*第六章 奪還、そして
「うっ……、苦いのだ……」
猫を返しに行った際に軫宿がくれた栄養剤は、真緑でいかにも苦そうだと思ったが……予想を遥かに越える苦さだった。
でもまぁ良薬は口に苦しと言うし、と口直しの水をがぶがぶ飲んで、気を紛らわせる。
そしてふとまた、雪の事を考えた。
あと数日後には朱雀召喚の儀式が執り行われて、彼女の役目が終わる。これはあくまで井宿自身の予想だが、やはり、その後、彼女は……。
「…………」
……気付いた時には、またもや雪の部屋の扉を叩いていた。顔を見なくては落ち着かないし、体を休めるなんて無理である。――この胸の中がむず痒いような妙な気分は、どうにかしたいものだ。
「はい?」
「あ。オイラなのだ」
「え、井宿? もう休んだと思ったよ。疲れてない? 座って」
ひょっこりと顔を出した雪に促されて、部屋に置かれた椅子に腰を下ろした。
「……願い事は、決まったのだ?」
特に前置きも何もなく、そう口にする。よく考えたらそんな事を聞きに来るなんて意味不明すぎるが、彼女は特に気にしていないらしい。
「ん、まだ」
「そう……まあ、まだしばらくは考えていていいと思うのだ」
どうもぼんやりとした口調に眉をひそめて、雪は尋ねる。
「何、どうしたの?」
「いや……。君がこないだ言ってた、元の世界に戻るの戻らないのっていう話を、ふと思い出したから」
「……あー、成程ね」
それからしばらく、どちらも口を開かないまま時間だけがゆっくりと流れていった。井宿は頭の中が真っ白になっているだけなのだが、俯いたままの雪は一体何を考えているのだろう。
もう少したくさん、かける言葉を用意してから出向くべきだった。今更後悔しても仕方のないことだが。
「井宿」
「……へ?」
急に呼びかけられたので間抜けな声を出してしまい、若干慌てて姿勢を正す。
「ごめん、私嘘ついた」
頭を掻きながらそう言う雪に首を傾げれば、ひどく気まずそうに苦笑いしながら続ける。正直、この先はあまり聞きたくない部類の言葉なんじゃないかと察していた。
「この世界にいた記憶を消して……向こうの世界へ……って、ふたつめの願い事にしたの」
何故か、その言葉に少し傷付いた。
が……敢えて顔には出さないように努力する。
「あぁ……。君がそうした方がいいと思ったなら、きっと……それが一番なのだ」
「……ん」
悲しげな彼女の瞳は、井宿ではなく窓の外に向けられていた。
井宿もまたそんな表情を長く見ていることができず、そっと立ち上がる。
「……長居をしては悪いのだ。いきなり押しかけてすまなかった。また、明日」
「あ……、ううん。おやすみ。ありがとう」
返事の代わりに手を軽く振って、井宿は逃げるように部屋を出た。
そうか、帰ってしまうのか……やっぱり。
彼女がそうしたいなら、誰にもそれを引き留める権利はないのだ。きっと一人でたくさん思い悩んで、そう決めたのだから。
いや、彼女の選択は正しい。全てが、あるべきところに帰るだけ。
少しでも離れるのが悲しいと思ってくれるなら。悲しいと思うから忘れてしまいたいなら。……それでいいじゃないか。
「……寂しい、のか……」
濃紺にぼんやりと霞んだ月は、涙か薄雲か。今更雪を困らせる訳にはいかないと、井宿は静かに目を伏せた。
……せめて自分だけは、この短かくも刺激に満ちていた日々の全てを、永遠に覚えていよう。そう思いながら。