三年目の熱
藍を彩る、落ちる日の光。
いくつもの煙突から吐き出される白い燻煙。
茜色を染み込ませた厚い雲に突き立つ黒い柱から、それはもやもやと盛り上がり、たなびく雲へと霞みのようにとける。
日の入りが遅いイギリスの夏には、まだ明るくとも夜の気配は確かに忍び寄っていた。
足早に駆け込んで家路を辿るマグル達。
夕食を用意する音と匂いが、荒れ果てた街のあちこちで漂い始めた。
お腹を空かせた子供達は特に、声を上げて競うように、兄弟や友人とともに細い路地へ迷うこと無く潜り込み、人の気配が絶える。
一日で一番。ひとが生活しているのだと落ち着ける、ありふれた風景とも言えなくもない。
そして。ここにも一人。
愛する家族の元へと急ぐ者がいた。
影は、壊れた外灯と荒れ屋のようなレンガ建ての家々を通り過ぎ、一番奥に構えた、細長い古びた家屋の前で立ち止まる。
戸口にはめ込まれた小さな子窓に滲むあかり。
それを確認してぶるるっと影が戦慄くように身をふるわせ、そのままノックもせずに玄関を潜り抜けた。
ギッ、バタン!
後ろ脚で蹴るようにドアを閉め、居間を通り越して二階へと駆け上がる。
いつもなら…彼は部屋に籠っているはずだ。
しかし。そう思っていた、目的の人物がいないと分かるや直ぐにまた転げるように駆け下り――音を聞き付けてキッチンから顔を出したセブルスへ、黒い影が覆い被さった。
「ッ、う、わぁ!」
その叫び声は、驚きからではなく、襲いかかられて反射的にこぼれ落ちた声だった。
彼はバランスを崩して思わずたたらを踏み、年季の入ったダイニングテーブルの端に手を突く。
体重をかけられながらも踏み止まったセブルスだったが、自分に被さる『黒い毛むくじゃら』にベロベロと顔中を舐められては堪らず声を張り上げた。
「おい! この、やっ、めろ! ――セネカ!」
『黒い毛むくじゃら』をセブルスは『セネカ』と呼んだ。
『セネカ』と呼ばれて『黒い毛むくじゃら』はこれ以上は無いというほど盛んに尻尾を振って、喜びを表現した。
…なんだかややこしい。
――さて。言わずもがな、とは…周知の事実では無いのでそう表現するのは正しく無いが。
まあとにかく、この『毛むくじゃら』とは俺のことです。
艶やかな黒い毛並み。
犬よりも太い四肢と頭。
たてがみのようにも見える立派な胸毛をなびかせた、フェンリル狼。
それが…生前から変わらぬ、俺のアニメーガス。
体長は二メートルを優に超す魔法生物だ。
煙突飛行ネットワークを経由して帰宅して来なかった俺は、足の遅い二足歩行では無く、脚力にはいささか自信のあるアニメーガスとなって自宅へと帰還したのだった。
(それでも体力は平均以下である。これ重要)
抗議の声ではあったが久しぶりに名を呼ばれて興奮した俺は、ウォン! と喉を震わせて、子供の手ひらよりも大きく長い舌でセブルスの頬をべろりと舐め上げる。
すると、湿った鼻を押しつけられて迷惑そうに歪んでいた眉が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
長い鼻面で甘えるようにすりすりと耳元へこすり付けると、くすぐったい、と小さく洩らして首を竦める、彼。
「……まったく、毎度毎度お前は…。そう大きな身体で懐かれる此方の身にもなってみろ」
ぼやきながらもセブルスは、肩に圧し掛かる顎から背中までを毛づくようになでてくれる。
ふすふすと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎまくりたい衝動に駆られていた俺はそれで思いとどまり、…なんとか思いとどまって身体を離し、今は銀色に輝いている瞳で彼を見上げた。
明度の高い、満月のような虹彩だ。
それを美しいものに魅入られた、囚われたかのような熱っぽい眼差しで…セブルスは眼球を見下ろす。
身の危険を感じて俺は前脚で彼の足を軽く引っかいた。
…なんか、今にもくり抜いてコレクションに収めたい、とか、そんな風に思っていそうな…そういう眼だったぜ…。
怖いってセブルス。
これ、あくまでも俺だから。
そんなハッとして「そうだった」みたいな顔して、本性が俺だっていうことを忘れないでくれよな! な!
