*第九章 青龍の巫女
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翌朝。寝覚めから全身に走るひどい痛みに、鬼宿は顔をしかめた。射し込む朝日さえ無意味に恨めしく、こんなにも最悪な朝は経験したことがないという様子だ。
「ちっ……。クソ心宿が」
「――鬼宿?起きたの?」
朝食を乗せた盆を持った葉月が、部屋の中へ足を踏み入れる。彼女は少し寝不足気味の目で微笑んで、湯気のたつ食事を机に置いた。
「食べられる?これ美味しいんだよ。あ、もし痛むなら私が食べさせたげるからね!なぁんて、冗談……」
「葉月……。俺、やっぱ紅南に」
「鬼宿!此処でもう紅南の名前は出さないで。次は……どうなっても知らないんだから」
振り向く事もせずに、葉月は強い口調で鬼宿の言葉を遮る。それから、例の光景が脳裏に蘇るのを振り切るのに必死だった。
「ねえ、何の為に貴方が二度も此処に連れて来られたと思う?分からないの?」
「雪に朱雀を呼び出されては困るから、だろう?前から思ってたけどお前、何でそんなに雪を毛嫌いするんだ?」
「朱雀の事だけじゃない。この前言わなかったけど……私、ずっと前から貴方が好きなの。だから貴方が、朱雀のあの馬鹿みたいな女の為に、七星士として命を懸けるなんて許せない」
突然の告白に目を見開いた鬼宿の胸に、葉月がすがった。
そうして安心した途端、街で偶然彼を見掛けた日が鮮明に蘇ってくる。
その次に見たのは、あの朱雀の女や七星士を、国境の村で初めて見た時。怯むことなくあの心宿に立ち向かった鬼宿を見て以来、複雑な気持ちがとめどなく膨らみ続けた。
「何で貴方は青龍七星士じゃないの……。何で護られるのは朱雀の……あの女なの!あの女は、貴方の事をただ保身に利用してるだけじゃない!」
――今は自分が世界で一番、鬼宿近くにいるのに。二人の心の間にある明確な隔たりは、きっと生まれた星の違いだ。
「……青龍七星にお前を護る使命があるように、俺も生まれた時から、いつか現れる雪を……」
ほらやっぱりね、と葉月は僅かに唇を噛みしめる。
「でも……心宿が言ってたよ。あの女、他の七星士と恋仲だって。だったらいいじゃない、使命なんて捨ててさ、そいつに任せちゃえば」
「そういう事じゃない。最後まで聞いてくれ。今はもう、使命とか関係なくて、護りたいから雪を護ってるんだよ……それは、きっと他の七星士も同じだ」
だから、皆の為にも自分は紅南に戻らなければ。そう鬼宿は小声で続けた。
「雪だけじゃない。大事な仲間も国も護りたいんだ。俺の中では皆が大切なんだ。お前は悪い奴じゃないって、ちゃんと分かってるけど……!」
悔しさ、悲しさ、怒り。様々な感情が噴き出して、色を無くした葉月の瞳が、鬼宿を映す。
ここで過ごした時間なんて、雪も葉月も大差ないはず。それなのにどうして、彼らはそんなに強く引き合えるのだろう?
彼女は朱雀のそんな絆に、ひどく嫉妬していた。
「じゃあ、貴方はどうあっても紅南へ戻ると言うのね?」
鬼宿は黙ったまま、否定も肯定もしない。
「……分かった」
懐に伸びた手が、迷うことなく何かを自分の唇へ運ぶ。
「葉月……っ!?」
重なった唇に、鬼宿が身を固くする。まるで意思を持ったかのように、何か……苦くて小さな塊が、彼の喉へ向かっていくのだ。
拒絶しても、深くへ。とうにそれを手放した葉月にも分かるほど、這いずるような微熱と共に。
「ぐ……ぅっ」
段々と力が抜けて、とうとう崩れ落ちた鬼宿の体を、葉月がどうにか抱き止める。
永遠に、貴女の思いのまま。――心宿のあの言葉が、黙りこくる彼女の耳の奥でこだました。
「……心宿。居るんでしょ?趣味悪いからちゃんと出てきてよ」
「……はい、葉月様」
どこからともなく現れた心宿は、二人を見て口角を上げている。
「よくご決断なさいました。蠱毒は、誰にも破られることはありません。これでもう、鬼宿は貴女の思いのままです」
後ろから葉月の髪を撫でて、心宿は楽しげに呟いた。
⇒あとがき