分岐点 extra

【始めに】

さて、番外編というかif、もしもというお話です。
読まれる前に以下の注意事項を確りと確認願います。

・創の死ネタ熱が上がった、勢いだけのお話。また無駄に長い。
・連載の兄主の性格を期待して読むと横っ面をマンドラゴラで引っ叩かれたような顔になります( °Д°)
・要素:原作美味しいとこ取り/全体的に仄暗い/傍観?/人外主/死ネタ
・もしも兄主が教授の双子兄になる前に一度別な形で転生を経由していたら…それが原作エンドだったら…という俺得。よって性格は転生前のカストル・ブラックさん寄り。

です。以上を把握してお進みくださいねー。…変換なんてなにそれおいしいの状態です。



***


ストレイキャット


『 貴方に、もう一度逢いたい人はいますか? 』
『ええ――、もちろん』




カリカリと爪でドアを引っ掻く。
暫しの間があって、薄く開いた隙間から男が瞳をのぞかせていた。
なんだ、またお前か。
言葉は無くともそう言われている気がした。しかしそんな男の視線に構う事無く、するりとしなやかな身を難なくすべり込ませていた。

また邪魔をするぞ。
横をすり抜ける際に、一度だけぺしりと尻尾で男に挨拶をくれてやると、男の顔が渋面を作った。どうやら不満があるらしい。
それにまた素知らぬ振りをし、我が物顔で室内を横切ると暖炉の前に置かれてあるソファで丸くなった。(ここが俺の定位置だ)
そんな俺を見た男の口から諦めたような溜息を一つ頂戴する。
カツカツカツ。真横を通った黒いローブが髭をかすめ、薄目を開けると、己の机に向かう男の後ろ姿が良く見えた。(そこが男の定位置だ)

黒く、芯の通ったような真っ直ぐな背だ。まるで干渉される事を一切拒むような。アレに爪を立てたらさぞ愉快であろう。

男は寡黙だ。
無表情で、厳しく、眉間の皺が増える事はあっても減りはしない男。他者を寄せ付けない雰囲気は、いっそ見事と言ってよい。
表情筋を歪ませて作る僅かな表情でさえ、乏しいのだ。
好んで近寄る輩などいやしないだろう。俺以外に。
果たしてこの男に、笑みを浮かべるという機能が備わっているのかさえ疑問に思う。そして。

男は孤独だった―――…、悲しいほどに。


何度目か最早覚えていない考察が、ふっと、途切れる。
火の入ったばかりの暖炉でパチリと薪がはぜた。
冷え冷えとした地下の空気に、羊皮紙を引っ掻く音だけが穏やかに浸透する。
ここは静かだ。
外の世界とドア一枚で遮断されたこの空間は、まるで切り取られてしまったような錯覚を覚える程だ。静謐とも言える。
主の気質を写し取った様な薄暗い部屋は、俺にとっても過ごしやすい空間でもあった。今、この瞬間も。互いに背を向け続けて。

一人と、ひとり。
何故、俺はこの男の元へ訪れ続けるのだろう。
この男に飼われている訳でも無い俺が通う理由など、何も浮かばない。
まだ、まだ。

媚もせず、啼きもせず、ただ俺はここに在る。


***


男と俺の出会いを説明する前に、先ず俺の事から話をしよう。

俺は今の『俺』となる以前は、一人の人間としてこの世に生を受けた存在だった。
そう、だった。俺は一度死した個体だ。
なのにまた、此処で生きている。

別段未練があった訳でも無い。
故にまたこの世に再び舞い戻って来た時には、夢の続きかと疑ったほどだ。それほど今の俺は、以前の俺とはかけ離れた存在へとなり下がっていた。
今ではそれなりに気に入ってはいるが。

手に入れたのは黒く艶やかな毛並み。しなやかで柔軟な躰。意志のままに揺れ動く尻尾。エメラルドを模したようなピカピカの虹彩。

生前に取っていたアニメ―ガスとは全く違う獣姿。初めは戸惑う事も多かったが、それも時期に慣れた。
マグル界では生まれ落ちた瞬間から忌避され嫌煙されたこの姿も、こと魔法界においては使い魔に相応しい容姿だ。
まあ仕える気などさらさら無いが。
流れ流れて、時と共に住いを移し、見覚えのあるこの城に住み着く事にしたのだ。

そして偶々、この男に出会った。

遭遇場所はホグワーツ特急の列車内だった。
独りコンパートメントに入って来た男が、先客として優雅に寝そべる俺と同席したのが始まりだ。あまりにも俺が堂々としていたものだから、一瞬男が固まった光景は忘れもしない。

