ナマエが夏油達と一緒に生活するようになって一か月が経過した。家事などは殆ど問題なくこなせているが、一番大きな問題は中々に手ごわかった。

「菜々子ちゃん、美々子ちゃん、どう、この服。着てみない?」
「いらない」

菜々子と美々子が全くナマエに懐かないのだ。
ナマエはワンピースを手にしたままがっくりと項垂れた。いくら節約して過ごさなければならないとはいえこの子たちは女の子である。お洒落をさせてあげたいと意気込んで子供服を買ったはいいが、この通り暖簾に腕押しの状態だ。

「うーん、こういうの趣味じゃなかった?可愛いと思ったんだけどなぁ…」

ひらりとワンピースを広げる。シンプルで綺麗なラインのもので、ミントグリーンとパステルイエローの色違い。裾にはフリルがついていて、首元の白いリボンもコテコテになり過ぎず可愛さを主張している。
そこまで選り好みされるようなデザインでもないと自負していたが、二人にはお気に召さなかったらしい。

「どういう服が好き?教えて欲しいな」
「やだ。教えたくない」
「うーん…」

菜々子と美々子が口々に言ってふいっと顔を逸らす。ナマエは「うーん」ともう一度首をひねった。

「いきなり来てホゴシャづらしないで」

ある程度覚悟はしていたが、これは手厳しい。あと二人の口が悪い。これは村で覚えた言葉遣いなのか、それとも夏油の影響なのか。後者であれば夏油にも一言情操教育に悪いと言っておくべきだろう。あの男はああ見えて結構口が悪い。

「あれ、菜々子も美々子もどうしたんだい?」

ガラガラガラとベランダの窓が開き、夏油が室内に入ってきた。煙草を吸うときはベランダで吸うようにしているらしい。
二人は夏油を見るなりころりと表情を変え「夏油さま!」と駆け寄っていく。村から連れ出してくれた夏油には相当懐いており、そこにぽっと出で現れたナマエのことはあからさまに警戒してる。

「あれ、ナマエが買ってきてくれた服、着ないのかい?」
「…だってぇ…美々子ぉ」
「うん、菜々子」

状況をある程度理解しているだろう夏油は素知らぬ風でそう言って、二人はくるっと顔を見合わせる。そもそもこの服のデザインがどうのこうのという話ではないことはとっくにわかっていて、これを持ってきたのがナマエだということが二人の中での最大の問題なのだ。

「一度着てごらん?私も二人が可愛い洋服を着たところを見てみたいな」

夏油がそう言えば、二人はむっと少し考える素振りをしてからナマエのもとへ歩み寄った。そしてナマエの手からワンピースを受け取り、パステルイエローを菜々子が、ミントグリーンを美々子が着る。

「夏油さま、どう?」
「どう?」
「うんうん、よく似合うよ。普段はパーカーとかが多いけど、そういう格好も可愛いね」

夏油の言葉に二人はぱぁっと顔を明るくした。相変わらず上手な口だ。子供相手にまるで口説くようなセリフだが、本人には別段そう言った気持ちはもちろんないわけで、ないからこそこの男は厄介なんだ、とナマエは在学中のことを少し思い返した。

「お姫様みたいだ」

ああそうだ、こうやってクサいセリフを言ってみせて女の子によく気を持たれてというのがいつものパターンなのだ。
普通に聞いていれば寒いセリフも、この男が言うとどこか自然に聞こえる。全く他意というものがないからかも知れない。

「菜々子、この服気に入った!」
「美々子も!」

まさに鶴の一声とはこのことだ。夏油が白といえば黒も白というわけである。いや、それは多少誇張しているが、それに近いものは充分にあると思う。
こうして困った時は夏油が何ぞ言えば二人は言うことを聞くのでそこまで悩まされることにはなっていないが、これでは根本的な問題がいつまでも解決しない。

「ごめん、夏油。ありがとうね」
「いや、ゆっくりでいいさ」

一方で、夏油はかなりナマエのいる状況というのに慣れ、顔色が良くなってきているように見えた。
そもそも同じ学生寮で生活していた仲というのもあるが、恐らくナマエが来たことによって四六時中気を張るという状態が解消されたからだろう。

「買い物行ってくるけど、何か必要なものある?」
「シェービングフォームがなくなりそうだから買ってきてもらえるかい?」
「ん。りょーかい」

私のこと利用しなよ。と言った言葉の通り、ナマエは主に買い物などの外に出てひとに会うようなことを夏油に代わって請け負っていた。
こんなところまで流れ流れて来ているが、ナマエ個人としては非術師に特別恨みがあるわけではないので特に負担ということもなかった。


近所のスーパーとドラッグストアで日用品の買い物を済ませる。
どうしたら彼女たちと距離が縮まるものか。なにも夏油ほどの信頼を得ようという話ではないが、最低限夏油を煩わせない程度には信頼を得ておきたい。何よりこれからずっと一緒に生活するのだ。

「あ、そうだ」

ひとつ、ナマエの頭の中に妙案が浮かんだ。
ナマエはもう一度スーパーに戻り、家計とは別の、自分の財布で追加の買い物をすることにした。目指すは製菓コーナーと乳製品コーナーである。


かんかんかん。外階段を鳴らして登る。3月初旬は日中でもまだ充分に空気が冷えている。

「ただいまー」
「おかえり」

がさがさとビニール袋を鳴らしながら帰宅する。玄関の扉を開けると夏油が居間から出てきてそれらをひょいっと持ち去っていった。

「ありがと。今日はとっておきのおやつを用意します」
「とっておき?」
「そ。とっておき」

ナマエはそう言って、洗面所で手洗いうがいをすませると早速台所に立った。水切りカゴから今朝使ったばかりのフライパンを取り出し、コンロの上にセットする。
それからボウルと泡だて器と計量カップを戸棚から取り出した。これらはナマエがこの家に住むことになってから調達したもので、それまでは料理をする際も秤の類をほとんど使っていなかったらしい。
元来大雑把なところのある男だ。高専を出る頃には大分と印象の変わってしまった夏油の、彼らしい一面はナマエのことを安心させた。

