09 ワンアップ
家入さんの診察を終えた私は、悟くんと二人きりで待合室に残された。
悟くんは青い目を剥き出しにして私のことをじっと観察するように眺める。
「ナマエちゃん、これ、見えるよね」
悟くんが人差し指を一本立てて、その先を眺めているとどこからともなく空気が動くのを感じ、青い光のようなものがくるくると集まってきた。
「これって…その青い光?」
「そ。やっぱり見えてるね」
悟くんが手をぱっと開くと、集まっていたはずの光はたちまちどこかへ消えてしまった。
まるで魔法みたいだ、とのんきに考えたが、路地裏からの経緯を顧みるにこれが魔法ではないことは明らかだった。
「今のは僕の呪力。こういうのはごく限られた人間にしか視認できない」
「その…つまり?」
「ナマエちゃん、呪いが見える体質になっちゃったってこと」
え、今なんて?呪いが見える?
私は「へぇ」と他人事のように返事をすることしか出来なくて、私はもう下ろされてしまった悟くんの指に視線をやる。
「見えるようになったってことは私も呪術師?になるの?」
「いーや、ナマエちゃんは戦えるほどの呪力はなさそうだからそういうのは無理かな」
なるほど、見えれば良いってもんでもないのか。自分の中で飲み下せてきたのか、はたまた感覚がマヒしてきたのか、恐らく後者だろうけど、説明されることに少しずつ納得するようになってきてしまった。
「見えるようになると、今までとはだいぶ勝手が変わると思うよ」
「え、呪いって街中にもたくさんいるの?」
「そうだね。場所によってはうじゃうじゃと」
昔、霊感体質の人の話をテレビで見たことがある。その人は他人には見えないものが見えることのストレスがどうとか、おぞましい見た目の霊に出くわす恐怖がどうとか言っていた気がする。
あの時はなんにも考えてなかったけど、いざ私もそうなるのか、と思ったらぞっとする。
「ナマエちゃんは見えるようになったのに加えて、その引き寄せ体質だ。不便が出るだろうからそれがちょっと気がかりでね」
「怖い目に遭うってこと…?」
「や、今のところそこまではなさそうだけど…まぁ、ヤバそうだったら連絡して。トんで行くし」
悟くんの口調は丁寧で、車で連れてこられた時にも思ったことだけれど、まるで先生の授業のようだった。
説明というものは回数を重ねるごとに上手くなっていくとプレゼンの講習の時に聞いたことがあるが、悟くんもこうやって一般人に説明したりして上手になったりしたんだろうか。
「…悟くんって優しいよね」
私がそう言うと、悟くんは少しきょとんとしたあとで声を上げて笑った。
「あはは!優しいなんて初めて言われたよ」
うそだぁ。悟くんは、忘れ物の連絡をくれた時からずっと優しかった。そりゃちょっと強引なところもあったけど、なんだかんだと心配してくれたり親切にしてくれる。
ただの友達未満の私にさえこんなふうなんだから、きっと他のひとにもそうに決まっている。
そのあと、もう遅いからと今晩は高専の一室を貸してもらって眠ることになった。
学生さんの寮があって、その棟には呪術師のひとも寝泊りできるようになっているらしい。建物は古い木造で、廊下にはいくつもおんなじドアが並んでいる。
備え付けのベッドは少し硬くて、でも眠れないのはそのせいじゃないだろうと思う。
「深夜3時半…」
部屋の時計を見ると、深夜3時を30分過ぎたところだった。私は起き上がり、掃き出し窓をカラカラと開ける。山の中だからか、マンションよりは随分涼しく感じた。
流石に勝手に出歩くわけにはいかないので、窓の前に座って外を眺める。生い茂る緑の匂いが随分と濃い。
「眠れないの?」
「…悟くん?」
右隣の部屋から顔を出したのは悟くんだった。さっきとは違うTシャツとスウェット姿で、夜なのにサングラスをしている。
「うん…混乱してるのかも」
「だろうねぇ」
悟くんはそう言って、安っぽいサンダルに足を滑り込ませると大きい歩幅で私の借りた部屋に近づく。「はい、詰めて」と言われて思わず左に詰めると、すぐ隣に悟くんが座った。
「隣、悟くんの部屋なの?」