何故、此処に猫が。
そう思っている事が手に取る様に分かった。しかしこの男。一度踏み入れたそこから移動するのも面倒と思い直したのか、極普通に座り荷物を引き寄せ、本を読む事で俺を視界から追い払う事を選んだのだ。
だからだろうか。この男に付いて行こうと気まぐれを起こしたのは。
まだまだあの時は男も俺も、若かった。

あの日から九年。
俺はずっと、この男の傍で流れる時を見つめ続けている。


***


最近男がイライラしている。
その理由は今年入学してきた一人の生徒にあるようだ。

凡庸、傲慢、規則破り、有名である事を鼻にかける、目立ちたがり、生意気。

ぐるぐると歩き回る男がブツブツと呟く。聞き取れた言葉から得た情報によると、とんでもない子供に聞こえる。そんなに嫌ならば無視をすれば良いのにな。
気にいらないならば追い出せば良いだけの事。お前もスリザリンならば相手に決して悟られること無く、事を運べ。
だから脚にそんな大怪我を負うのだ。馬鹿者。


***


また一年が過ぎた。
今年はまた以前のように静かに過ごせと視線で訴えたものの、どうやら今度は気にいらない男が居るらしい。…忙しい奴だな。

能無しが、と愚痴を言う男に冷めた視線を送る。
尻尾がソファの上で気ままに跳ねていた。
じとっと見つめる俺に気付くも男は、呪い殺さんばかりの形相で杖を磨いていた。
どうやら今夜は死人が出るらしい。
それも杞憂に終わったが。
…そういえば最近Mrs.ノリスを見ていないな。
彼女は意外とおしゃべりで毛づくろいがうまい。

なんて事だ…、俺の腹に毛玉が出来ている。


***


臭い臭い! なんだこの匂いは!

例の生徒が入学して三年目。鼻が曲がりそうな匂いが充満した室内で俺は、酷い匂いと戦っていた。優雅に毛づくろいをする気分にもなれん。
まったく、獣の優れた嗅覚はこういう時に困るのだ。
ヒクヒクと勝手に動く鼻が中央に寄り、尖った牙が覗いて威嚇する顔になっていた。まるで匂いの元を煎じるこの男の様ではないか。なんて事だ。

「セブルス、君、猫を飼っていたんだね…」

穏やかな微笑みを浮かべ、今年度の男のイラつき原因が小首を傾げながら黒衣の後ろ姿へ声を掛ける。

手が伸びてきた。すっと避ける。また伸びた。
たんっと床を蹴って飛び退く。高い身体能力をもつこの身では造作も無いこと。
シャーッ! という獣らしい威嚇音までが俺の口から出る始末だ。俺は苛立ちから傍にいた男の脚へ、俺にあの獣臭い奴を近付けるな、と尻尾で叩きつけた。直ぐに睨まれたが。

「残念。どうやら凄く嫌われちゃったみたいだね」
「フン、貴様の人狼の匂いを嗅ぎ取ったのだろうな」
「ああ…そう、かもね。それにしても意外だ。君に懐く動物がいるとは思わなかったよ…すごく綺麗な猫だ」
「別に懐いている訳ではない。元々誰にも触らせぬ奴なのだ。…それと、一つ勘違いをしているようだが、これは我輩の飼い猫でもなければ我輩が餌をくれている訳でも無い」
「へえー…でも、その割に、」
「――さっさとこれを飲んで出て行ってもらいたいのですがね、ルーピン」

男が突き出したゴブレットを受け取り、ぐびりと一気に飲んだ。
酷い味だ。
そう感想を述べて出て行く後ろ姿。地下に静寂が戻ったが、匂いの元は未だこの場にふつふつと煮立ち、煙を上げていた。

この後にまた、男が酷く荒れる事件があった。

あの時、あの場で、復讐というには生ぬるい狂気を宿した瞳の奥に、押しつぶされそうな苦悶と悲しみを見た。俺だけが見ていた。握りしめられた掌も血の気が無い。俺だけが知っていた。
何故…誰も気が付かない。
薄暗い部屋で打ちのめされ独り震える背。それを支えるモノはない。男は拒む。その資格も無いと、ただ拒む。頑なな男。
何故、何故、この男は誰の手も必要としないのだ。

