目の前でたくさんの人間が死んだ。
補助監督、先輩、後輩、保護対象、その付き人、知らない人も何人も。それが夏油傑が呪術高専で見てきた世界であり、呪術界の現実であった。理想は理想でしかなかった。

「君にならできるだろ、悟」

その言葉で親友を突き放した。嫉妬だったのかもしれない。自分には到底できないことをいとも簡単に出来てしまう彼への、自分の理想の世界さえ創造してしまえる彼への。

「殺したいなら殺せ。それには意味がある」

いつかきっと、自分はこの男に殺されるだろうと予感した。それは遅かれ早かれ、きっと約束された未来だ。生き方は決めた。あとは自分にできることをするしかない。もうそうすることでしか、自分の形を保っていられない。

「悟、これでさよならだ」

意味と、意義と、大義。自分を形作るそれらの概念。自分が信じるべき理想、目指すべき場所。それはここではなかった。
彼の隣に、自分の帰ることのできる場所はもうなくなってしまった。


深夜三時。古い時計の大袈裟な秒針がカチカチと1秒間隔で音を立てる。横たわる体が重く、今にも地面と一体化してしまいそうだと思った。

「夏油、夏油、大丈夫?」

はぁはぁと息が乱れていた。頭上かナマエの声がする。重い瞼を上げると、豆球にした電気の中でぼんやりとナマエの姿が浮かび上がっていた。そうだ、今日はナマエがクリームシチューを作って、美々子が美味しいと言って食べて、菜々子も美味しいと言いこそしなかったけれど残さずぺろりと平げ、風呂に入って、本を読んでやって、川の字に並べた布団に入って…。

「魘されてたから…ごめん、起こすかどうか迷ったんだけど」
「いや、ありがとう」

ナマエが心配するほど魘されるのは、実の所初めてではなかった。高専を出てからずっとだ。不定期的にあの日の、新宿で五条と別れたあの日のことと二年の星漿体護衛任務のことと、それから後輩の死顔を思い出す。そしてその度どうしようもない泥濘みに飲み込まれ、悪夢で目を覚ます。

「お水持ってこよっか」

美々子と菜々子を挟んだ向こう側を定位置にしているナマエは枕元にまで移動してきていて、彼女にわかってしまうくらいに魘されていたのだと悟った。二人を起こしてしまっていないのが不幸中の幸いだ。
水を取りに立ち上がろうとするナマエの手首を掴み、夏油はそれを制止する。ナマエがきょとんと首を傾げた。

「…ちょっと、付き合ってくれないか」

夏油の言葉にナマエは少しの戸惑いもなく「いいよ」と答え、二人揃って子供達を起こしてしまわないように布団を抜け出す。それから居間に移動してベランダへと出た。薄く曇った空の向こうに三日月が隠れている。

「一本いい?」
「一本でも二本でも」

掃き出し窓のすぐそばのカラーボックスに置いてあるタバコへ手を伸ばし、夏油は慣れた手つきで口に咥えて火をつける。三日月を覆う雲のように吐き出した息が白くなった。

「まだ夜は冷えるね」
「ああ。昼間は陽があれば暖かいけど」

夏油の隣に腰かけたナマエが言った。それを聞き、夏油は一度寝室に戻って毛布を持ち出してきた。それをふたりで分け合うように肩にかける。先ほどまで包まってた余熱があり、毛布の中へと入ればたちまち温かくなる。
夏油はすぐそばのナマエの耳元に視線をやった。今は何も付けられていないが、そこに小さい穴が空いている。

「…ナマエ、そういえばいつピアスなんて開けたんだい」
「ふふ、いいでしょ」
「いいとは思うけど…私のピアス見て痛そう痛そうっていつも言ってたじゃないか」

呪術師なんてものをしていたのだから、怪我は日常茶飯事だった。ナマエだってそれは例外ではなく、同期の家入がいなければ命を落としかねない大怪我だってしたことがある。ピアスを開ける痛みなんてほんの一瞬の些細なものだというのに、ナマエは「開けてみる?」という提案をいつも顔を真っ青にして拒否していたのだ。

「夏に開けるの良くないんだね。いつまでもピアスホールがじくじくして痛かった」
「…夏だと化膿しやすいからね」

その穴は夏に開けた穴らしい。
一昨年の夏にはなかったのだから、去年の夏。きっと自分がいなくなってすぐのことだったんだろうと想像がついた。

「でもやっと安定したから今は可愛いの付けれるよ」
「いつもつけてる黄色い石のやつよく似合ってるよ」
「ほんと?あれ一番最初に買ったやつなの。ピアス開ける前からいつか付けようって買ってたんだ」

いつの間に買っていたのか。高専にいる間ピアスを開けたいなんて話は一度も聞いたことがなかった。ナマエが自分の耳たぶをふにふにと弄る。
風はない。春はもうここに来ているというのに、夜だけはまだ冬の気配を引きずっていた。ふうっと煙をナマエにかかってしまわないように反対側に吐き出す。

「最近ね、ちょっだけ美々子ちゃんが懐いてくれた気がするの」
「確かに。最近食事の時に美味しいって言ってる」
「今日のクリームシチューも完食してくれてよかった」

菜々子と美々子は、保護したときにはあばら骨が浮き出るほど痩せていた。閉鎖された村でどのような扱いを受けていたかは明白で、飽食のこの時代に栄養失調になりかけていた。
夏油がなるべくバランスの良い食事を作ろうと心がけて自炊をしていたことで多少は改善されたが、ナマエが来たことによって育ち盛りの二人の健康状態がより良くなったのは間違いなかった。

