ナマエの両親は既に鬼籍に入っている。
彼女が中学二年の時に事故に遭ったのだ。もっとも、この事故というのは交通事故の類ではなく、呪霊によるものであった。
このときの担当術師の救助により一命を取り留めたナマエは、自分にしか見えていなかったこの世ならざるものを「呪い」というのだと知った。

「呪術高専に来ると良い。君のような子供が呪術について勉強できる場所だ」

そう紹介され、普通科の高校には行かずに呪術高専に入学した。自分を救ってくれた術師の言う通り、高専には同級生が三人いた。なんだか凄い家の跡取りだという五条悟、人を治癒する稀有な能力を持つ家入硝子、祓うべき呪霊を取り込んで自分の手駒にできる夏油傑。
入学当初はあまり意識していなかったが、とんでもない世代に鉢合わせてしまったものだと多少悩んだ時期もあった。

「ナマエ、どうしたの?わからないとこでもあった?」
「えっ、とぉ…ここが、ちょっと…」

申し訳程度に設けられている座学の時間、覗き込むようにして夏油が声をかけてきた。座学でわからない点があったのも事実だが、それよりも同期に比べて凡庸な自分のことを考えていた。しかしそんなことはもちろん言えずに咄嗟に取り繕う。

「ああ、ここね。初めて聞く言葉多いよね」
「うん。なんか硝子や五条は余裕っぽいからこっちじゃ常識なんだなぁとは思うけど…」
「まぁ私たちみたいに一般家庭の出身は躓いても仕方ないさ」

そう励ます夏油が、持ち前の生真面目さと地頭の良さで全く躓いていやしないことをナマエはよく知っている。
四人の一年生の中で同性で話が合うのが家入、意外とノリが合うのが五条、そしてそのどちらでもなく少し離れた場所にいるのが夏油だった。

「ここはさ、例えば他の例と照らし合わせるといいよ。ほら、このケースの結界術はこうやって作用するだろう?」

シャーペン借りるね、と断り、夏油はさっぱりわけのわからなくなっていたナマエのノートにすらすらとヒントを書き足していく。
本当に、非術師の家系だということが嘘のように思えるくらい夏油は座学も実技も優秀だった。四級から少しも進歩をしないナマエと違って、夏油はすぐに進級していった。

「…で、ここがこうだから、こうやって考えるとわかりやすいよ」

入学して夏油だけが非術師の家系出身だと知った時、わからないもの同士で肩を並べられると思って少し期待していたのだ。でも実際はそんなことはなかった。同期の中で自分だけがどうしようもなく凡庸であった。

「ナマエ?」
「あっ、ご、ごめん…」

せっかく夏油が結界術の解説をしてくれたのに上の空だった。そんなナマエに夏油は嫌な顔ひとつせずに「疲れてる?」と気遣うような素振りを見せる。
この男が概ね誰にでも優しいことは心得ているけれど、もしこの優しさが自分だけのものになってしまえばいい、と、ナマエはどうしようもないことを考えた。


それは嵐のような出来事だった。
高専三年生になった秋のこと、同期の一人が任務の途中で行方をくらませた。音信不通になってしまった彼を探しに派遣された補助監督が任務のあった山村に向かうと、そこで村人が一人残らず殺されていた。その人間業とは思えぬ殺害方法から呪霊の仕業と思われたが、それは残穢を辿れば夏油傑の呪霊操術によるものだろうと判断された。

「え、っと…夏油が高専裏切ったってこと、ですか…?」

担任である夜蛾にそれを聞かされたとき、何とか絞り出した声は震え、飛び出た言葉はチープで嘘みたいだった。
それは例えるならセルロイドの人形めいた感触の、つるりと表面を滑っていってしまうような話だった。

「ああ…任務地の住民を112人呪殺して逃走している。悟と硝子の後にナマエにも事情聴取がある。もしも知っていることがあればすべて話してくれ」
「わかり…ました…」

ナマエが何も知り得ないことを恐らく夜蛾も気づいていた。それどころか、高専の誰もが何も知らないことを。
ナマエはその後事情聴取を受け、このごろ体調を崩している様子だったこと、自分は何も気づけなかったことを正直に話した。上層部から解放されたナマエを待っていたのは家入だった。
ナマエがへらりと笑ってみせると、家入はぐっと顔をしかめ、それからナマエを抱きしめた。

「無理すんな」
「…ありがと、硝子」

ナマエは硝子を抱きしめ返し、ここにはいない夏油のことをぼんやりと考えていた。


それから高専は夏油傑を重大な呪術規定違反とみなし、処刑対象の特級呪詛師に分類した。表立って捜索の部隊が結成されることはなかったが、上層部の一部は呪霊操術が呪詛師の側に回ったことを重く受け止め、個人的にその行方を追うものもあった。
ナマエは、明りもつけない夕暮れの自室でぼうっとピアッサーと向き合っていた。針の先は鋭く、わずかな光を受けてきらりと光る。

「…夏油、中学校のときに開けたって言ってたっけ」

自分の耳たぶをふにふにと触る。お揃いにしてみたくて、でも自分で針刺すのなんて怖いじゃん、なんて言って避けていた。こんなことくらいで夏油に近づけるとは思えないけれども、ナマエにとっては今できる精一杯だった。
ピアッサーを手に取り鏡に向かう。アイライナーで位置をマークしたそこに針を合わせる。