なあ。佇むその足元で、俺が見上げている事を早く気付け。

みすぼらしいなりをした、人狼の男。
奴が城を去る事になった時。一番に喜んでいたのは男では無く、この俺だったというのは俺だけが知る事だ。


***


四年目。
城内が騒がしい。生徒とまた違う、見慣れぬ格好の輩が混じっている。外は騒がしい。だが此処は静かだ。
不審極まりない侵入者さえ来なければ。

あの生徒が入学してから、毎年のように苛立つ男の様子がおかしい。

気を張り詰めさせ、時折痛むのだろうか左手を押さえる。爪を立てる事もあった。血が滲むほど。
その度に俺が、やめておけ、と男の脚を叩く。
ハッと我に返る男が、じっと感情の読めない瞳で俺を見下ろす回数も増えた。ひどく、顔色も悪い。感情を外へ出さず内に秘める男が憎らしいものに思えた。馬鹿者。溜めこむくらいなら叫んでしまえ!


ああ、とうとう、この日が来たか。
見上げた空に暗雲が立ち込め、不気味な髑髏がニタリと嗤う。

この男の、かつて仕えた主人が帰還したらしい。子供が一人犠牲になった。
男が決意を固め独り闇に身を投じる姿を、その決然とした背を見送る。他に見送りは無い。俺だけだ。
俺はただ、男の無事を信じていた。

誰でもいい。誰か俺の代わりに伝えてくれ。
お前は闇では無く、この世界に広がる夜こそが似合うのだと。
闇は先が見えないが、夜は星が道を示してくれるのだと。


***


五年目だ。
男と出会ってもう十四年が過ぎたのか。

例の生徒が男の研究室に通う様になった。個人レッスンというものをしているらしい。…あれほど嫌っていたのに?
此処へ来て初めて俺の姿を見たらしい子供は、エメラルドの瞳を大きく見開いていた。俺も子供を初めて見た。くしゃくしゃの黒髪をもった子供は平凡な子供に感じられた。ねこ、と口が喘ぐように動いた気がする。
それも直ぐに、視界を遮る黒衣によって隠されてしまったが。

レッスンは暫く続いた。
しかしそれも長くは持たず、ある日、大きな物音がしたと思えば子供が飛び出していった。

また、男が荒れた。

手当たり次第にその場にあった物を破壊する男。
今はそっとしておいてやりたくなった。
過去に犯した、取り戻しえぬ過ち。失敗。屈辱。恥ずかしめ。
ペンシ―ブに湛えられた溶液に踊る記憶を、あの子供に見られた事は男の心に刻まれた深い傷を、大きく抉った。

俺は知っていた。
この男が抱える闇を。
長い時を共にすれば知りえる事とて多くある。
だから。そうだ。俺も見たのだ。あの子供が覗く前に、男が席を外した隙に。全て。俺は知りたかった。独りよがりな願いと分かっていても理解したかった。
男が味わった屈辱も後悔も、その後に起きた悲劇も、男がこの場に留まり続けあの子供に係わらざるを得ない理由も。

寡黙な男の、孤独な理由を。

嗚呼、嗚呼、何故俺は、人では無いのか。
彼女が存在しないこの世は、生きている意味さえ見つけられないというのか。
思い出に縋る男を女々しいなどと誰が言えようか。


この男は、絶望を知っている。


***


男がDADAの教鞭をとる事になった六年目。
白い髭の魔法使いが俺の元へやってきた。

キラキラと輝くブルーの瞳が俺をしげしげと眺め、深く頷いて俺を手招いた。歩きだす。ついて来いと言う意味らしい。
ガーゴイル像を抜け、階段を上り、扉を開くとそこは校長室だった。

「君も長い事ホグワーツに居るようだが、こうして二人で話すのは初めてじゃな」

二人? 何を馬鹿な。一人と一匹。この白髭からみたらそうなるのではないだろうか。

「そうでもあるが、そうとは限らないのが魔法界というものじゃ。君の瞳は…獣には有るまじき理知の光を宿しておる。間違いなく。わしも長い時を生きたが、君の様な奇妙な在り方をする存在は初めて御目にかかった」

この魔法使いと会話が成立している事に俺は衝撃を受けた。ぶるりと尻尾の先まで震えが伝う。Mrs.ノリスと話せるフィルチ――スクイブでさえ俺とは会話出来なかったのに、だ。
先程から見返すブルーの瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えてもいたが…もしやこれは開心術か。そうだとしたらなんと熟達した使い手なのだろう。
男には為し得なかった意志の疎通。こんなに近くに自分の考えを読みとれる存在がいたなど。しかし何故。今になって。

