月花に謳う
12
「霜野!霜野!起きて!」
身体をすこし乱暴にゆすられる振動と聞き知った声に一気に意識が暗闇から引き上げられる。
「……香ちゃ、」
「ごめん、でも魘されてたから」
「ううん、いいよ」
すまなさそうに謝る香に構わないと首を振る。頬や首筋に冷や汗で張りついた髪の毛が気持ち悪い。心臓も走った後のように跳ねてうるさくて、米神をどくどくと血が巡って騒ぐ。
あれはもう何か月も前のことだというのに。今でも悠璃が見る悪夢の一つだった。こちらを見る回数は少ないがやはり時折思い出したように見るのだ。
自分でも情けない。被害者ぶっているつもりもない。けれど、あのとき体験した恐怖だけは忘れられない。心臓に氷塊を突っ込まれたかのように身体の、脳の芯から冷えて行く感覚。
「霜野……」
ぼんやりと視線を漂わせる悠璃の指先に触れようと香が手を伸ばして。
「っ!」
悠璃は反射的に肩をびくり、と跳ねさせた。完全な無意識。
それに香は驚いた表情をした後、ちょっと寂しそうに苦笑した。違う。こんな表情をさせたくなんかない。そんな、傷ついたような泣きそうな表情を。
「ごめんね、霜野」
「ちが…っ」
香ちゃんを拒絶したわけじゃない。そんなつもりじゃなかった。彼に非があるわけじゃない。深層心理下に眠る忌々しい恐怖の遺残のせいだ。ひとに触れられるのは苦手だけれど、今のことは意図したものじゃない。
香も悠璃の大切なひとだ。自分では踏み込めないことを知っていて、線引きをしてくれる優しく思慮深い彼に信頼と親愛を抱いているのに。罪悪感を抱かせてしまったことがこんなにも辛い。
目の奥が熱くなって、でも辛いのは香ちゃんの方だ、と脣をきゅっと噛んで抑え込む。
「香ちゃん」
「ん?」
こちらを覗きこむ香ちゃんの表情は穏やかな微笑。見ているこちらがほっとするような小春日のような。先程のことなど露ほども感じさせない、こちらをただ思いやる笑みだった。
そんなに思ってくれていることが泣きたくなるくらい嬉しい。
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