「イッ…!」

がちゃん。耳元で大きな音がして、一瞬痛みが走った。そろりとピアッサーの本体をどけると、そこに丸くファーストピアスがのっかっていた。

「……痛…」

じんじんと痺れるのを感じながら、ナマエは反対側の耳たぶにピアッサーをあてた。がちゃん。必要以上にピアッサーの音が部屋の中に大きく響いた。


翌日、女子寮から食堂に向かうまでの廊下で家入に遭遇した。「おはよー」と、ナマエの普段と変わらない様子に少し胸を撫で下ろした家入は、耳元に小さく光るピアスを見止めて眉間にしわを寄せる。

「ナマエ…あんたそれ…」
「えへへ、どうかな、似合う?」

ナマエは家入に向かって耳を見せるようにして言った。彼女が言いたいことなど言葉にされなくてもわかる。こんなことをしても何にも変わらなかった。

「安定したらね、この黄色い石のピアス付けようと思って」

ナマエはポケットから黄色い石のついたピアスを取り出し、手のひらの上に転がす。シトリンの使われているそのピアスはシンプルで、いつか彼にプレゼント出来たらいいと買っていたものだった。

「幸福とか、希望とか、繁栄とか、そういう意味があるんだって。この石」

何とはなしに、黄色という色が夏油の色だと思っていた。太陽の色。あたたかく、平等に地上を照らす色。それと同時に黒と組み合わさると警告色にもなる色。
家入はいくつか言いたいことを飲み込むようにぐっと黙り、そこから小さく口を開いた。

「あんた趣味悪いよね。男もピアスも」

その軽口が家入からの精一杯の慰めであるとナマエはよく心得ていた。だからその言葉に対し「硝子辛口だなぁ」とへらへら笑ってみせた。
実のところ、夏油が離反したと聞いてナマエは少しだけ、ほんの少しだけ安心したのだ。
あの勧善懲悪の化身のような男にも人間らしい弱さがあった。
確かに五条と一緒になって悪さをする年相応の幼さというものはあったが、根本的な面において夏油は眩しいほどの理想主義者であった。
夏油が神仏の類ではないなら、自分のこの感情は信仰ではなく愛である。そう確信を持つことができた。


菜々子と美々子の気晴らしになるような本でも購入しようと、ナマエは都心の書店に足を運んだ。もちろん、二人と夏油はアパートで留守番である。本当は選書なんて夏油の方が適任なのだが、人の多いところは避けるし、それ以前に指名手配犯なのだからこんなところまで足を運ばせるわけにはいかない。

「本、買えた、よ…今から、帰る、ねっと…」

ナマエは心配する夏油の言いつけ通りに本の購入の報告と帰宅の予告をする。パタンと携帯を閉じてポケットにしまい、本を抱え直して駅を目指した。その時だった。

「ナマエ…?」

不意に名前を呼ばれ、思わず立ち止まった。振り返ると、数メートル後ろで白髪の長身の男が立っている。真っ黒なサングラスで視線の行方はわからないが、おそらくナマエのことを見ていた。

「ご、じょう…」
「オマエ!今までどこにいたんだよ!」

白髪の長身の男、五条は大股で距離を詰め、ナマエの手首を掴もうとした。ナマエはそれを見てすんでのところでその手を避ける。表情だけで五条が驚いていることは充分に分かった。

「ンだよ…さっさと帰るぞ」
「帰らないよ。私はもう高専辞めたから」
「オマエ…」
「五条もわかってるでしょう、私が今どこにいるのか」

ヒヤリと言葉が冷えたナイフになり、二人の間の見えない何かを切り裂いた。自分の情報が上層部にどの程度正確に認識されているかはわからないが、同期の二人なら容易に予想がつくはずだ。

「傑についてくってことはオマエも高専から追われるってことだぞ!」
「うん、わかってるよ」
「だったらどうして…!」

そんなのは簡単なことだった。支えたいから、見届けたいから、好きだから。それだけだ。他のどんなものと天秤にかけてもこの結論は変わらなかった。
本当は、五条だって種類は違えどナマエと同じくらいの強い感情を夏油に抱いていることを知っている。そして彼は絶対に同じ道を選択できないことも。

「五条はどうしたって呪術界を離れられないでしょ。反転持ってる硝子もさ」

五条だって新宿での別れ以来、夏油について行ってしまおうと考えたことがなあったわけではないだろうとナマエは思っていた。五条にとっても夏油にとっても、お互いが失い難い親友だった。
だけどこの男はそれを絶対に許されない。世界を変えられるほどの力を持つこの男がそうすることは、文字通り世界が終わることを意味するからだ。

「でも私は二級で大して強くもないし、術式も持ってないし、背負うものがない」

初めて自分に呪いが見えることに、自分がその中で凡庸なことに感謝した。
呪いが見えるから、夏油の辛さを共有することができる。だけど凡庸だから、背負うものもしがらみもない。何の心配もすることなく、夏油のそばにいられる。

「私一人くらい、夏油についていってもいいじゃない」

いつまでも四人で一緒にいられると思っていた。そう信じて疑わなかった。それでも歯車は少しずつずれ始め、夏油は行き先を変えた。
どこかで道を間違えたわけではない。初めからそれぞれの道は近くを通っていただけで、同一の道ではなかったのだ。

「五条、硝子たちのことよろしくね」

ナマエは五条にそう言い、その隣を通り過ぎた。腕を引くことも命を奪うことも五条には容易いことだったが、そのどちらもしなかった。
雑踏の中をナマエは歩く。車が通る、人が騒めく。行く先はただ一つ。どうしようもなく不器用に生きる、あの男の隣である。


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