混乱する俺を置いて、魔法使いは会話を続けた。


「セブルスの傍に君の様な理解者がいた事を、わしは嬉しく思うておる。彼は誤解されやすく、また、彼自身も理解される事を求めてはおらぬ。…自分の心を知られる事を恥じておるのじゃよ」

理解者だと? いや違う、俺はただの傍観者に過ぎない。そう反論するも魔法使いは首を振るだけだった。

「しかし君の存在は彼に僅かながらも影響を及ぼしているようじゃ。君の事を聞くと、彼はそう、少し、他とは違う反応を返す。知っておったかな?」

萎びれた手に視線を落とした魔法使いは、どこか遠くを見つめているようにも見えた。黒ずんだそこから漂うのは、馨しい、死の匂い。嗅ぎ慣れた匂いだった。
ひたりと、俺に視線を合わす。

「どうかこれからも、セブルスの傍で在り続けてやって欲しい。彼の為に」


――老い先短い老人からの最期の頼みじゃ。頼む。


なんと一方的な頼み事だろう。そう思う。
そして実に身勝手だとも。
締めくくられた言葉に俺は睨み返す。

俺は知っていた。魔法使いが男に課した過酷な使命を。贖罪という道へ誘導し、あまりにも悲しい運命を背負わせ続けている事も。男が受け入れている事実も。
俺は怒りを抱いていた。例えこの魔法使いに男が恩を感じていようと、全てを投じる覚悟で生きる男を憐れんでいようともだ。

そしてまた一つ、男に罪を抱えさせようとしているのだ。この目の前の老人は。
しかし、俺には止められない。

(言われずとも、そうするつもりだ)

男の為に、という言葉が俺を突き動かす。
死を目前に控えた魔法使いと俺だけの約束。
力強く見返すと魔法使いは満足そうに頷いて、ありがとう、と言った。彼の悲報が報じられたのは、それから間もなくしてからだ。
城から、地下から、男が消えた。逃亡したのだと誰かが囁いていた。

俺は待つ。男が帰って来るのを。
静寂の下りた地下はとても冷えていて、早くこの暖炉に火が灯る日を心待ちにした。


***


男が帰って来た。
七年目にして、校長という職に就いた男は部屋に入るとひどく驚いた顔をした。共に居て十六年。初めてと言って良いほど間抜けに見えたその顔は、困惑に揺れる。

「なぜ、ここにいる…」

校長室の奥に位置する机の上。
そこで優雅に寛いでいた俺を指して男は唸る。俺が合い言葉も無しに侵入することが出来ていたのは、ひとえに、あの魔法使いの仕業だと言えよう。

音も無く近づき、直ぐ傍で佇んだ男。
伸びをして立ち上がれば男の匂いが鼻をかすめた。見返すエメラルドの虹彩に、以前よりも痩せた顔色の悪い男が映り込む。目尻が少し赤い。泣いたのだろうか? …独りで?

にゃー、と男に向かって初めて啼いて見せた。
また男が驚いたので、その胸元に一度、頬を擦り付けた。
にゃー、とまた啼いて見上げる。
ぱたりと尻尾が、焦れたように机を叩いた。やはり足を叩かねば、男は不満なのか。


「…待っていたとでも言うつもりなのか、お前は」


言葉に肯定を示す。
そうだ。俺はお前を待っていた。必ず帰ると信じていたのだ。だから俺は、この場に在る。
ふっと、男の無表情が少し和らいだ。僅かな変化ではあったが、見慣れた俺にはそれだけで十分伝わった。
躊躇う指先が艶やかな毛並みに触れる。

初めて俺を撫でたその手は、少し冷たくて、ひどく優しい手だった。






嗚呼、嗚呼、なのに、なんで。
男は今、俺の目の前で横たわっているのだろう。



***


嫌な予感はしていた。
校長室を出て行った男が帰ってこなかったのだ。

少し意識が飛んでいたらしい俺は痛む身体を起こし、伏せる男の傍へ行こうとする。だが全身を駆けぬける激痛に立ち上がれもせず、その場で耐えるようにカタカタと震えだす。
後ろ足をやられていた。肉が削げ、骨が覗き、俺の周囲に血だまりを生む。
…ああ、思い出した。これはあの蛇にやられた傷だ。
喉元へ喰らい付き、男を屠る為に貫いた、あの蛇に!
男の上げた恐ろしい悲鳴が今でも耳に残っている…。