「ナマエは子育ての才能があるんじゃないか」

不意に夏油が言った。ナマエはそれ聞いて目を丸くする。そんなことを言われる日が来るとは思ってもみなかった。それに、それを言うなら夏油の方だと思った。兄弟もいない一人っ子なのに元から面倒見がよく、高専でも世間知らずの五条の世話を焼いていた。そういう性分なのかもしれない。

「夏油こそ。良いパパになりそうじゃん。二人もよく懐いてるし」

ナマエは隣の涼し気な顔を見上げて返す。当然だが、一見鋭い双眸を持つ夏油は菜々子にも美々子にも似ていない。けれど不思議と三人でいれば親子に見えてきた。つまるところ、親子関係とは血縁よりもそこに生まれる繋がりが周囲にそう見せているのだ。

「ナマエと一緒なら、ふたりで子育てするのも悪くないね」

夏油がナマエを見下ろした。毛布を分け合えるような至近距離でそんなことを言うものだから、お互いささやかな吐息さえ感じてしまいそうだ。田舎の町の夜更けはあまりにも静かだった。夏油は短くなった煙草を灰皿で揉み消し吸殻を真ん中に放る。

「…そんな言い方、期待するよ」

ナマエが視線を逸らし、元から囁くようなボリュームだった声をもっと絞る。そんな小さな声も今の距離感では充分聞き取ることができた。夏油はナマエの手を握り、その細い指の感触を確かめる。

「期待して」

二カ月前、彼女がここに来たとき、自分のことを好きだと言ってくるのが不思議でならなかった。同期の仲だからいいやつだということはもちろん知っていたし、どちらかというと好ましいと思っていた。
だけど、こんなにもそばにいて心地が良いと知ったのは、ここで一緒に暮らし始めてからのことだった。

「ナマエ、私はーー」

溢れた気持ちがそこで言葉にされるはずだったのに、それらは夏油の喉を通ることができなかった。ナマエを思うのであれば、それこそここで彼女を解放するべきなのではないか。
高専や上層部の私兵の追手が迫って逃げ切れなくなったとき、彼女はどうなる。特級呪詛師の恋人なんてレッテルが貼られてしまっては、間違いなく殺される。
しかも、彼女は決して強い術師でも特殊な術式を持っているわけでもない。高専が活かしておいて有利になる理由が何ひとつない。

「夏油、言わなくていい」
「ナマエ…」
「私は地獄へ落ちる覚悟で来た。けど、夏油に誰かを地獄へ道連れにする覚悟を強要したいわけじゃない」

期待する、と小さな声を漏らしていたときとは声音が全く違っていた。芯を持ち、何者も彼女に触れることのできない強さがあった。
夏油が理想の旗を掲げる先で多くの人間を踏みにじるそれは、彼自身をどこへ連れていくのかまだわからない。果ては遠く、終わりなどないのかとさえ思う。

「…好きだ」

今度はするりと言葉がこぼれた。
もしも終わりがなくて、苦しみ続けるとして、それで何が悪い。そうだ。生き方は決めた。自分に出来ることを精一杯やるだけだ。

「私と地獄に落ちてくれ」
「…うん。私のこと、最後まで離さないでいて」

夏油は堪らずにナマエを抱きしめると腕の中のナマエは同じ香りがした。当たり前だ。もう二カ月同じ家で暮らして同じシャンプーを使っている。夏油は名状しがたい安らぎを感じ、彼女の華奢な肩に頭を預ける。ナマエは夏油の髪をゆっくりと撫で、背中をぽんぽんと優しく叩いた。

「ずっと、夢を見るんだ」
「うん」
「高専の、灰原の死に顔とか、星漿体護衛任務のこととか、悟と最後に会った日の事とか」
「うん」

夏油の言葉にナマエは穏やかな調子で相槌を打った。
夜の隙間に溶けだしそうな掠れた声は二人を包む毛布の中で完結していく。

「高専は、今頃どうなってるだろうな。ほら、七海とか…一年にも非術師の家系の学生がいただろ?」
「伊地知くん?あの子のことは七海がよく面倒見てたみたいだよ」
「そうか…。呪術師の世界なんて、非術師の家系の出身者からすれば知らなかった方が良い世界かもしれないね」

非術師の家系に生まれた人間からすれば、呪術界というものは御伽噺よりも御伽噺だ。古い思想、男尊女卑、レールの敷かれた人生、婚約者、胎だ種だとそんな話もザラだった。こんな言葉が夏油から出てきたのは、彼自身がそう感じていたからだろう。

「恐ろしいことも、痛いこともたくさんあるけど…私は高専に入って良かったな」

ナマエが昔を懐かしむように言った。たかが数ヶ月前のことなのにもはや遥か遠く感じる。高専を飛び出してこんなところまで歩いてきてしまった。

「どうして?」
「…わかってよ」

明言を避けるようなナマエの言いっぷりに、これは確かに自分の方が卑怯だったと思い直す。答えなど聞き返さなくてもわかるはずだ。何せ自分も彼女と同じなのだから。

「私も、ナマエに出会えて、良かった」

そこで夏油の言葉が途切れた。すうすうとささやかに寝息を立てている
かけがえのないひとに出会えた。それはお互いのことでもあったし、夏油にとっては唯一無二の親友のことでもあった。取り戻せない。もう帰れない。それでも過去は経過した時間として蓄積されて、それ自体がなくなることはない。

「おやすみ、夏油」

その日、離反して初めて夏油はまだ弱者を守ることを掲げていた頃の夢を見た。誰かを救おうなんて傲慢で浅はかで、しかしそれはどうしようもなく青く輝いている瑞々しい記憶だった。


back








- ナノ -