7-3 / 絶望の果てに

大きな湖の水は黒く淀み、多くの鉄に喰われている。時間の経った死体はその水を吸い、原型を僅かにとどめる程度でしかない。木は枯れ、獣は腐臭を放ちながら今も尚腐りゆく。多くのエルフの首、多くの辱められた身体、その中に1人のエルフが身を黒く染め倒れていた。

「おい、大丈夫か?!」

肩を揺さぶる。

「酷い怪我だ……」

背中には幾重も裂傷が刻まれ、右手は人差し指が半分と、中指、薬指、小指、そして手の凡そ3分の1が食いちぎられている。足も同様に、左足の指全てと、半分ほどが食われ、右脚大腿部の傷口周辺が腫れている。尾てい骨の上部には焼き印が押されており、それはアクラガスの奴隷であることを示していた。

「左腕はもうだめだな」

焼かれたのか、皮膚が焼けただれている。しかし周囲の泥などによって傷口は化膿し、最早血流は行き届いていなかった。

「切り落とすか?」
「いやいやいや、ちょっと待てよ。ミフルかエマの力でなんとかならないのか」
「無理だね」

エマは即答する。

「僕の魔導は生命を司るものだけど、流石に死んでしまったものは元には戻せないよ。それにミフルに関しても、こんなに闇が溢れるこの地で使ったら、むしろミフルが毒されちゃう」
「つまり選択肢は切って助けるか、切らずして殺すかのどちらかというわけだ。」

淡白としているこの面子に、なぜこうも簡単に見ず知らずのけが人の腕を切り落として助けてやろうという思考になるのか、レイメには甚だ理解できない。確かに、壊死していることは明白だが、もう少しなんとかならないのだろうか。そう思いつつも切り落とすのが最善の方法なのは理解している。

「しかしここで何があったのか、誰にやられたのは知らんが、アクラガスの人間なら1人だけ心当たりあるな」

ローエンの目には激しい嫌悪の感情と、恐怖の感情が入り混じっている。
脳裏に浮かぶのは、かつての幼き日の記憶だった。



生きるために果ての地へと逃れた。
平穏を取り戻すために、そして人のために戦った。
その褒章が、エルフへの裏切りだった。
エルフは迫害され、ある者は辱められ、ある者は永遠の命に絶望し、自ら命を絶った。
ただ、かつてのように楽を奏で、歌えればよかった。
望むものはたったそれだけだったのに。


黒肌のエルフは何かから逃れるように目を覚ました。

「あっ、大丈夫ですか」

レイメは濡れた布を絞り、そのエルフの額に乗せようとする。しかしエルフは目覚めるなり血相を変えて飛び起きる。まるで何かに怯え、そしてレイメの事を敵視しているかのようだった。

「何々、目覚ましたの??」

エマがひょこひょこと近寄ってくる。
エルフはその声に反応して視線を映すが、ますます顔色を悪くした。

「何故、イルがここに居る」

エルフの声が震える。脳裏に蘇る記憶が五感全てに思い出させ、尚且つい先刻のことまでも同時に呼び起こした。

「やっと居場所を見つけたというのに」
「僕なんかしたっけ?」

エマは肩を竦める。

「とりあえず落ち着いてください」

レイメはエルフの背をさする。

「何故」

エルフの瞳は焦点を捉えていない。残った僅かな指で頭を掻きむしり、言葉を何度も吐き捨てる。
エルフの瞳には2つの過去が鮮明に映し出されていた。人間からもオークからも追われ、見境なく殺され、ある者は辱められ、ある者は自ら命を絶った。呪いの言葉を吐きながら姿を醜く変化させ、むしろ殺した者もいた。目の前で弄ばれた仲間もいた。それら全てが目の前にあり、嗤い声も助けを求める声も狂った声も全て、鼓膜を震わせてくる。

目の前で1人の女のエルフが犯されてる。彼女は助けを乞うが、無力なその手は彼女を助けられない。白い汚液が太ももまで濡らす。膣に何度も擦らせ、白磁の肌は最早朱色に染まっていた。
エルフは憎しみの言葉を吐く。その時、腹の底から怒りが込み上げ、彼が喰らわされた怒りが吐き出された。それでようやく視界が現実に戻る。

「だから落ち着いてって言ったのに」

レイメは若干あやすように背をさすり、エルフの体を支える。
血反吐と共に、原形をはっきりと残した吐瀉物が吐き出された。

「それにしても」
「この肉片」
「うわ、ばっちぃ!」
「こら、そう言うことを言わないの!」

空気を読まないエマをいさめる。
何度も咽せ、数度吐き出した後でようやくエルフは落ち着きを取り戻したかのように見えた。

「俺たちは敵じゃないから安心してください」
「…アクラガスの兵じゃないのか?」

虚ろな目でレイメの瞳を見つめる。右目は美しい青色の瞳だったが、左目は黒く染まっている。
エルフを一番近くの枯れ木にもたれかからせる。彼は苦しそうに息を吐き出し、左肩の傷口に、右手の親指と僅かに残った人差し指を食い込ませる。

「安心しろ、近くにアクラガスの人間はいない」

ローエンの声が鈍色の空の下ではっきりと響く。

「生き残りもいなかった」
「…そうか」

レイメは肩を竦める。その傍らでエルフは唇から血を零すほど噛みしめていた。

「一体何があった」

やや責めるような口調で問いかける。

「何をされたかは大体想像がつくが」

ローエンは吐瀉物を一瞥した。その中にははっきりと原形を残した指なんかもいた。それに対して苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「奴らの目的は何だ、何故ここへ来た」


その声にはある種の怒りと、恐怖に近い感情がこもっていた。


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