*第六章 奪還、そして
「……っはー……!!死ぬかと思うたで……」
たった一瞬目を伏せていた間にすっかり周囲の景色が変わり、汗ばんだ額を拭う。脂汗をかいていた背中も少し気持ちが悪い。
「何とか逃げおおせたけど……今回は流石に、オイラも駄目かと思ったのだ」
「井宿、ここは?」
「紅南の……城下なのだな。また少し外れてしまった。急いで戻ろう、星宿様が心配……なさるのだ」
辺りを見渡してからふらふら立ち上がる井宿に、雪がいち早く駆け寄る。
「大丈夫?歩ける?」
「ちょっと神経すり減らしただけなのだ……。こいつがいて助かったのだ」
肩に乗った同じ顔の猫が、井宿を労るように頬を寄せて自慢げに鳴く。緊張がほぐれたので、指先で顎の下を撫でてやった。
「うん……!よし、行こ!鬼宿、翼宿!井宿に手を貸してあげて」
路地を抜けると、予想通りすぐに城門が見える。このぐらいの誤差で済んでよかった、我ながらよくやった、と井宿は心のなかで呟いた。
宮殿に戻ると、待ちかねていた様子の星宿が駆け寄ってきた。
「ご苦労だった……!全員無事で戻ってくれて、安心したぞ」
腰を折り雪の肩を掴んで、呻くように彼らを労る。顔色が優れないとひと目見て分かるほど、神経をすり減らしていたようだ。
無理もない。皇帝という立場でなければ、間違いなく彼も倶東へ出向くと言っただろうから。
「かなり危なかったですが……井宿のお陰で、何とか」
「軫宿の猫がおらんかったら、やられてたかもしれへんて……」
「猫は朱雀の者じゃないから、結界や呪縛の影響はないんじゃないかと、思ったのだ。一先ず猫の形の分だけ結界を開いて……後は夢中だったから、もう自分でもどうなったかとかどうしたのかとか、訳が分からないのだ」
気付いた時には、結界をそこから一気に破っていた。
肩をすくめて深くため息をついたその顔は、いくら取り繕ってもひどく疲れて見えるだろう。だから、無理をするのはやめた。
しかし何はともあれ……これでもう、朱雀召喚のお膳立ては完璧だ。
「では、準備が整い次第……そうだな、遅くとも二、三日中には儀式を執り行う事にしよう。雪、それまでに願い事を整理しておくといい。三つきりだからな」
「三つ……」
ひとつは、紅南国が永遠に平和であるように。これは確定である。
あとのふたつ、雪はどうするのだろうか。何を願うのだろうか。
「あのっ……星宿、国の為の願い事は、平和だけでいいの?」
「先に巫女が現れて永遠の平和が約束された北甲国や西廊国のように、この紅南の地も永遠の加護があるようにと……祈ってくれ。あとのふたつは、お前が好きに使うといい」
「う、うん……」
ふたつも願い事を叶える権利を得たのに、雪はさほど喜んでいるようには見えない。それどころか、どちらかというと困ったような表情だ。
横目で眺めている井宿にも気が付かず、じっと何かを考えている。
「まあとにかく、今夜はもう休むことだ。井宿もかなり衰弱しているようだしな」
「あー……、情けないですのだ」
「そんなことはない、よくやってくれた。無事に戻れたのも井宿のお陰ではないか」
「だはは!そうやそうや!あん時のお前、結構かっこよかったで!!」
翼宿にばんばんと肩を叩かれながら、井宿は「君は元気そうなのだな」と悪態をついて、複雑そうに笑った。