わたしは


いくら鍛えられたネッドの肉体でも昼夜月歩で駆け続けるのには限界があった。
海は厳しい。そこが新世界ならば尚更だ。
パラダイスと呼ばれる前半の海よりも至極兇悪である。
しかしネッドは止まらない。
嵐を受けて風に凪ぎ払われ、冷たい雨に体温を奪われても最小限の休憩を挟めるだけで彼は走り続けた。

圧倒的に睡眠が足りない。
空腹を凌ぐために途中で小さな島に寄ったが、食べられるものと言えば果物や小動物ばかりで満たされることは無かった。
けれども、気力は十分なほど満ちている。
気持ちは日が経つごとに逸るばかりだ。

だが、これはどうだろう。ネッドの前に今、大きな壁が立ちはだかっていた。

「……不死鳥」

なぜ、と問う声にマルコは、ふん、と鼻で笑った。
確かにまたなとは言ったがこの再会は早過ぎる。
両腕を青い比翼から生身の腕へと変えて前方に存在する海賊は、困惑するネッドの質問に全くおもしろくも無さそうな顔で「オヤジがアンタと話がしたいとよ」と答えた。
は、と息が切れる。全然話が見えない。

「いいから、来いよい」
「辞表はどうした」
「あんなもん、てめェの上司に蹴りつけてやった」
「…そうか」
「破り捨てなかっただけありがたく思えよい」
「ああ」

すまなかった。ありがとう。
感謝の気持ちを素直に述べるネッドにマルコは僅かに息を詰め、視線を下げると小さく舌打ちを零して抵抗しないネッドの腕を掴んだ。
“北の海”出身のネッドは女も羨むほど色が白い。
戦闘以外の目的で初めてふれたマルコの手はとても大きく、細身ですらりとしたネッドの手首を一周していた。

「ボロボロじゃねえか」
「急いでいるんだ、仕方が無い」
「…追手の心配をしてるのかよい」
「ああ、まあ。…そうだな。流石に今は黄猿殿が追いかけてくれば私も観念するしかなくなる。あの速さは脅威だ」

意外としっかり返答しているがネッドは十分驚いていた。
マルコに手を引かれて砂浜を歩いているこの状況にも。
ゆっくりと姿を現した白鯨の影にも。
何よりも、マルコの姿を見てほっとしてしまった自分に一番驚いている。

かつての同胞よりも宿敵の登場に安堵するなど、思ったよりも自分は参っているのだとネッドは簡単に結論付けた。


不死鳥に捕まえられて下り立ったモビー・ディック号には船長である白ひげはもちろん、マルコの家族であるクルーが待ち構えていた。
とても見覚えのある隊長格が大きな影を囲む。
辞表は出したといっても数日前までは海兵だったネッドを歓迎している雰囲気では無い。
ネッドが未だ身に纏う白いコートに突き刺さる敵意は、彼の無表情を変えることも出来なかったけれど。

「グララララ…小僧、やっぱり生きてたか。随分と探したぜ…」
「それはまあ、どうも…。何度か危うい場面もありましたがお宅の長男には貸しを作ったままですし、決着も付いていない。何よりも…私には会わねばならない人がいる。簡単には死ねませんし殺されてもやれません」
「えらく生意気な口をきくじゃねぇか。なァ、マルコ」
「…まったくだよい」

伝説と謳われる白ひげを前にしてもネッドには怯む様子も見られない。
まっ直ぐと伸ばされた背筋に相変わらずの無表情。
確かに、強い威圧は受けている。
ヒシヒシと屈服を促す四皇“白ひげ”エドワード・ニューゲートの覇気は、気を抜けば今にも膝を折ってしまいそうなほど重い。

「して、御用件はなんでしょう」

申しわけないが急ぐ旅路ですので手短に願います。
敬意は払いつつも長めの前髪に隠されたネッドの黒い瞳は、強い意志を込めて、白ひげの睨みを真っ向から受け止めた。
光の加減によって時に藍色を帯びる瞳に曇る影も無し。
ざわりとさざめいた周囲とは違い、細く眇めた白ひげの瞳に僅かな色が灯りふっと消える。

そう急くんじゃねェよ、ハナッタレが。
言って白ひげの口がニヤリと獰猛に笑った。

「マルコから聞いた。おめェの身内が海賊になったてなァ…」
「……」
「会いたい奴ってェのは、その身内か」
「そうだと言ったら?」
「…会ってどうする。テメェの手で捕まえるつもりかァ、小僧」

グッと気迫が増して、は、と息が切れる。
正直を言えば白ひげは恐ろしい。
けれども考えるより早くネッドは違うと答えていた。
ローは大切な弟で、たったひとりの家族だ。
どうしてそんな風に思われてしまったのかネッドには不思議でならなかった。

「私の正義は彼の物だ」

「彼が生まれた時から今もそれに変わりは無い。だから、ローが…弟が海賊になることを決めたのならば私もそれを受け入れる」

「何よりも彼の自由にさせてやりたい」

「けれども…あの金額を見たら…兄としては一刻も早く弟の傍に行かねばならなくてはと、思って」

全ては弟を守るために。
たとえ私の手が振り払われるとしても。
家族の元へ行くのにそれ以上の理由が必要だろうか。

元々ネッドは理想をかかげて正義を行使する為に海軍にいたわけではない。
強いて言えばあそこは金払いが他よりも良かったからだ。
上を目指せば重責も危険も増えるが頂ける給料も段違いとなる。多くの危険は伴うがその分、旨みが無ければやってられない。
ネッドのような考えを持つものは恐らく少数派だろうが、ネッドにはその考えを改める気は更々無かった。

両親を失った時、彼らはまだ幼かった。
引き取り手の親戚とてそう豊かなひとでは無い。どちらかといえば貧しい部類に入るだろう。
だから、強くなるために、ネッドにはその素質があったから、一人にさせてしまうのは忍びないが彼を遠くからでも援助したいがために、ネッドは海軍の門を叩いたのだ。

「もちろん、昔は海賊になる道もお誘いも私にはあった。しかし他人から奪った金で弟を養うのは…正直、兄としては不味い。ああ、不味いな。うん。弟に胸を張れないようでは兄としては失格だ」

僅かながら恥ずかしそうに表情筋を引きつらせたネッドは、これではダメだろうかと白ひげを見上げた。
すると、なぜだろう。
目の前の大きな肩がふるりと揺れていた。首を傾げる。
次いで一拍のあと、特徴的な笑い声がその場に響く。

「グララララ…――そうか、良いじゃねェか。家族のためになァ…」
「…ん?」
「おいマルコ」
「なんだよい、オヤジ」
「こいつの世話はおめェがしてやれ」
「……よい?」
「……は?」

「グララララ……おれはてめェが気に入ったぜ、生意気だが威勢も良い。今海兵どもに渡してやるのも癪だ…。おれが向こう側まで連れていってやろうじゃねェか…」

ぱちりと瞬いてマルコとネッドは顔を見合わせた。
遠慮するなァ小僧。おれの息子もどうやら随分と気に入ってるようだが、どうだ、いっそのこと息子になるか? 嗚呼? とまで言われて、慌てて頭を振ったネッドに白ひげはまた獰猛な悪いひとの笑みを浮かべる。

逃がさねえと脅迫を受けているようでネッドには逆らえる気がしなかった。

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