たしたしと尻尾で床を叩きながら、憐れっぽく俺は鳴いてみせた。
ヘタレた耳になんとも言えぬ哀愁を漂わせて、勘弁してくれと訴える。
「クゥーン…」
「…フッ、そうしてると本物の犬みたいだな、」
いやだから狼だって。
犬等と一緒にしないでくれよ。
こんなに大きくて立派な犬が居てたまるものか!
セブルスはこれから夕食の準備に取り掛かろうとしていたのか、シンプルな黒いエプロンを付け、後ろで髪を一括りにしていた。
日に焼けない青白いうなじが露わになっていて…実に美味そうである。
シャツと黒いスラックス姿というラフな格好は、どこぞのカッフェにいてもおかしくは無い感じだ。
テラスで読書をする姿はとても絵になるだろう。
クンクン鼻を鳴らして自分の周りをぐるぐると回り始めた俺を、セブルスは観察するような目付きで眺めていた。
何度か彼の前で転変して見せてはおいたが、それでも、やはり物珍しそうである。
アニメーガスの中でも、魔法生物の形をとる者は極稀だ。
(特に、俺のように大きさを変えることのできるタイプ等、前例は無いに等しい)
だから…彼の気持ちは俺にも良く分かる。
見た事もないような、本の中でしか出会えない希少な魔法生物をじっくり観察していると好奇心が刺激されるものだ。
思う存分触らせて、彼の知的好奇心を満足させてあげたい。
そういう気持ちはもちろんある。
しかし以前一度だけ。腹を遠慮なくわしわしと撫でられまくった憶えがあるので…あまり『俺』だという事を頭から吹き飛ばして触れられるのは、ちょっと、困る。
あれはかなり恥ずかしかったし、服従の姿勢を取らされると雄のシンボルが…たとえ獣の姿であれ…ジロジロと観察されれば恥ずかしく思う。
彼に他意は無いにせよ。
俺だけが意識しているという状態は、ほんと、困る。
「…いつまでそのままの姿でいるつもりだ、セネカ」
帰って来たのなら顔を見せろと彼は言いたいのだろう。
言われて俺もそうだったと思いだす。
匂いを嗅ぎたくてウロウロしている場合じゃなかったぜ。
目を閉じて、俺は意識を集中させた。
体毛に覆われた四肢をヒトの手足へ。
犬よりもなだらかな背をヒトの形に。
鋭い犬歯の覗く大きな口を、言葉を発する声帯を欲し、俺は脳に描く。
転変していく俺を捕らえる愛しい漆黒を意識しながら、見る間に形を変える、俺。
四つん這いの姿勢から立ち上がった俺は、いつもよりかなり高い位置からセブルスを見下ろした。
「おや? セブルス。ものすっごく間抜けな顔で見ているけど如何しましたかな?」
ぽかんと大口を開けている彼に、したり顔でささやく。
魔法省に赴いたままの姿で気障っぽく笑えば、セブルスは「なんだその姿は…」唖然と呟いてちょっと距離を置いた。
…すこし傷付きましたけど。ねえ。
「なんだとは心外だなセブルス。そういえばこの姿では初めまして、かな? 私は君の『叔父』であるマイクロフト・プリンス氏だ」
以後、よろしく。
にかっとさわやかに笑う長身の紳士かっこ笑いを、セブルスは上から下まで眺めて、また一歩後ずさった。
いや…だから傷付きますって。ねえ。
きもちわるいって、ちょっとおい。胸が抉られる発言をどうもありがとう。
高い身長に生前ベースの整った顔。
髪の長さや瞳、肌の色などはそのまま俺なのに。
未来のセブルスに合わせて全身真っ黒な衣装でキメた俺は、セブルスにはいささか不評のようだ。
この姿はミカサ達と出会った時から使用していた姿であり、ご婦人の受けも良いことから証言を頂く段階からあえて取っていただけなのだが…そうか…。
「セブ、僕、すっごく傷付いた」
「その顔でその言葉づかいはやめろ。気色悪い」
「アラスターみたいなこと言わないで!」
「僕とアイツを一緒にするな!」
嫌い成分が割り増しなムーディと一緒にされて彼はひどく気分を害したようだ。
「早くそれをなんとかしろ。見下ろされていると腹が立つ」
「うぅ…酷いッ。結構この薬作るの時間がかかるのに…手間暇惜しまず作った自信作なのに…!」
「そういう問題じゃない……が、どういう手順で作ったんだ、それ」
「調合レシピ的には老け薬と変身薬が六対四。撓りハマオギと二角獣の角、蛇亀の髭、仕上げにクサカゲロウじゃなくてアメクサカゲロウを使って、じっくりことこと一月半で一回分」
「とんだ大作じゃないか」
「その甲斐はあるよ。解除薬を飲むまで効果が持続する物だし」
「つまり…寝る時もそのままだったという訳か」
「? セブと別れていた間はずっとこの姿だったけど…それが?」
「…いや、」
相変わらず距離を保ったままのセブルスに、しょんぼりしながら首を傾ける。
このままじりじりと距離を詰めて抱きつこうとする俺を視線で牽制する彼は、頑なに接触を拒む。
見下ろされているというのがやっぱり一番嫌なのか?