「うーん、違うけどまぁそんなもんかな」
どっちなんだ、それは。
「少しでも寝なよ。明日は家に帰れるから」
「うん…」
「ナマエちゃんが眠るまでそばにいる」
「悟くんは寝ないの?」
そう言ったら、悟くんは「僕最強だから」と返してきた。最強って言葉の、強いくせにちょっと子供じみた雰囲気がほろっと何かをほぐしていく。
「はは、なにそれ。子供みたい」
「ホントだよ?」
その冗談を「はいはい」と流すと、悟くんは不服そうに唇を尖らせた。
悟くんと話しているうちに、なんとなく瞼が重くなってきた。不思議だ。さっきまで全然眠たくならなかったのに。
悟くんの腕が私の二の腕を引いて、ぽすんと寄りかかる姿勢になる。ふんわり香るシャンプーの匂いが心地いい。
「おやすみ、ナマエちゃん」
ぼんやり眠気が襲ってきた。おやすみ、と返事が出来たかどうかは、正直記憶が曖昧だ。
翌朝起きると悟くんはいなくて、私はベッドの上にお行儀よく眠っていた。多分悟くんが運んでくれたんだと思う。
それから伊地知さんの運転で送り届けられることになり、黒塗りのセダンに乗る。私の身には超常現象が起きたっていうのに、窓の外を流れる景色はいつもと同じに見える。
「見える生活は慣れないとは思いますが、困ったことがあったら言ってくださいね」
「すみません、ありがとうございます」
伊地知さんは私が緊張しない程度に話を振ってくれて、勝手に寡黙なイメージを持っていたからちょっと驚いた。
悟くんに決められたルールは三つ。一つ、呪いが見えても目を合わせないこと。二つ、夜の外出は控えること。三つ、心霊スポットやお墓などには近寄らないこと。
経過を観察していた悟くんによると、命に関わるような強い呪いに憑かれる様子はないから、通常の生活を送りながら弱っちいのに憑かれてしまったら悟くんが対応してくれるという話にまとまった。
「…あの、悟く…五条さんって、優しいんですね」
私がそう言うと、伊地知さんは「えっ」と声を上げた。あれ、私そんなに変なこと言ったかな。
伊地知さんは「まぁ」とか「その…」とか何か言葉を選びあぐね、結局曖昧に笑うに留まった。
マンションの前で降ろしてもらって、4階までエレベーターで昇る。
それから鍵を開けて部屋に入ると、別に特に変わったことはなかった。見えるようになったんだからあの椿も夜中じゃなくても見えるのかなと思ったけど、そういうわけではないらしい。
ぽすん、とリビングのクッションに腰を落とす。自分の部屋の匂いに安心した。
リモコンに手を伸ばしてテレビをつけると、お昼前の情報バラエティがやっている。そうか、もうそんな時間か。
『あなたもこれで引き寄せ体質になれる!?日帰りで行けるパワースポット特集です!』
バチン。アナウンサーのタイトルコールに速攻で電源を落とす。今は引き寄せ体質のひの字も視界にも入れたくない。
「買い物は…行かなきゃダメだよなぁ…」
土日にある程度の作り置きをする生活を送っているから、休日の食料調達は必須だ。怠ると翌週の自分を苦しめることになる。
私は30分程度その場で怠惰を極め「よぉし」と気合を入れて立ち上がった。
スーパーは駅の方向にある。前住んでいたアパートの最寄りとは違う系列店だけど、野菜もお魚も新鮮で結構いい感じ。
じわじわセミの鳴く中を歩いてスーパーに辿り着くと、これでもかというほどの冷房が聞いていて、鞄の中に入れてきていた薄手のカーディガンを羽織った。
野菜のコーナーから始まり、お魚、お肉、乳製品、お惣菜。カートをコロコロ押しながら頭の中の献立と相談して食材をカゴに入れていく。一人分だけ作るって結構難しいと元カレと別れて初めて知った。
「うわ、結構な量」
レジを済ませて袋詰めしているときに醤油を買ったことを後悔した。味噌も買わなきゃいけなかったのに、醤油まで買ったせいで買い物袋はかなり重そう。いや、だって安かったんだもん。
手のひらに食い込んでくるビニールの感覚を誤魔化していたら、不意にずんと肩が重くなった。
「え」
