*第九章 青龍の巫女
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暗くなった宮殿を歩く心宿と、部屋に戻る巫女の視線がぶつかった。
「おやすみになるのですか?葉月様」
「……そうよ」
不機嫌顔のままで横をすり抜けた彼女の足がぴたりと止まり、振り向かずに声をあげた。今この男とゆっくり話をする気にはなれなかったのだが、釘だけはさしておきたいとも思う。
「心宿。鬼宿は……傷が治ったらきっとまた紅南へ戻ろうとするだろうけど」
「その時はまた同じような……いや、もっと痛い目を見るだけですがね」
「そんな事、もう絶対に許さないから」
握った小さな拳が、怒りに震えている。好きな男が折檻される一部始終を、目の前で見せられていたのだから。
あんなもの、思い出すだけで吐き気を催す。鬼宿だけではなく葉月にも「二度と御免だ」と思わせるところまでが心宿の狙い通りで、それが透けて見えるのは余計に腹立たしい。
そもそもこの心宿という男を心の底から信用しているかと聞かれれば、正直疑問ではあった。ただ、右も左も分からないこの世界で一番頼りにしているのも間違いない。
「では、鬼宿を……自分の意思でここに留まらせてしまえばよいのですよ」
近付いた心宿は、思わず振り返った葉月の手に小さな三角の包みを落とす。
「何……これ」
「蠱毒といいます。これを明日、鬼宿の食事にでも混ぜるといい。そうすれば、彼は永遠に貴女の思いのままですよ」
耳元で囁かれた言葉に、葉月の心臓が跳ねる。おぞましいものを握らされた気持ちだ。
「で、でも……毒じゃ……?」
「ご心配なく。そういう類の毒ではございません。信じる信じないは貴女様次第ですが。では……私はこれで」
黙ったまま包みを見つめる葉月に背を向け、心宿は闇に消えていく。
「蠱毒……?」
ただこの小さな"何か"を飲ませるだけで。
何か、人を操る魔術のようなものだろうか。それとも惚れ薬みたいなものだろうか。この世界には自分の想像を絶する恐ろしいものがたくさんあると、彼女はもう知っている。
――これを試す価値はあるのか。
恐る恐る握り込んで、無表情のまま、葉月は再び歩き出した。
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