2006年10月。眠れない夜だった。秋の風が吹き始めているけれど、まだ残暑は厳しい。
ナマエはぺたぺたと小さな音を立てながら寮の廊下を進む。窓の外は真っ暗だが、少し遠くの建物は補助監督が詰めているため多少の明りがついている。

「わぁ、今日もこんな時間まで補助監督さんたち働いてる…マジかぁ」

呪いに昼も夜も関係がない。むしろ、夜の方が呪いが発生する条件が揃っている場合もある。それゆえに裏方である補助監督も含めて日勤ばかりではないというのが現状だ。
ナマエは出来れば夜はきっちりと寝たいタイプだが、卒業して現場に出ることが今以上に多くなればそうも言ってられないだろう。
ナマエは寮の端にある屋内の自販機でペットボトルの緑茶を購入し、ベンチに座ってひとくち飲む。冷たい感覚が喉を通って胃に落ちていくのが良くわかる。

「…あれ」

不意に、近くから煙草の匂いがした気がした。寮の近くで吸うなんて家入か夏油くらいのものだ。きょろきょろあたりを見回し匂いの出所を探す。がらりと窓を開ければ、自販機のある建物のすぐ外で、煙草をふかしている夏油の姿があった。

「夏油」
「あれ、ナマエ?」

声をかけると、夏油は慣れた様子で煙草を人差し指と中指にはさみ、ひらひらと手を振る。「眠れなかったのかい」と尋ねられこくりと頷いた。手招かれたのに従い、ナマエは窓枠に足をかけるとひょいっと外に出る。本当はうち履き用のスリッパだから後で拭いておかなければいけない。

「今日、寝苦しいもんね」
「夏油も眠れなかったの?」
「いや、私は悟とゲームしててさ、さっき悟が寝落ちたから一服しに出てきたんだよ」
「明日眠そうな顔してたらめちゃくちゃ怒られそう」
「善処するよ」
「連帯責任は御免だよ」

よく五条と二人で遅くまでゲームをしているのは知っていた。翌日の午前の座学で眠そうな顔を隠しもしないのだから始末が悪い。
運が悪いとそのまま四人まとめて連帯責任で掃除を言いつけられたりすることがあるから厄介だ。明日はそうならないことを願うばかりである。

「ねぇ、煙草美味しい?」
「うーん、苦いよ」
「なんで吸ってんの?」
「クセみたいなものかな。あと切り替えのスイッチっていうか、そんな感じ」

立ちのぼる煙が風に邪魔されることなくすうっと一本の線になって上へ上へと伸びていく。
ぽつぽつと手持無沙汰に交わされる会話は不格好ですぐに千切れてしまう。夏油はそれもあまり気にしていないのか、自分のペースで煙草を吸い続けていた。

「夏油は眠れないと不安にならない?」
「どういうこと?」
「なんていうか、気持ちが焦るっていうか、明日も任務あるのにどうしよう、みたいな…」

ナマエがぽつぽつと溢す。眠ってしまうほうが良いとわかっているのに、瞼を閉じていても一向に眠気が訪れないことがある。興奮していたり、何か気がかりだったりすると、いつまで経っても眠れない。そうすると明日の予定が気になってもっと眠れない悪循環に陥る。

「眠れないときは無理して眠ろうとしなくていいと思うよ」
「え?」
「布団に包まってるのもいいし、起き上がっていつも見ない…例えば夜中の月とか朝日とか、そういう景色を眺めてみるのも悪くないさ」

そういうものかな。と相槌を打ち、空を眺める。月は三日月でも満月でもない、中途半端な形をしていた。ちらりと横目で見ると、夏油は澄ました顔で口から煙を吐き出し、それは一瞬視界を白く染めてまたすぐに透明に戻って行った。

「なんか不思議。夏油に言われるとそれが良い気がしてきた」
「はは、役に立てたなら何よりだよ」

黙って空を眺めていると、視界の端で星が流れた。「あっ」と声を上げるより早く燃え尽きてしまって、流れ星であったかどうかも確証がない。開け放している窓からジーっと自販機のモーター音が漏れ聞こえている。
すると、そのうちにどかどかどかと大袈裟な足音が聞こえてきた。それからきんっと夜中に似つかわしくない大きな声がかけられる。