黒いもやもやが視界の端に見切れている。毛玉みたいな見た目でしっぽなのかヒモなのかよくわからないものが三本伸びていた。
ああ、これが呪いかぁ。変な納得感を得ながら溜息をついた。肩が重い原因というのは、本当にこういうもののせいらしい。
立ち止まっていても仕方ないので、私はとぼとぼスーパーを出た。ムッと暑さが襲ってきて、反射的に顔を歪める。
元来た道を歩いていたら、駅前で暑苦しい黒い着物の後姿を見かけた。あ、袈裟着てるからお坊さんか…。でもそれにしては髪長いな。
そんなことを思っていると、その後姿がふっと振り返った。
「…こんにちは」
「こ、こんにちは…」
振り返った袈裟姿の男のひとはあの日宗教団体で出逢ったゲトウさんだった。誰とも知らずに挨拶しているというよりは私のことを覚えているふうで、なんだかヒヤッとした。
「また憑かれてますね」
「や、あの、ついさっきからなんで…」
お構いなく、と続けると、ゲトウさんは少し驚いた顔をして、それからクックックと声を殺すように笑った。
「見えるようになったようですね」
「えっ、あっ、ハイ…」
こういうのって言わないほうが良いんだろうかと後から思ったけれど、咄嗟のことに普通に肯定してしまった。
ゲトウさんがすっと手をかざすと、私の肩に憑いていたもやもやは見る間にかたちを失い、きゅるきゅると彼の手のひらの上で泥団子みたいな黒い球に変わった。
その光景を見て、私はハッと板張りの部屋で言われた言葉を思い出した。
『この世には、人の感情の澱のようなものが存在します。それらは時として人間に害をなす恐ろしい存在になる。我々はそれを呪いと呼び、私にはそれを取り除く能力があります』
ゲトウさんはあの日、私に向かってそう言った。あの時は荒唐無稽な話だと思ったが、実はそういうことでもなかったらしい。
「あの…ゲトウさんも、その、呪術師、なんですか?」
私がそう尋ねると、ゲトウさんは黒い球体をひと飲みでごくんと飲み込んだ。それから薄く笑いを浮かべ「そうですね」と静かな声で話し始める。
「私は呪術を使いますが、高専の人間とは目指すものが違います。呪術師と非術師でカテゴライズするなら呪術師なのですけれど、違う物差しで測れば呪術師とは言えないという輩もいるでしょうね」
え、あれ、つまりどういうこと?
独特の回りくどい言い回しに首を傾げると、ゲトウさんは「こちらの話です」と言った。所属する組織が違うから別物とか、そういう話なんだろうか。
「あなたは、やはり面白い体質の持ち主のようですね」
「私が、ですか?」
「ええ。取り除いたそばから呪いの寄る気配がする。そう強力なものではないようですが、随分な引き寄せ体質だ」
ゲトウさんは悟くんと似たようなことを言った。そんなものを引き寄せても微塵も嬉しくない。
そういえば、悟くんゲトウさんの宗教団体に行ったって話をしたときすごく怖い顔してた。もう行かないでって言われて頷いたけど、あれってゲトウさんと会うなってことも含まれてたんだろうか。
「悟が気に掛けるだけあるな」
私が考え込んでいると、ゲトウさんがぽつりと何か言った。小さい声だったし私が考え込んでいたせいで内容まではわからなかった。
「では、私はこれで」
「あ、はい、どうも…」
ゲトウさんは顔にぺたりと笑顔を貼り付け、ロータリーのほうへ歩いて行った。高級そうな車がそこにいて、ゲトウさんは慣れた様子で後部座席に乗り込む。私はなんとなく車が走り去るのを見送ってから、ジワジワと鳴くセミの声を認識した。
こんなに暑いのに、ゲトウさんと話している間は暑さをすべて忘れてしまうほど、私は緊張していたらしかった。
「…帰ろ」
こんなに暑い中長々と話していたら野菜もお魚も傷んじゃうな。急にそんな現実的な問題が過ぎり、私はマンションに向けて歩き出した。
昨晩からたった12時間でジェットコースターのように非日常と日常を行き来して、私はどこか足場のぐらついた、ふわふわした心もとない感覚のまま現実に放り出されたのだった。
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