「何作るんだい?」
「じゃーん。これでーす」

ホットケーキミックスの粉を2袋取り出し、牛乳と卵を用意する。
先に牛乳と卵をよく混ぜておき、それからホットケーキミックスを入れて20回程度ざっくりと混ぜ合わせる。ここで混ぜすぎると膨らみが悪くなってしまうので、混ぜすぎないのがコツだ。

「へぇ、手際いいね」
「小さい頃よく作ったの。お母さんがホットケーキだけは作ってくれたからさ」

フライパンを火にかけ、中火で温めていく。温まっているのを手の甲を近づけて確認し、それから濡れ布巾の上にのせて少しだけフライパンを冷ました。ここからはコンロの火を弱火に変える。
ナマエはおたまとボウルを持つと、おたまに掬った生地を高い位置から一気にとぷんと流し入れる。

「こうやってね、高い位置から生地落とすとちゃーんと丸くなるんだよ」
「本当だ。クレープみたいに広げるわけじゃないのになんで綺麗な丸になるんだろうって思ってたんだよね」
「夏油、ホットケーキ作ったことないの?」
「うん。作ってもらったことはあるけど作ってるところ見るのは初めてだよ」

弱火で約3分。表面にふつふつと小さな泡が出てきたらひっくり返す合図だ。ナマエはフライ返しを手に、フライパンと生地の隙間へそうっとそれを差し込むと、今度は一気にひょいっと持ち上げてひっくり返す。

「よし、成功!」
「綺麗に焼けてる」
「でしょ。あとは2分くらいこっちの面焼いたら出来上がり」

ホットケーキはムラなく綺麗なきつね色になっていた。夏油はナマエの思わぬ特技に感心する。
そのままナマエは1枚目を仕上げると、早速2枚目に取り掛かった。焼き上がりの甘い匂いが台所に立ち込める。

「夏油、菜々子ちゃんと美々子ちゃんとテーブルの準備しておいて」

ナマエが夏油にそう言うと、夏油もすぐに了承して二人の元へと足を運んだ。中くらいのサイズのホットケーキを8枚焼き、白い平皿に乗せて3人が準備を済ませたちゃぶ台へとそれを持って運ぶ。

「お待たせー。今日のおやつはホットケーキです!」

ナマエが嬉々として皿を持って行けば、菜々子と美々子は甘い匂いにキラキラ目を輝かせた。食べ物で釣るような真似は卑怯だとは思うものの、何事もきっかけは大切だ。
ナマエは皿を運んだあとにもう一度台所に戻って、今度は琥珀色のはちみつが入った容器を持って戻った。

「今日は特別にはちみつかけ放題だよ。菜々子ちゃんも美々子ちゃんもうんとはちみつかけてごらん」

菜々子と美々子は顔を見合わせ、それから二人そろってはちみつの容器をじっと見つめる。
菜々子が先にホットケーキにはちみつをかけ、美々子もあとから同じようにしてホットケーキを琥珀で彩る。
ホットケーキに温められて甘くはちみつが香る。

「じゃあ、食べようか」

夏油のその声を合図に、4人で手を合わせて「いただきます」と言って、ナイフをつかってホットケーキを切り分けていく。ナイフを動かすたびにじゅっじゅっとはちみつの沁み込んでいく音がした。

「…美味しい」

ぽつん、と声を出したのは美々子だった。口の端にはちみつが付いてしまっていて、ナマエはそれを親指でぐっと拭いとる。「美味しい」と、その言葉が聞けて良かった。

「甘いもの食べると幸せな気分になるでしょ?美々子ちゃんも菜々子ちゃんも、幸せな気分になってくれると嬉しいな」

美々子はハッとナマエを見上げる。緩く締まりのない顔でナマエが笑った。
いたたまれないとでも言った風で美々子は自分の皿に向かい合い、また切り分けたホットケーキをぱくりと口に運んだ。口内に生地の甘さと、それを凌駕するはちみつの甘さが広がる。


すっかり平らげた皿をナマエが台所へ下げていき、夏油がその洗い物の手伝いをするとついて行った。菜々子と美々子は居間から台所の様子をじっと見つめる。
夏油が楽しそうにニコニコと笑っているのは、ナマエが来てからみせる表情だった。今までも決して笑わなかったわけではないけれど、自分たちに向ける表情よりもどこか柔らかく自然に見えた。

「美々子?」

黙って台所を見つめる美々子にどうしたのかと菜々子が尋ねる。美々子は持っていたねこのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
ぐいっと覗き込んでくる菜々子に、美々子は「あのひと」と小さな声で切り出す。

「そんなに、悪いひとじゃない、かも」

ぽつんと美々子が言った。菜々子がぐるんと美々子に顔を向け「えぇー!」と声を上げる。
口元を拭われた親指の感覚がじんわりと残っていた。母親というものはあんなものなのだろうか。
自分たちの母親がどうだったかを思い出そうとしてみたが、ろくに記憶にないのだから思い出せるはずもなかった。

「菜々子はぜったい認めないからね!」

菜々子がそう言った。別に美々子も全く信用しているというわけではないけれど、ほんのちょっとだけ、夏油を笑わせることの出来るナマエというひとを、悪くないと思ったのだ。


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