「おい、傑!お前こんなとこいたのかよ!」

どうやら五条が夏油を探しに来たらしい。五条はナマエがしたのと同じように自販機側の窓を超えて外に出る。
夏油が「悟、夜だから静かにしなよ」と嗜めてもムッと口をとがらせるだけだった。

「お前なに勝手に出てってんだよ、まだ途中だろ?」
「99年ってプレイ年数おかしいんだよ」
「はぁ?そんくらいしなきゃつまんねーじゃん。日和るなよ」

会話の内容からどのゲームをしていたのかは察することができた。二人は高専に来てからの付き合いのはずだが、まるで旧知の中のように掛け合うものだから見ていて少しも飽きない。

「時間が有り余ってても50年が限界だろ、何だよ99年って」
「いいじゃん。今度硝子も誘って4人で耐久やろーぜ」

五条がにひひ、と笑い、見てる分ならいいが巻き込まれるのは勘弁願いたいと口を開こうとすると、それより先にまた開け放たれた窓の内側から声が降ってくる。

「ちょっと、勝手にひとを巻き込むな」
「あ、硝子」

たまたま家入も寝つきが悪かったようで、結局同期4人がすべて揃ってしまった。そうなればもう五条の思うつぼで、なし崩し的に五条の部屋に集められてゲームをすることになった。ほぼ徹夜の状態で挑んだ座学では見事に全員が居眠りをして、罰として中庭の掃除を命じられた。それも途中で五条がふざけ始めたことにより落ち葉が散乱し、追加で夜蛾からの拳骨をもらうことになった。


2007年10月。夜中にナマエはぺたぺたと寮の廊下を歩き、自販機へと向かった。硬貨を投入し、緑茶のボタンを押す。ピッという電子音の後にがこん、と、取り出し口へとペットボトルの落ちる音がした。
ベンチに座ってキャップを開けようとすると、外からザリっと砂を踏むような音がした。夏油。反射的にそう思い、ナマエは窓を開けた。

「…ご、じょう…」

そこに蹲っていたのは五条だった。そうだ、夏油はここにいるはずがない。先月任務先の非術師を皆殺しにして、現在は指名手配の身分である。
ナマエの声に五条はのろりと顔を上げた。サングラスをしていないから、青い眼がぞっとするほどまっすぐナマエを射貫く。

「んだよ…」
「いや、べつに…」

夏油のいなくなったあとの五条は、驚くほど冷静だった。正直なところ、自分より家入より七海より、五条が一番取り乱すと思っていたのだ。
落ちこんでいるような様子はあったけれど、癇癪を起こしたり、周りに八つ当たりするようなことは殆どなかった。むしろ夏油が嗜めていたころよりずっと、五条は凪いでいた。

「そっち行っていい?」
「ん」

ナマエは窓枠を飛び越え、うち履きのスリッパのまま外へ出ると五条の隣に屈んだ。空には中途半端な月が浮かんでいる。厳しい残暑はまだ健在で、風がまだ生ぬるい。

「今年の秋はさ、なんか記録的に一番暑いらしいよ」
「ふぅん」
「テレビで言ってた。何年振りって言ってたかなぁ」

二年半この男と付き合ってきて、五条よりも自分の方が饒舌なことは殆どなかった。何かと構いたがりの言いたがりの彼は、気安い関係である同期に対していつもあれこれと軽口を叩いていた。黙っているとまるで別人だ。
五条の目元にうっすらと隈が浮かんでいる気がする。いや、気がするだけで実際そうではないのかもしれないし、隈が浮かんでいるのは自分のほうかもしれない。

「眠れないの?」
「べつに。反転使えば脳みそなんかいつでも新品だし」
「そりゃそうかも知れないけどさぁ」

この夏に、五条は無下限のオートマでの展開と反転術式を完成させた。彼に選別された彼を害するものは、無限の空間に阻まれて決して届くことはない。
ナマエはそっと五条に手を伸ばす。肩に触れる直前、何か見えない壁に阻まれて触れることは叶わなかった。

