が掠める。
よくある話だ。思い合っているとき多くの人間が「愛」という言葉を使うけれど、明日も愛しているかはわからない。
愛は瞬間的な観測でしかない。

「愛してるって言ってくれたあの日の私と、何が違うんかなぁ」

ほろりと、大粒の涙が流れていった。その横顔が可愛くて、僕は思わずじっと見つめた。

「私、何がダメだったんかなぁ」

ナマエちゃんと元カレがどんなやりとりをしていたかなんてわかる訳がないが、変わらないものなんてないことだけは確か。
当たり前にそばにあったものが突如として離れていって、分かり合えないほど遠くに行ってしまうことだってある。この世でたったひとりの特別な存在であったとしても、だ。
気がつけば僕は「ダメじゃないよ」と口走っていた。

「変わらないもんなんてないでしょ。別に元カレ忘れられなきゃ忘れなくていいし、忘れてもいいって思えたら忘れればいいじゃん」

自分に重ね合わせた弁護なのか、自分でも驚くような陳腐でありきたりな言葉が溢れて、はっとナマエちゃんを見たらもう涙が止められないと言わんばかりにダラダラと涙を流した。
ぐちゃぐちゃになっていくその顔が可愛くて、綺麗に見えて、僕はナマエちゃんの頭をわしわしと撫でる。

「もう寝よう、大丈夫だから」

ナマエちゃんは小さく頷いた。何がどう大丈夫なのかなんて説明できるはずがなかった。
当然だけどもうセックスに持ち込もうなんて気分にはならず、彼女を置いて部屋を出て行こうと思ったらぐっとシャツの裾を掴まれて、僕は上げかけた腰をもう一度ベッドに下ろす。

「おやすみ、ナマエちゃん」

なんだか帰るのも面倒くさくなってしまい、僕はそのままナマエちゃんを巻き込んでベッドに倒れ込む。べそべそ泣くナマエちゃんの涙を枕元のティッシュで拭い、ぽんぽんと背中を叩いた。
結局僕はこの日、ナマエちゃんに少しも手を出すことはなかった。抱きしめて眠ったけど、本当にそれだけ。


翌朝、目を覚ますとサイドボードに万札が置いてあって、抱きしめて眠ったはずのナマエちゃんはいなかった。
せっかく可愛い泣き顔だったのにちょっと惜しいことしたな、なんて思って伸びをすると、ソファの近くに何かが落ちていることに気がついた。
アメニティか何かか、と思って近づけばそれはナマエちゃんの社員証で、僕は左の口角をグッと持ち上げる。

『もしもし』
「や、ミョウジナマエちゃん?」
『えっと…あの、どちらさまですか…?』

ああ、これ昨日のこと覚えてないんだろうなぁ、というのを直感して、僕はわざと「ひどいなぁ、あんなに熱い夜を過ごしたじゃん」と勘違いするように言えば、電話口では案の定ひゅっと言葉を飲み込む気配がした。

「忘れ物してるよって教えたげよーと思って」

僕はそう言って、手元の社員証を裏に表にとひっくり返して確認する。それにしても、写真写り悪いな。本物のほうが可愛かったじゃん。
僕はまんまと社員証を渡すということを口実に、ナマエちゃんを呼び出すことに成功したのだった。


翌日会ったナマエちゃんは終始僕を「お兄さん」と呼んで、名前を教えたことも忘れてしまっていたようだった。
だったらきっと、本当に昨晩僕の前で泣いたことも全部忘れてるんだろうな。そう思うと悔しいような、少し安心したよう、変な気持ちになった。
スイーツビュッフェを堪能した帰り、僕は迎えの伊地知に言った。

「伊地知、あの子の顔ちょっと覚えといて」
「えっ、今の女性ですか?」

そ。と僕は肯定する。予想外の事態が一つだけあった。ナマエちゃんに早速低級呪霊が憑いていたのだ。
昨日祓ったばっかりでこんなに早く憑かれるなんて、あの子相当の引き寄せ体質だな。番号を聞いたときはそんなつもりじゃなかったけど、ちょっとよく見ておいた方がいかもしれない。
運転席の伊地知がバックミラーでナマエちゃんを確認するように見た。それから車は進み、ナマエちゃんはあっという間に豆粒くらいのサイズになる。

「すごい引き寄せ体質だったからさ。ちょっと僕しばらく様子見とくけど、僕がいない時になんかあったら困るし」
「五条さんがそう言うって、相当ですね」
「もー昨日の今日だよ、今んとこ雑魚ばっかだけど」
「そんなに凄いなら、高専から術師を派遣できるように手配しますか?」

伊地知のいうことは一理ある。というか、それがセオリー。だけどそれじゃ面白くない。

「いや、僕が対応するから、手出しさせないで」

そう言ったら、伊地知は目を丸くしてバックミラー越しにちらりと僕を見た。交差点で車が停車して、僕は運転席にずいっと体を乗り出して伊地知を覗き込む。

「あ、惚れないでね、僕が好きになる予定だから」

僕のセリフに、伊地知は大袈裟なくらいのボリュームで「は!?」と言った。青信号に変わったのに発進しないもんだから、後ろの車からクラクションを鳴らされる。
「伊地知、青だけど」と言ったら伊地知がハッとしてアクセルをゆっくり踏み、また車は進み始めた。

「誰もみんな変わるならさ、僕も変われんのかな」

伊地知には聞こえないように、ぽつりとこぼした。
僕はたったひとりになってみたくて、たったひとりを大切にしてみることにした。
別にナマエちゃんじゃなくて良かったんじゃないかとか、たまたまこのタイミングだったからじゃないかとか言われたら、僕は否定する言葉を持たない。
ただでも本当に、ナマエちゃんの泣き顔を一番に見られるような、そんな立ち位置にいられたらいいと、そう思ったんだ。

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