その光景に目を奪われ、俺は頭が真っ白になり、気が付いたら駆けだしていた。
敵う筈が無いことなど頭には無かった。ただただ夢中で。止めろと、奪わないでくれと、小さなこの身を男へ被さる檻に叩きつけていた。

――結果など、ご覧の通りだ。
血だまりに横たわる男にさえ近づけずに、ゼイゼイと荒い息を吐きながらその場に蹲っている。


「ハリー!」

押し殺したような少女の声が聞こえた。僅かな物音がし、空気が動く。何者かが確かにいるのは分かるが姿は見えず、警戒から喉奥が唸る。
何も無い空間から俺へ向けて、手が差し出されていた。

「…お願い。少しの間だけ、僕を受け入れて」

嗚呼、…あの子供の声だ。
緊張に戦慄いていた背を抑えた手が、労わるようそっと俺を抱き上げる。
最早抵抗する体力さえ惜しいと思っていた俺は身を預け、男の元へ運ばれるとその礼に手のひらをぺろりと舐めた。
バサリと被っていたマントを脱いだ子供は、表情を欠いた面に戸惑いをのせたまま、死にゆく男へ片膝をつく。俺は男の横顔をすぐ傍で見下ろし、頬へ顔を寄せていた。

「その猫は…?」
「…スネイプの猫だ」

少しでも生き永らえさせようとしてくれているのか、子供の指が男の傷口を押さえている。
血の気が失せ、紙のように蒼白となった男の顔。苦しそうにゼイゼイと荒い息を漏らす唇が震え、何かを伝えようとしていた。
子供が聞き取ろうと屈むと男は彼の胸元を掴んで引き寄せ、自身からあふれ出した青みがかった銀色のものを――あれは、記憶だ――汲み取れと言う。
その意味を理解した俺はぐっと感情が込み上げ、瞳からころりと一滴涙が零れ落ち、銀色に溶けていった。
子供の震える手で、フラスコいっぱいに男の記憶が収められる。

そうか、もう、時間が無いのか。
もう話す時さえ残されてはいないのだな。

男を見下ろす二対のエメラルド。
一方は惑いに揺れ、一方は悲しみに染まる。
この場を埋め尽くす濃厚な死の香気は、中心たる男を呑み込み、共に横たわる影の中へと引き摺りこもうとしていた。
俺の鼓動もゆるやかに機能を落としていく。…血を流し過ぎていた。
男の黒と、子供の緑が一瞬繋がる。


「僕を……見て……くれ……」


男が、囁いた。
暗く無表情な瞳が一点を見つめ、虚ろになり、
(ああ、ダメだ)
耐えきれず、俺は――、


「にゃー」

「ああ……お前も……だった……な……」


緩んだ男の手がドサリと床に落ちた。
男はそれきり、動かなくなった。


***


息絶えた男の横で丸くなりながら重くなった瞼を俺も下す。
共にいた十六年。それは今や俺の誇りとなっていた。
寡黙で孤独な男の傍に在れた。
時間は掛ったが、お互いに向き合うことが出来た。
撫でる手が優しいのだと知ることが出来た。

嗚呼、今ならこの男の元へ訪れていた理由が分かる気がする。

そうか、俺は、この男を、


――――愛してやりたいと、思っていたのだ。


***


ぱちりぱちりと、暖炉で赤々と燃える炎が地下を暖かく照らす。
その前に置かれたソファでは男の膝に陣取って眠るひとがいた。
姿かたちは鏡に映し取ったように、そっくりな二人。
男は本を片手にページを捲り、時折、思い出したように膝に流れる黒髪を撫でている。

くすくすと笑いながら、眠りから覚めた。

「ねね、くすぐったいんだけど」
「…それくらい我慢しろ」
「顎まで撫でちゃって、…俺は猫じゃないんだけどねー」
「似たようなものだろう?」
「ふうん」
「…なんだ」
「ん? 別に? 愛玩動物並みに愛されちゃってるなーって思っただけだし」
「…………」
「照れるくらいならキスの一つでも下さい」
「…馬鹿者」

照れてそっぽを向いた男が――セブルスが可愛くて。俺は彼の瞳を追いかけた。


「セブルス、愛しているよ。俺の愛しい弟」


セネカと俺を呼ぶ声が、俺がただ此処に在るのだけでは無いのだと教えてくれる。
俺は君にもう一度逢うためだけに生まれてきたんだよ。



『 何故会いたいのですか? 』
『彼の孤独を吸い上げ、愛してやりたいからに決まってる』

←|×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -