※2022年発行の紙版の再録です。


築25 年のマンションは2DK。
入居の半年前にリノベーションされたらしく、フローリングの床はつやつや光っている。風呂も追い炊き機能付きの新しいもので、備え付けのエアコンだって最新型。
台所はオール電化になっていて、これなら子供でも火傷の心配が少ない。新婚の時大きめの冷蔵庫を買ったのは大正解で、これなら家族が増えても早々に買い替える心配はないだろう。

「ただいま」
「おかえり、傑」
「起きてて大丈夫かい?」
「うん。今日は調子がいいの。ご飯もぺろっと食べちゃった」

夏油傑はごく普通のサラリーマンである。医療機器メーカーに勤め、営業部のエースとして活躍していた。強いて言うならば、その特殊性は彼の記憶の中にあった。彼には前世の記憶と思わしきものが残っている。

「夕飯作ってあるけど…もしかして食べてきちゃった?」
「いや、一刻も早く帰りたかったからまだ」
「そうだと思った」

ナマエはそう言って台所に立つと、包丁ですいすいとトマトを切る。ポトフの鍋を温め、それから豚肉のケチャップソテーを作るべく、つけダレに浸った豚肉を冷蔵庫から取り出した。

「私の妻は優秀だな」
「妻って、ふふ、たしかに今回は正真正銘夫婦だもんね」
「前だって充分正真正銘だっただろ?」
「戸籍は別だったもの」

顔を見合わせて「ふふふ」と笑う。じゅうじゅうと肉の焼ける匂いが漂い腹はもっと空腹を激しく訴える。

「ちゃちゃっと作っちゃうから、傑は手洗いうがいしてきて」
「ん。わかったよ」

彼女の言いつけ通りに夏油は洗面所に向かい、手首から指先までを丁寧に洗った。がらがらがらと喉を鳴らしながらうがいをして、さて、とダイニングに足を運ぶとテーブルはもうあれこれと皿が並び始めていた。

「料理運ぶよ」
「いいの。最近は家にいること多いし、部屋の中でくらい動きたいの」

ナマエは穏やかな調子でそう言った。今日は本当に体調がいいらしい。数か月前まで浮き沈みの激しい様子が続いていたから、最近の落ち着いた様子は見ていて安心感がある。ポトフとサラダとケチャップソテー、それからピクルスがテーブルに並び、一息ついたところでナマエが夏油に向かって両腕を広げた。夏油は歩み寄り、自分より幾分も分厚くなっている腰に手を回す。

「ナマエ、今日はどうだった?」
「順調だったよ。先生からも太鼓判おされちゃった」
「ふふ、それは何よりだ」

抱きしめ合う温度はまだ二人分だけれど、もうすぐこれが四人になる。彼女の中には、今、新しい命が宿っていた。それも二人分だ。

「ギューってしてるとさ、四人でくっつきあってたときのこと思いだすね」
「私が抱きついたら二人とも目ざとく見つけてくるんだから参ったよ」
「ふふ、傑って結構子供だよね」
「なんとでも言ってくれ」

狭い部屋の中では身を隠せる場所なんてもちろんないのだから、夏油とナマエが抱きしめ合っていればすぐに見つかってしまった。そうするとトタトタ寄ってきて「ずるい!」と抗議をし、結局四人でいつもぴったりとくっつきあった。
ひとしきり抱きしめ合って、ナマエがひょこっと身を離す。いつまでもこうしていたいところだが、せっかく温めた食事が冷めてしまう。

「じゃあ、夕飯しよっか」

二人でダイニングテーブルを囲んだ。一緒に食事を囲めることがこの上ない幸福であると、二人はよく知っていた。


夏油傑は生まれる前、たくさんの人間を殺した史上最悪の呪詛師であった。
12月24日。うら寂しい高専の校舎の片隅で彼は命を落とした。その最後を与えたのは親友であった五条悟だったと、騒動ののち一度だけ姿を現した本人に直接聞いた。

「どこで間違えたんだろうね、僕らはさ」
「間違えてなんかないよ。二人とも。私はそう思ってる」

雑踏の中、人の足音に紛れてしまいそうな小さな声だった。けれども不思議なほど声はクリアに聞こえる。
ナマエは最後の姿を見ることが出来なかった。五条が秘密裏に処理をしたらしい。呪霊操術を有する身だ。遺体になっても上層部が解剖だなんだとさせるつもりもあっただろう。五条はそれをさせたくなかったのかもしれない。

「難しいね」
「そうだね」

五条悟として、彼は充分に仕事をした。いくら彼が最強をうたわれる呪術師だとして、呪術師である前にひとりの人間である。親友に最後の一撃を放つというのは、随分と苦しかったことだろう。たとえそれが、予め覚悟していたことだとしても、だ。

「だけどもしも、もしも何かがって言うんなら、きっともっと、いろんなことを話せば良かったかもね」

彼女が言った。自分のことだってろくに分からないのに、黙したままの誰かのことが分かってあげられるわけがない。打ち明け合って、言葉を交わし合って、だんだん知り合っていく。そうしてやっと、少しだけ心の深いところに近づくことができるのだ。

「だから五条。これからはもっとたくさん、大切な人にいろんな話をしてあげて』

ふっと頬を緩める。もう五条とナマエは会うこともないだろう。力のないナマエは今回の百鬼夜行と称される事件で重要視されてはいないが、いくらなんでもこれ以上見逃すことは出来ない。

