築60年を超えるアパートは2DK。
昔ながらの昭和の造りをしていて、部屋は畳張りだった。風呂は床も壁もタイルを使っているので、冬になると温まるまでかなり寒い。
台所のガスコンロは入居の際に新調したようだが、周りの古さはどう頑張っても取れそうになかった。お湯も都度その場で温める古めかしい瞬間湯沸かし器がついていて、丸い大きなボタンを押すとカチカチカチと音がしてから湯が出てくる。

「美々ちゃーん、菜々ちゃーん。お皿運んで―」

狭い台所でごま油のいい匂いが立ち込めていた。
具材はハムと卵とレタスだけの多少貧相なチャーハンが四人分に分けられている。大盛りひとつ、普通盛りひとつ、小盛がふたつ。

「はーい」
「はーい」

幼い少女の元気な返事が聞えてきて、とたとたとたと台所にやってきた。二人は小盛りの皿をそれぞれ持ち、慎重に食卓に運ぶ。
すると、丁度左手にある玄関の鍵が開き、ぎいっと古い音を立てて外開きに開いた。

「ただいま」
「おかえり」
「あれ、夕飯もう出来てるの?」
「うん、今できるところ」

姿を現したのは黒づくめの男で、長い髪をハーフアップにまとめている。かかとをすり合わせるように靴を脱ぐと、そのまま洗面所で手を洗って台所に戻ってきた。

「チャーハンだ」
「そ。食べたかったでしょ」
「よくわかったね」

そう調子のいいことを言いながら、男は調理中の彼女の腰に手を回し「包丁使ってるからやめて」と嗜められる。仕方なく手を離せば、食卓から戻ってきた二人の少女が「夏油さまー!」と駆け寄った。

「いい子にしてたかい、美々子、菜々子」
「いい子にしてたよ!ナマエちゃんのお手伝いした!」
「うん、今日のかいわれ大根わたしたちがとったやつだよ」

二人は顔を見合わせながら「ねぇー」と言って自慢気に胸を張る。ナマエも「二人とも手際良いからびっくりしちゃう」と言って笑った。
ナマエは二人に麦茶の入ったコップを渡し、二人はまた慎重にそれを持って食卓のほうへと歩いていく。

「私の妻は優秀だな」

何かと積極的に手伝いをする少女たちの様子を眺めて夏油が言った。
まさかここまで懐くとは思っていなかった。少女たちをここへ連れてきたのは夏油だったが、いまではむしろナマエのほうへ良く懐いている気さえする。

「妻って、籍入れてませんけど?」
「事実婚ってやつさ」

顔を見合わせて「ふふふ」と笑う。ナマエはトマトを切り終え、包丁をさらりと水で流す。中華スープを作っている鍋の火を止め、台所に下げてるタオルで手を拭くと、夏油に向き直って腕を広げた。
包丁を置いて火も止めたから、先ほどの続きのお許しが出たらしい。夏油は歩み寄って自分より幾分も薄っぺらい腰に手を回す。

「おかえり、傑。今日はどうだった?」
「結構良かったよ。もう準備も大詰めかな」
「じゃあこれで晴れて教祖様ってわけだ」

ナマエが茶化してそう言うと、夏油が「私の柄じゃないけどね」と笑った。笑う吐息が耳元で揺れてくすぐったい。
抱きしめ合っていると、自分たちが生きていることを実感できる。居場所を自ら捨てて、俗世と関係を断って生きると決めた彼らの存在は酷く曖昧だ。お互いだけがお互いの存在を証明できる気さえした。

「あ!夏油さまとナマエちゃんまたギューしてる!」
「菜々子、そういうこといっちゃダメなんだよ」
「えー!美々子はうらやましくないの!?」

食卓から戻って次なる手伝いを求めてやってきた二人のうち、金髪の少女、菜々子が夏油とナマエを指さし、もうひとりの少女、美々子がそれを嗜めるも、すぐに会話が打ち返されて押し黙る。
ナマエはその様子に笑いをこぼし、抱きしめ合う両腕を緩めて左半身を開いた。

「美々ちゃんも菜々ちゃんもおいで。みんなでギューしよう」

そう声をかけると、二人がぱあっと顔を明るくして飛び込んできた。ぽすん、という衝撃は夏油にとってみれば些細なもので、少しもぶれずに二人を受け止める。
ナマエが「ギュー!」と言いながら少女たちと夏油に回した腕で抱きしめると、二人も同じようにして「ギュー!」と声を出して抱きしめ返した。

「夏油さまもナマエちゃんもだーいすき!」
「美々子も!」

もごもごと二人の間に埋もれながら菜々子がそう言い、美々子がそれに続く。ナマエは「私も二人が大好きだよー!」と言って抱きしめる手のまま二人の背をさすった。

「ナマエ、私は?」
「傑のことも好きに決まってるでしょ」

子供のようなことを言い出す夏油に、ナマエはくすくすと笑う。それからぐうっと美々子と菜々子のお腹の虫が鳴り、ナマエは「夕飯にしよっか」と声をかけた。
チャーハンと中華スープとトマトのサラダ。決して豪勢な食事ではないけれど、一緒に食卓を囲めることが何よりも幸せなことだった。


再会したのはひどく寒い冬の日、2008年2月3日。
夏油の住むオンボロアパートに、ひとりの訪問者があった。
ぎぃ、という音を立てながらそろりと開かれた扉の前で、訪問者である女は満面の笑みを浮かべ、ケーキの箱を差し出した。

「夏油、ハッピーバースデー!」
「…は?」
「クラッカーも鳴らしたかったんだけど、手が二本しかないからさ」

女はへらりと笑ってみせた。鼻先が真っ赤になっていて、随分長い時間屋外にいたのだということが推測できる。
彼女は呪術高専の同輩の女術師だ。いや、元同輩というほうが正しいだろう。呪術高専にもう夏油の籍はない。

「どういうつもりだナマエ、どうしてここが分かった」

夏油は眼光を鋭くして女、ミョウジナマエに言った。
ナマエは眼光の鋭さには不釣り合いなのんきな声音でもって「愛のパワーってやつ」と言ってまた笑う。
その返答で夏油の気配がさらに重くなるのを感じ、観念したようにナマエはへらへらとした笑いを苦笑いに変えた。

「ハイハイごめんごめん。降参です。」

ナマエはそう言って片方の手を挙げると、ケーキの箱を抱えなおし「私高専辞めてきたの」と言った。
面食らった夏油は「は?」と単語だけを返し、彼女の顔をまじまじと見つめた。どうやら本当に嘘はついていないらしい。

「高専辞めてフリーの術師みたいな?で、夏油の場所をその筋の仲介人に依頼して探してもらったの」

めっちゃお金かかったんだよ。ずずっと鼻水を啜るような仕草をして、穏やかに上がった唇は血色が悪く青紫色だった。心なしかそれがかたかたと震えている気がする。彼女の背後には昨日から降り続いた雪がとうとうと積もっていた。

「…私が聞きたいのはそう言うことじゃない。どうして離反した私を探してたんだ」
「そりゃあ、会いたかったから」

会いたかったから。彼女の言葉を頭の中で反芻する。会いたい。どうして。その夏油の心の内を読むようにしてナマエが続けた。

「私、夏油のこと好きなんだよね」

ナマエは恥ずかしそうに頬を掻く。正直なところ、そんなことを思われているなんて感じたことがなかった。どちらかと言えばナマエという女は五条のほうが仲が良く、ノリも合うからと二人で悪さをしているのが日常茶飯事だった。
五条のことを好きだと言われれば得心がいくが、自分と言われるとしっくりこない。夏油がどうにか口を開こうとした時だった。

「夏油さまー?」

部屋の奥から心配そうな調子の少女の声が聞える。夏油は視線だけでそちらを見遣って、出てはいけないよ、の言いつけを守っていることを確認する。
ナマエは「助けたっていう女の子?」と言って、ある程度夏油側の状況を把握しているようだった。少女たちを助けて逃げたことが知れているのは当然で、もう五か月近く経過しているのだから、現場の残穢を補助監督にでも確認されれば住民票とでも照らし合わせて特定できるだろう。

「…まぁ、今日は顔見に来ただけ。あ、ケーキ良かったら食べて。駅前で買ってきた普通のやつだから、なんも入ってないよ」

夏油にさっとケーキの箱を押し付け、それを反射的に受け取る。ナマエがじゃあね、と立ち去ろうとするところを、夏油が手首を掴んで引き留めた。かけるべき言葉なんて考えつかなかったが、このまま彼女を寒空の下に放り出してはいけない気になった。

「…夏油?」
「…お茶くらい出す。寒かっただろ?」

口からこぼれたのはそんな言葉で、ナマエはぱちぱちと大きな目を瞬かせる。
それから気の抜けたような笑いを浮かべ、目尻をぐっと緩めた。いつも高専で見ていた笑顔だった。

「…はは、夏油って優しいよね」

その言葉が自分に相応しくないとわかっているから居心地が悪く、夏油は「別に」と愛想悪くそう言ってナマエを狭い部屋に上げた。
寒空の下に何時間もいたものだから、部屋の暖かさがありがたい。凍える指が溶けていくのを感じる。狭いアパートの一室は、少し埃っぽくて懐かしい匂いがした。

「そこ座って」

通されたのは古い畳の敷かれた部屋で、丸いちゃぶ台が真ん中に置いてある。ナマエは言われたとおりに座し、ぐるぐる巻きにしていたマフラーをとった。石油ストーブが室内を温めている。

「はい」
「ありがとう」

少し待って出てきたのはマグカップに入った緑茶で、ナマエはそれを両手で包むようにして手を温める。飲むにはまだ熱いから、ふうふうと息を吹きかけた。

「安心して。ここまではもちろんつけられてないし、夏油の場所知ってるのも私だけ。仲介屋にも他言無用って追加料金払ってきたから」

夏油はナマエの向かいに座った。すると、反対側の部屋の襖が少しだけ開き、隙間から少女たちがこちらを覗いているようだった。彼女たちは夏油に気づかれたと分かってひょいっと部屋の奥へと退散していく。

「高専辞めてどうするつもりなんだい」
「んー、出来れば夏油の手伝いがしたいんだけど…無理そうならフリーで頑張ってみようかなぁって」
「君な…」

はぁ、と呆れたように溜息をつく。
彼女は夏油と同じ一般家庭出身の呪術師だ。フリーでどうのこうのとしたところで後ろ盾もツテもないし、放っておけば生きるために呪詛師まっしぐらだろう。

「少し考える。即答はできない」
「うん、平気。あ、このお茶美味しいね」

ナマエは平然とそう言ってからのん気に「どこのお茶?」などと尋ねてくるものだから、夏油はもう一度溜息をついてから「近所のスーパーの特売1キロ1500円」と答えてやった。やっぱりナマエはのん気で「超安いじゃん」と相槌を打ってお茶を啜った。


離反。従っていたものが背き離れること。
離反という言葉だけをみると、随分穏便に聴こえる。実際のところ、その男は112名の人間を殺し、たった2人の少女を連れ出した。
呪術界から危険視されるほど優秀な特級術師であった夏油傑は、そうして呪詛師に身を堕としたのである。
これは、不器用にしか生きることのできない彼らが、家族になるまでの記録だ。


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