あの子の心臓


ふっと暗やみの中で瞼を押し上げた。

長い睫毛を上下させたネッドは焦点の合わない瞳で、自分を抱き込むローの胸から、鎖骨、喉仏、顎、影を落としたローの瞼まで順に来て首を巡らす。
ルフィは一命を止めた。けれど容体がいつ急変するか分からないため、ずっと眠り続ける彼の元に詰めていた彼をここまで引っ張って来たのはネッドだ。

疲れているローは腕の中でもぞりと身じろいだ動きにも目を覚まさない。
喉の渇きを覚えたネッドはそっと腕から抜けだし、キッチンへと向かうために船長室のドアを開けた。


「頂上決戦」から一週間ほど過ぎた今、ハートの黄色い潜水艦は凪ぎの帯を渡り“女ヶ島”の湾岸に停泊を許されている。

マリンフォードから辛くも逃げ切った潜水艦は一度海面へと浮上をし、そこに追いついた一隻の軍艦を捉えた時はひどく焦っていた。
が、しかし此方へ降りて来た“海賊女帝”ボア・ハンコックがルフィを案じて来たのだと分かると、何故とも、どういう繋がりだ、とも思いながらも彼女の提案を受け入れここまで来たのだった。
全ては、ルフィの療養のため。
その為には男子禁制の「アマゾン・リリー」も特例を許した。

ルフィと共に収容されたジンベエもここに留まっている。
重症な身体をおしてルフィの目覚めを待つ彼は、一時期悲しみに落ち着かぬと言って横になる事さえも拒んだ。
義に熱いジンベエもまた、白ひげとエースの死に傷付いたひとりである。

自分の命を救ったローに礼を言った後、ジンベエはその隣に立つネッドを見てとても驚いていた。
彼もドフラミンゴ同様、何度か顔を会わせたことのある人物だ。
七武海を辞めたジンベエもまた追われる身。
ルフィの回復を見届けるまで留まるつもりだと告げたジンベエに、ネッドはただ静かに海を見た。


コップ一杯に並々と汲んだ水を少しなめ、唇を湿らせてから一気に呷る。音を立てて喉を通ったぬるい水を嚥下したネッドは、コップを流しに返してキッチンから出た。
コツコツと靴音を鳴らし夜に沈む潜水艦の通路を歩き、処置室の前に丁度差し掛かったネッドは緩やかに足を止める。

ルフィは、未だ昏々と眠り続けている。
延命装置に繋がれたまま命を繋いでいるルフィの全身はぐるぐるに包帯で覆われていて見るだけでも痛々しい様だ。
ルフィは、やはり目の前で兄を亡くしたのだと言う。
自分を庇い。赤犬に兄は貫かれた。

処置室のドアに凭れかかるように居座るジンベエも、マルコも、それを目撃したのだろう。
ネッドは目を瞑り岩のようにじっとしたまま動かぬ魚人に声をかける事もなく歩みを再開した。
薄暗い影に去りゆく背にジンベエがうっすらと瞳を開けて視線を流したのを、ネッドは知りながらも振り向けなかった。

キィ、とドアを軋ませて船長室に入る。
ネッドはベッドに向かいながら時間を確認し、もう二三時間は起こさずに寝かせてあげようと、そっと身を屈めた。
すうすうとローの唇から呼吸音が漏れる。
ネッドが出ていった時とは少し体勢を変えていた彼は、伸ばした腕をベッドの外に放り投げていた。

「…ロー」

溜息のような声が室内に落とされる。
指を伸ばして闇に浮かぶ輪郭を捉え、触れるか触れないかの微妙な加減でローの腕を撫でたネッドは、静かに上下する胸に耳を寄せた。
ローのかたちに沈むベッドに膝を立て、鼓動を確認する。

規則的な動きをしていた心臓が急に早まった気がした。
頭をローの胸に懐くように置いたネッドは自分の胸に手を当てて、冴えてしまった瞳を閉じる。

ネッドのここに、自分の心臓は無い。
ローの胸にも、彼の心臓は無い。
あるのは互いに交換し合った命だ。
ローがそれを望み、未だに返さず、ずっと抱きしめている。

マリンフォードでの戦争が始まる前にローはネッドの心臓を求めた。例え一時でも、ネッドが自分の元から離れるのが嫌だったローは、離れる代わりにネッドの一部を求めた。
ぽっかりと空いた胸にローは自分の心臓を差し出し、これを代わりに持てと無茶を言った。

これでは死ねない。ネッドには死ぬつもりも欠けるつもりも全く無かったが、信用しないローの執着を改めて強く感じさせられた。
ローは信用しない。この手が離れることをずっと恐れたままだ。どこにも行かないのに。ずっとそばに居ると誓ったのに、ローは信じない。
それが時に不安を生む。

もしも、ローは、自分がエースのような終わりを迎えたらどうなってしまうのだろうか。

人は遅かれ早かれ死ぬものだ。
ネッドは自分が大往生して死ぬのかも道半ばにして死ぬのかも生きている今は分からなかったが、ローを置いて先に逝く事だけは分かっていた。

「…ロー」

ネッドはローを愛している。
たったひとりの家族で、愛しい弟だ。
ネッドは怨まれてても良かった。憎まれてても良かった。
ただ健やかであればそれ以上何も望んでない。

死を恐れぬ人間などいないとネッドは思う。
遅かれ早かれ不意に突然ゆっくりと命を取り落とす。

彼の魂を傷つけて殺すのは自分だと分かっていたネッドは、ローの心臓を抱きしめたまま遠い未来の自分をひどく怨んだ。

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