「…眠れないときは無理して眠ろうとしなくていいんだって。布団に包まってるのもいいし、起き上がっていつも見ない夜中の月とか朝日とか、そういう景色を眺めてみるのも悪くないって」

ナマエが口にしたのは、あの日夏油に言われた言葉だった。何気ない言葉でも随分きっちり覚えているものだ。これだけじゃない。夏油にかけられたいくつもの言葉を、ナマエは宝箱にでも仕舞うように大切に守っていた。

「誰の受け売りだよ」

その問いかけにナマエは答えなかった。五条が俯きながら「そのピアス、超似合わねぇな」と笑った。


2008年10月。珍しくその日は、ひとりで未明の空を眺めていた。日課になっている夏油とのささやかな会話を交わしたあと、眠りが浅かったのかまだ日が昇らないうちに目が覚めてしまったのだ。
眠れないときは無理をして眠る必要はない。布団に包まっているのもいいし、起き上がっていつも見ない景色を眺めてみるのも悪くはない。

「…ふふ、確かにね」

眠れない夜に夏油から言われた言葉を思い出す。あの時からもう既に、夏油の言葉はナマエの奥深くまで根を張っていた。
五条に触れることができなかったのはあの日だけだ。ナマエだけでなく、家入や七海、夜蛾など、五条が信頼を置く人間に対し基本的に無限を張ることはなかった。
けれど、あの日拒まれたのがすべての答えだとナマエは思っていた。あの日蹲って立ち止まる五条に、ナマエは手を差し伸べることをしなかった。それどころか、ナマエは五条ではなく夏油に寄り添うために高専を出たのだ。

「…五条、硝子、七海、夜蛾先生、歌姫先輩、冥さん、伊地知くん」

ナマエはひとりひとりの名を呼びながらその顔を思い浮かべる。いつか彼らと戦うような日が来るのだろうか。きっと来るのだろう。それが夏油の選択だ。
五条はひょっとして、あの日からいつかはナマエが夏油の元に行くのだと勘づいていたのだろうか。いや、そんなことが今更わかったところで何だというんだ。
もぞもぞと、部屋の方から衣擦れの音が聞こえる。もしかして夏油が起きてきたのか、と振り返れば、そこに立っていたのは菜々子だった。

「…ナマエちゃん?」
「菜々ちゃんどうしたの、起きちゃった?」

ナマエがそう尋ねると、菜々子はこくんとうなずいた。ナマエが手招きをすれば、少し恥ずかしそうな様子で歩み寄る。それからおずおずとナマエの隣に腰を降ろした。ナマエは右腕で菜々子の肩を抱き、そのまま彼女の頭をぽんぽんと撫でる。

「いま何時?」
「まだ5時だよ。もう一回寝る?」

ナマエの言葉に菜々子がふるふる首を横に振った。朝食の支度などがあるナマエからすればいっそ起きてしまえという時間だが、菜々子や美々子たちはまだもう一度眠ってもいいくらいの時間だ。

「…眠れないときは無理して眠ろうとしなくていいよ。布団に包まってるのもいいし、起き上がっていつも見ない夜中の月とか朝日とか、そういう景色を眺めてみるのも悪くないよ」

ナマエはその言葉を口にしながら、すっかり自分の言葉になったなと思った。
眠れない日はいつもこの言葉を思い出した。
焦らなくてもいい。ゆっくり前を向けば大丈夫なのだと、そう言われている気になる。
ぽんぽんと一定のリズムであやすように撫でていると、だんだん東の空が白んできた。時計はもうすぐ5時30分を指そうとしている。

「ほら、見てごらん、おひさまだよ」
「きれいだね」
「そうだね」

やがて夜は終わり、朝焼けが町中を光らせていく。こんなに遠くまで来ても、夜明けから逃れることは出来ないのだ
ナマエがじっと黙ると、菜々子は不安げにナマエを見上げた。ナマエはそれに気付き、柔らかな髪に頬を寄せる。

「今日は一緒に朝ご飯の準備しよっか。いちごジャムとマーマレード、どっちがいい?」

今確かなのは、この手の中のものを守ることだと思う。夏油を追いかけようと決めたあの日からナマエの願いは変わらない。
新聞配達のバイクが表の道を走り抜ける。今日も1日が始まる。


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