季節の変わり目というのは風邪を引きやすい。特に春から梅雨になる時期なんかはそのもっともな例で、暑いと思って衣替えをすると雨になって突然体が冷えるなんてことはよくあることだ。
免疫力を高めておけばそう滅多に引くものでもないが、小さい子供などはそもそも風邪を引きやすいから季節の変わり目などは注意が必要である。と、わかっていても引くのが風邪だ。

「あちゃあ、お熱出てるね」

ナマエは布団に横たえた菜々子の体温を測って言った。そこまでの高熱というわけではないが、38度と充分熱の出ている領域である。美々子は移ってしまわないように寝室には入ってこないよう言いつけてあった。

「へい、き…だもん…」
「平気じゃなくていいんだよ。みーんな風邪くらい引くんだから悪いことじゃないし」
「でも…」

いつもならふいっと強気に逸らされてしまう視線も、今日は体調不良でしょんぼりと落とされている。これまでのことはわからないけれど、少なくともあんな環境で育った彼女たちが今まで風邪をひいた時にまともな看病をしてもらえたとは思えない。

「菜々子ちゃん、食べたいものはない?」
「…わかんない」
「そっかぁ」

自分の子供の時はどうだっただろう。参考にしようにも、あまり良い記憶がなくてあてにならなかった。考えても仕方がないか、とナマエは菜々子に「夏油呼んでくるね」と声をかけてから居間に向かう。

「ナマエちゃん!菜々子は!?」
「美々子ちゃん、大丈夫。お風邪だからしっかり休んで栄養とれば治るよ」
「ほんと?」

飛びついてきた美々子に「本当だよ」と応答し、視線だけで夏油を探す。夏油は少し落ち着きなくうろうろと台所のあたりを歩いていて、ナマエが呼びかけると慌てて駆け寄ってきた。

「食べやすくて栄養あるものをって思ったんだけど、夏油って風邪の時なに食べてた?」
「私かい?」

どうしてそんなことを聞くんだと言わんばかりで、それはきっと夏油の中に世間一般の「風邪の時に食べるもの」の共通認識が形成されているからだと思った。しかしそれはあくまで風邪の時にまともな看病を受けた経験のある人間の話であり、経験のない人間からしてみるといまいちピンとこない。ナマエは頬をぽりぽりと掻いた。

「えっと…ごめん、私そういうのあんまりわからなくて…」
「ナマエ…いや、何でもない。そうだな…」

言いづらそうに口籠るナマエに追及することをやめ、夏油はいくつか思案する。風邪の時は柔らかくて栄養価の高いものがいい。あまり量が食べられないから、少しの量でカロリーが充分取れることが望ましい。それから刺激物などでなければ、病人の好きなものを用意してやるといい。夏油の説明にナマエは「なるほど」と相槌を打つ。

「たとえばプリンとかゼリーとか…お粥なら昨日も食べられたみたいだし、まだ柔らかいものの方がいいんじゃないかな」
「了解。あ、アイスとかもいいかな?」
「ああ、体を冷やしすぎない量ならいいと思うよ」

ナマエは早速買いに行かなければとエプロンを外し出かける準備を始めた。そういえば、高専にいたときに珍しく五条が風邪をひいて、夏油がプリンを買って帰ってきたことがあったなと思い出す。

「じゃあちょっと私買い物に行ってくるね。夏油、菜々子ちゃんと美々子ちゃんお願い」

ナマエは一度屈んで不安げにしている美々子の頭を撫でて言った。近所のスーパーとそれからドラッグストアに行かなければならない。指名手配の身で彼女たちを病院に連れていくことは出来ないから、これが今できる精一杯のことだった。


アパートを出て行ったナマエを見送り、夏油は美々子にしばらく一人で本を読んでいることを言いつけて菜々子の眠る寝室に足を踏み入れる。いつもは畳の上いっぱいに敷かれている布団も今日は菜々子の分しか広げられておらず、うら寂しいように感じられた。

「菜々子、入るよ」
「げと…さま…」

けほけほと咳き込む声が聞こえた。最後に自分がこんなふうに風邪を引いたのはいつだっただろう。体を鍛えていることもあって近年は健康優良児だった夏油は風邪の類とは縁のない生活を送っていた。高専を離反する頃は体調を崩していたが、あれは根本的な原因が違う。

「ごめんね、病院連れてってやれなくて…」
「だい、じょ…ぶ…」
「無理して喋らなくていいよ」

本来であれば、町医者にでも連れて行ってやるべきなんだろう。だが彼女たちに保険証の類はない。金の問題ならまだしも、あからさまに訳ありの、しかも親子とは到底思えない十代の子供がもっと小さい子供を連れてきたとなれば最悪犯罪を疑われて通報されかねない。
夏油は菜々子を布団の上からぽんぽんとあやすように叩き、大丈夫だよ、と声をかけた。

「ナマエが薬とプリン買いに行ってくれたから、プリン食べたら薬飲もうね」
「プリン?」
「そ。眠ってな。そうすればすぐだから」

菜々子が小さく頷く。二人がどんな劣悪な環境に晒されていたのかを自らの目で見ている夏油にとって、彼女たちが今まで風邪なんぞを引いた時に苦しい思いをしていたかは想像に難くなかった。だが救い出した自分たちの元でも彼女たちを病院に連れて行ってやることさえ出来ない。これじゃあの村にいた時と同じじゃないか。

「げと、さま」
「…大丈夫、大丈夫だから…」

そうだ、今ここで自分が弱気になってどうする。二人を村から連れ出したのは間違いなく正しいことのはずだ。呪いが見えるというだけで迫害され、虐げられることが許されるはずがない。
夏油は祈るように菜々子の小さな手を握った。菜々子はか弱い力でそれをキュッと握り返した。それからすぐに力が抜け、小さな寝息が聞こえ始める。

「…おやすみ」

自分が幼い頃は母親が看病してくれた。りんごを剥いてくれて、プリンを食べて、桃缶を出してくれる時もあった。中学の頃は流石にひとりで眠っていたけれど、彼女たちの年齢の頃には眠りにつくまでこうして母親が手を握ってくれていた。

「…ナマエは…」

風邪の時にどんなものを食べていたのか、そう尋ねてきた時、ナマエは本当にわからないというような様子だった。あの時は聞くのをやめたけれど、もしかするとナマエは看病された経験がないのではないか。何の確証もないけれど、夏油には困ったようなナマエの頼りなさがそれを証明しているように感じた。


夏油ならば任せていて問題はないとわかっているが、一刻も早く菜々子に薬を飲ませてやりたい。最低限の買い物だけを手早く済ませたナマエは一時間もしないうちにアパートまで戻ってきた。

「ただいまぁ」
「ナマエちゃんおかえりなさい!」
「ただいま、美々子ちゃん」

とたとたと駆け寄ってきた美々子に出迎えられる。「菜々子ちゃんはどうしてる?」と尋ねると、「夏油さまと一緒だよ」と返ってきた。
荷物を冷蔵庫やら戸棚やらにしまうと、菜々子と夏油がいる寝室に向かった。

「夏油、ただいま」

そう声をかけて襖を開くと、布団の上で寝息を立てている菜々子のそばでその小さな手を握っている夏油があぐらをかいて座っていた。
疲れてしまっていたのもあるだろうけれど、やはり夏油がそばにいるのに安心できたんだろうとも思う。

「菜々子ちゃんどう?」
「ナマエが出かけてすぐに眠ったよ。魘されてもないみたいだ」
「そっか。じゃあ、起きたら水分補給とお薬だね」

夏油はこの後、仲介人と会う約束をしている。本格的な同志集めが始まった今、なかなかにあちこちを飛び回っていた。ナマエは夏油と交代をしようとすぐそばに座り、すると夏油がじっとナマエのことを見下ろしていることに気が付いた。

「どうかした?」
「…いや」

夏油は濁すようにそう言い淀み、珍しく視線をうろつかせる。割と言いたいことは口に出すタイプなのにどうしたのかと戸のまま眺めていれば「私はさ」と小さく切り出した。

「私は、ナマエのこと、何にも知らないんだなと思って」
「え?」
「いや、変な意味じゃないんだ。ただ何て言うんだろう…結構たくさん話をしていたつもりでいたけど、案外君の話を聞いたことがないって気づいたっていうか…」

まぁ、そんな感じ。と、歯切れ悪く言って所在なさげに指先でこめかみをぽりぽりと掻く。何がどうして急にそんなことになったのか、経緯の読めない話の飛躍にナマエはぽかんとするばかりだった。

「どうしたの、急に」
「…いや、ナマエがいつも私のことを理解してくれるから、私もナマエをわかったつもりになってたんだ。だけどそれはつもりになってただけだった」
「夏油…」
「これからナマエのことも教えて。私は君のことをもっと知りたい」

夏油が少し情けなく笑い、それから菜々子の胸元あたりをぽんぽんと叩いて立ち上がる。そんなことを言われるだなんて思ってもみなかった。虚を突かれたナマエはろくに返事をすることも出来ず、夏油はそのままするりと隣を通り抜けて居間に向かってしまった。
自分のことを教えるというのは、一体どんなことを話せばいいんだろう。ぐるぐると思考を巡らせながら、ナマエは未だ寝息を立てる菜々子のそばで呆けたまましばらく動けなかった。


例えば、どこに住んでいたか。例えば、どんな両親だったか。例えば、どんな小学生だったか。
自分のことを教えるというのは、きっと今までの自分の人生について話すことだろうと思う。自分の話をするのは苦手だった。自分の置かれた環境が特殊だったと自覚があったからかもしれない。

「ん…んぅ…」
「あ、起きた?」
「げ、と…さま…」
「ごめんね、夏油は仕事で出ちゃってるの」

寝息を立てていた菜々子が身じろぎをして夏油を呼んだ。あいにく、夏油は30分ほど前に出かけてしまって、呼んでこようにもアパートにはいなかった。
うっすらと菜々子が目を開ける。ぼんやりとした眼がちろちろと周囲の状況を確認しているようだ。

「菜々子ちゃん、プリン買ってきたの。食べられるかな?」
「プリン?」
「そ。プリン」

持ってくるね、と断って、台所に向かう。ついでに新しい水と薬と持って寝室に戻ろうとすれば、居間では心配し疲れたのか美々子も眠ってしまっていた。
菜々子の布団のそばに腰を下ろし、なんとか起き上がろうとする菜々子を支えてそれを手伝う。背中はじっとりと汗をかいていた。

「プリン食べたらお薬飲もうね。お薬飲んだらすぐ良くなるから」

そんな子供だましを口にしながら、ナマエはプリンの蓋を開けて小さなスプーンとともに菜々子に渡した。いつもなら一連のナマエの行為を鬱陶しそうにする菜々子だが、熱でだいぶ弱っているのかその気配はなかった。

「食べられそう?」
「…おいしい…」
「よかった。食べられるだけでいいからね」

ぽつりと言う菜々子に応える。体調を崩し始めてからずっとしかめっ面だったのが少しだけ緩む。その表情にナマエは心を落ち着かせた。
食べやすく甘いこともあってプリンをぺろりと平らげた菜々子に市販の風邪薬を飲ませ、コップや空の容器、スプーンなどを倒してしまわないように少し遠くにずらす。

「もうちょっと寝てよっか。夏油も夜には帰ってくるから、心配しないで」

そう言い含めながらナマエは横たわる菜々子に布団をかける。身体を拭いてパジャマをかえてあげたいけれど、もう少し薬が効き始めてからのほうがいいかもしれない。
とりあえず遠くに避けたコップやゴミやらを片付けてしまうために立ち上がろうとすると、Tシャツの裾の部分をくいっと引かれる。何かに引っかかったかと思って見ると、菜々子の小さい手がナマエに伸ばされていた。

「…行かないで…」
「大丈夫、ちゃあんと菜々子ちゃんが眠るまでそばにいるよ」

ナマエは布団のそばに戻り、その小さな手を解くようにして握る。柔らかい手だ。自分はこの手を守ってあげなくてはいけない。

「おやすみ、菜々子ちゃん」

家族もろくにわからない自分が家族を語るなんて滑稽だ。心の中でもう一人の自分が笑う。それでも良かった。ここで四人で、少しずつでも、家族になるんだ。


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