三橋が何かを呟いた。
口がもそもそと動くのを俺は見た。
でも、その声は上手く俺の耳には届かなくて、もう1度聞こうと思った。
しかし、聞き返しても三橋は黙ったまま。困ったような顔を浮かべるだけだった。
俺は気になったけど、そんな大した内容じゃないのだろう、と気にしないことにした。
三橋は、いつものように白球をミットに向かって投げていた。


三橋が、泣いていた。
部室の隅っこで小さく丸まりながら、啜り泣いていた。嗚咽が微かに聞こえる。
俺はびっくりして、部屋に入った状態のまま部室のドアノブを離してしまった。ドアが勢いよく、バタン!と音を立てて閉まった。
その音に、三橋の背中が大きく揺れる。ユニフォーム姿のままだ。慌てて、目を擦って涙を紛らわそうとしていた。



「三橋、」
「…春野、くん…?」



俺だと分かったからだろうか、その声はひどく震えていて、また背中がびくりと揺れる。これは相当傷つくぞ三橋。
俺が、なにかあったのかと言いながら近づこうとすると、三橋は突然立ち上がって、いつもよりも大きな声で叫んだ。



「こ、ないで!!」
「え…」
「ごめん…俺、いま、すごい、みっともないから…っ」



また涙が溢れでてきたのか、必死に目元を擦る三橋。俺のその後ろ姿しか確認出来なかったから、今、三橋がどんな顔をしているのか分からなかった。
俺はただ立ち尽くすことしか出来なくて、部室には三橋の泣き声が響いているだけだった。
なんで三橋は泣いているんだろうか?また阿部にでもいじめられたのか?それとも他の奴らと?クラス?家庭?
俺はただのマネージャーでしか無いし、三橋とは部活仲間で友達だけど、そんな深い仲でもないので、詮索するようなことはしたくない。
ただ、その弱々しい背中を見守ることしか出来なかった。それがとても悔しい。



「ぅ…、ご、め…出てって…くだ、さ、い」
「でも…。泣いてる人、放っておけないよ。」
「お、おねがい…しま、す…っ」



悲願しているかのようなか細い声に、なんだか心が痛くなる。なぁ、三橋。お前がそんなに苦しむほど泣いてる理由はなんなんだ?問いかけたいが、問いかけられない。
意を決して、三橋の背中に近づいていく。その背中は、マウンドに居る時とは違い、ひどく薄く壊れそうだ。
俺の近付いてくる音に反応しつつも、そこから動く気配は無かった。
手が届く距離まで来ると、ゆっくりと三橋の肩に手を伸ばす。大丈夫だ、と安心させる為に。なにが大丈夫なのかは俺も分からないけど、とりあえずそう言わなくてはいけないと思ったから。
すると、俺の指先が三橋の肩に触れそうになった瞬間、三橋自身が振り返った。
俺の腕は不自然に上がったまま、三橋と向かい合わせになる。
三橋の白い眦は泣いて擦ったせいか、赤く腫れていた。今も現在進行形で涙を流している。目は少し伏せられていた。



「三橋…泣かないで」



そっと、眦にさまよわせていた指先で触れようとすると、手首を掴まれた。
ぐっと強い力。掌の胼胝が固くて、少し痛かった。
俺は慌てて三橋の顔を窺うも、その顔は俯かれていて表情が分からなかった。
ただ、さっきよりも、泣く声が大きくなった気がした。
俺は、三橋が泣き止むまでずっと、手首を握られたままで。
手首が包まれる高い温度を感じながら、部室の床に広がる、丸い涙の染みを見つめていた。

三橋が、小さく呟いた事にも気づかないまま。




泡沫の言葉
( す き だ よ )



101013.