でも俺としては折角普段とは違う体格差なので、このまま抱き上げてみたいと思うのだが…。
「もう! 抱っこさせてよー!」
「断る」
「何故にそこまで頑ななのさ、セブ。ほらほら。声だって手を加えてないんだよ?」
「だから何だというんだ」
「それに、今ならセブの事も持ち上げられると思うんだよね! 多分!」
「いや、無理だろ…って、おい!」
放せ! と身を捩るセブルスの身体を素早く抱え込んだ。
手足の長さで勝る今は、俺の勝利は確定です。
しかし。暴れる彼の身体を持ち上げた時点で、悲しいかな、俺の両腕は期待を裏切った。
いいや、むしろ予想通りでしたね! 情けない!
「……」
「……」
「……非力にも…程があるだろ…お前…」
「ですよねー…」
支えきれずに腕から滑り落とされたセブルスは、がっくりと項垂れた俺を流石に気の毒と思ったらしい。
膝を突いて俯く頭を宥めるように軽く叩かれた。嬉しい。あれ、何だか目の前が滲んできた。
「大きく…なりましたね…」
「そうしみじみと言うな。年寄り臭い」
「もう13歳だもんね……ねえ、僕が居ない間、さびしかった?」
「……今すぐ元に戻ったら答えてやる…」
呆れの混じった声にしぶしぶ彼を放すと、羽織っていたショートローブから薬瓶を取り出して一気に呷る。
すると、身体の奥がカッと燃え上がり、服の隙間から細い煙のような物がいぶり出された。
過呼吸に襲われたように吐息が乱れ、それが落ち付くと元の痩せっぽちな13歳の子供へと戻る。
合わなくなった衣服はぶかぶかで、なんとも不格好に成り果てていた。
袖は余り手指は隠れ、スラックスに至ってはベルトごとずり落ちたが、下着だけは何とか踏み留まってくれている。…セーフ。
ここでパンツレスとかマジで洒落にならん。
異常は無いだろうかと一応確認していた俺は、頬に伸びてきた暖かな手のひらにぐいっと引かれて前を向かされた。
「…セブ?」
「……」
「うん? どうしたの?」
両手で包み込まれ心地良さにうっとりと目を細めた。
耳の裏に添えられた指が擽るように動いて、ちょっとこそばゆい。
くすくす笑いながら身体をしならせる俺をセブルスは抱きしめた。何も語らず。ただ、俺を必要として。触れて確かめる。
まるで温かな湯に浸かった時のような安堵感だ。
こうして触れられるだけで帰って来たと思えるのだから、彼の存在、その大きさが分かる。
セブルスは、俺にとっての「家」だ。
「ただいま、セブ。凄くさびしかった」
「…先に言うな、馬鹿セネカ…」
「うん、ごめんね。…で?」
「……」
「答えてくれるんでしょ?」
すり寄りながら耳元でささやく。
湿った黒い瞳に、緩みきった俺の顔が映り込む。
「…………さびしくないわけ、無いだろ」
いつも一緒にいたのだから、と、ごにょごにょ尻すぼみに消えていく声に俺は満たされた。
伏せる睫毛の影に羞恥を落とす彼が愛しい。
顔を綻ばせた俺は素早く唇を押しつけた。
続けてやわらかな頬へも音をたてながらキスを贈っていると「しつこい」鼻の頭まで舐めそうな俺にセブルスが呆れる。
「やっぱり、セネカはセネカだな…」
「む、どういう意味?」
「…自分で考えろ」
「自分だけ先に年を取るような真似はするなって?」
「分かっているなら…聞くな」
「あははっ、うん、ごめんねー、ん」
「ッ、…だから、しつこいと!」
「ふはっ! だが断る!」
離れていた分はここで回収すべきか…。
今日に限ってそれほど抵抗もない彼を見ていると、もっと調子に乗りたくなる。
そう心密かに悩みながらも、自分のみっともない格好を思いだした俺はセブルスから潔く離れた。