「…おまえ、強くなったね」
「あたりまえよ。そうじゃなきゃ、あんなロマンチストの妻なんてつとまらないんだから」
「はは、そりゃそーだ」

人が行き交う。五条は今だけただの五条悟として立つことが出来ていた。背を向けたらもう、それも許されないだろう。

「いつかどこかで会ったら、また友達になろう」

ナマエは右手を差し出す。五条は それに答え、まるで初めて会うかのように握手をした。これが五条悟と話をした最後の機会だった。
雑踏の中を掻き分け、ナマエは2DKのアパートを目指した。私鉄を乗り継ぎ、目的の駅で下車する。駅前のネットカフェはいつの間にか居酒屋に変わってしまっていた。この町に来るのももうずいぶんと久しぶりのことだった。

「…あちゃあ、工事中だ」

ナマエはアパートのあった場所まで辿り着くと、工事用のフェンスに囲まれたそこを見上げる。半分ほどが崩されていて、どうやらここは解体されるらしい。あの頃すでに築60年を超えていたのだ。老朽化で取り壊されてしまうのも仕方のないことだった。

「…ずいぶん遠くまで来ちゃったね、傑」

ぽつり。溢した言葉はフェンスにぶつかってすぐにナマエの首元に返ってくる。唇が震える。ここにもう、あなたはいない。目の奥が熱くなって、思い出したように涙があふれた。夏油が死んだとわかった日も泣かなかったのに、今になってようやく悲しみが追い付いてきているのだ。

「ナマエ」

背後から夏油の声がした。聞き間違えるわけがない。だったら幻だ。これからも菜々子と美々子を守って生きていかなければいかないのに、こんな都合のいい幻聴をきいてどうする。ナマエは自分を叱咤した。

「ナマエ」

まただ。また夏油の声が名前を呼ぶ。ナマエは流れる涙を止めることもせず、その幻聴を振り返った。

「え……すぐる…?」

背後には、袈裟姿の夏油が立っていた。どこも欠けていない。腕も、上体もそのまま。にっこりと笑ったまま「待たせたね」と一歩踏み出す。ああ、違う。

「あなた、誰?」
「ひどいな、夫の顔を忘れたのかい?」
「お生憎様。籍は入れてないの」

男はまるで夏油の姿をしているが、額に妙な傷跡があった。呪力も全くもって夏油で、声音も、口調も、すべて夏油だ。けれど違う。ナマエにはその確信があった。

「残念だ。君を騙せたら、完璧だと思っていたのだけれど」

すっと男が手を動かす。呪力が鋭い刃物のようになってナマエに襲い掛かった。彼女の記憶は、それきりぷつんと途切れてしまっている。


食事を終え、夏油とナマエはリビング代わりに使っている部屋のソファにゆったりと腰かけた。身重のナマエに合わせてノンカフェインのコーヒーを飲むようになるうち、逆にこっちの方が慣れてきてしまった、と夏油もずっとノンカフェインコーヒーを愛飲している。

「もうすぐ予定日だね」
「うん。やっぱり…ちょっと不安」
「大丈夫さ、ナマエなら」

夏油はナマエの肩に手を回し、するとナマエが夏油の胸元に耳を寄せた。じんわりと耳元に熱が伝わる。この熱が彼女を安心させていった。
お腹の子供は双子だった。検診でそれが分かったとき、底知れない運命めいたものを感じてしまった。そうと決まっているわけではない。もちろん生まれてくる子供にそれを強要するつもりもない。だけど、そうであればいいと願うのは本心だった。

「菜々子と美々子って名付けちゃうこと、怒られたりしないかな」
「まぁ、思春期は反発されるかもしれないけど、これ以上にいい名前を私たちは知らないからね」

名前はもう決めていた。ナマエはそっと膨らんだ腹を撫でる。

「ナマエ、私も触っていいかい?」
「うん。撫でてあげて」

そっと手を伸ばして夏油も腹に触れる。どくどくと血が流れ、その向こうの向こうに新しい命が息づいている。左右にゆっくりと手を動かしていると、内側からぽこんと蹴るような衝撃が走った。二人は顔を見合わせる。

「蹴ったね」
「うん。蹴ったね」

今か今かと生まれるその日を待っている。その力強さを手のひらの中に感じる。ナマエは夏油の手の甲にそっと指を重ねた。

「本当はね、まだ少しだけ、ううん、結構、怖いかも」
「子供を産むのが?」
「うん。だって…結局私、前は子供産まなかったし…母親なんか、なれるかな」

あのとき、破滅へと進撃していく二人の間に子供はいなかった。親がどうなってしまうのかもわからないのだ。だというのに無責任に子供を産むことなんてできない。それが二人の総意だった。
代わりというわけではないけれど、菜々子と美々子を本当の子供のように可愛がったし、二人とも家族のように接してくれた。それであの頃は充分すぎた。

「血のつながりだけが家族じゃないって、君が一番よく知ってるだろ」

夏油が静かにそう言い、ナマエの目尻にキスをする。血の繋がりがなくても、四人はあの時、間違いなく家族だった。それだけは胸を張って言える。

「…そう、そうだよね…」

今までの記憶のすべてに折り合いがつけられたわけではない。凄惨な記憶を思い出して胸の焼けるような思いをすることもある。けれど無ければよかったとは、二人とも一度だって思ったことはなかった。
この記憶があったからまた巡り合えた。この痛みを抱いているからそばにいることが出来た。たくさんの傷を得たけれども、それを凌駕する幸福があったのも事実なのだ。

「本当の本当に、家族になるんだ。私とナマエと、菜々子と美々子の四人でね」
「…うん」

やがて夜が終わると、東から昇る太陽が町中を光らせていく。どんなに遠くまで来ても、夜明けから逃れることは出来ないのだ。そう。私たちは、明けない夜はないことをよく知っている。
楽園にいつか、光が満ちる。


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