どこか懐かしさを覚える先の見えない闇。
金縛りの呪いをかけられた愚か者のように、俺はただただ唖然としていた。
『お前は、俺様のモノだ』
どくん、と大きく鼓動が跳ねた。
耳に直接心臓を寄せられているみたいだ。
切迫した状況でもないのに早鐘を打つ音がうるさい。
今…聞き覚えのある声が聞こえた気がする…。
温度の無い、冷淡な、残酷で非情な声が。
嗜虐性さえ窺わせる。
深淵から這い上がり生者を引き摺りこもうとする亡者どもでさえ、こんな声を出しはしないだろう。
彼等は己を嘆き、唸るばかりだから。
「(アレらを召喚したとて、こんな鳥肌、立ったりしなかったぞ…)」
自分にとって余程不快で聞きたくもない声なのだろう。
思わず腕を撫でさすって、キツク瞼を閉ざした。
いつの間にか右腕に爪を突き立てながら。
こんなもの、見たくも、聞きたくもない。
――何故かそう思いながら必死にやり過ごす事ばかりを考えていた。どうして聞き覚えがあるのかも考えず。
普段の自分とは掛け離れた、恐れと敗北感に支配されていたとも気付かずに。
『何よりも呪わしいのは――俺自身、か』
…………
……
瞼の裏で不意に光を感じ、そろそろと目を開く。
そこには先程までの闇は跡形もなく、俯いた姿勢でカップを覗き込む自分が表面に映し出され、間抜けな顔で自分を見返していた。
自分の顔が確認出来たことにほっとしてしまう。
「(…いったい、今のは、何だったんだ)」
身体がとても重く感じられ、ズキズキとこめかみが疼き、指先から全身に至るまでひとり凍えていた。
まるで今まさにこの寒空の中から飛び込んできたみたいだ。
おかしい。こんな事、今までは無かった。
ぶるりと背筋を舐める悪寒に身を震わせ、ビリッと一瞬痺れに貫かれた右手をハッと見つめる。
黒い手袋に覆われたソレは、傾く身体の横で畏まって静かに控えていた。
まさか。まさか。
…いや、此処は唯一安全な場所と聞いた。
ヴォルデモートもこの城へは手を出せずに拱いているのだと。
告げられることを全て鵜呑みにしている訳じゃないが、この点に関してはダンブルドアの言を疑ってはいない。
彼は俺よりもあの男を良く御存じの様だからな…。
セブルスが弱っているから俺にもその影響が現れたのだろう。
精神的に弱まれば呪いにつけ込まれる。
このままでは新たな呪いも差し響くかもしれない。
そう結論付けた俺は、薬を飲まねば、と温くなった紅茶を流し込んでローブに手を入れようとした。
――しかし、直ぐ傍で空気が動き、視界の端に銀糸がさらりと流れ込んだ事で叶わずに終わる。
「どうした。気分でも悪いのか?」
声を掛けられて見上げると、其処にいたのはスリザリンの監督生であるルシウス・マルフォイ、その人だった。
マルフォイ家の名は俺も覚えていた。
純血魔法族の名家の中でも高い尊敬を勝ち得ているマルフォイ家。
ルシウスはその家の次期当主。
スリザリン寮内でも強い影響力を持つ…調べた限りでは、闇に一番近い青年だ。
血の気が薄い青白い肌に、尖った顎。
名家出身らしい気品の溢れる佇まい、威圧感。
先程見えた銀色は彼の肩から揺れ落ち、神経質そうな眉の下で細められた薄いグレーの瞳が俺を覗き込んでいた。
…つーか、思っていたよりもかなり顔が…近いんだが。
左側に立たれていた事に少しほっとするも、肩に手を置かれても可笑しくないほど、距離が近い。
ルシウスはのろりと顔を上げて答える様子の無い俺を訝ったのか、眉を寄せて再度口を開いた。
「答えなさい。…それとも、口を利けないほど気分が優れないのか」
「い、え…すみません、でした、マルフォイ先輩」
「はあ…ルシウスで良いと言っただろう、セネカ」
「はい、ルシウス先輩…ど、して僕の元へ、」
「君の具合が悪そうだと彼女から監督生である私に報告が来たのだよ」
「…彼女?」
一体誰の事だろう。リリーは…違うだろうな…。
こてんと首を傾げながら疑問に思っていると、ルシウスが顎で少し外れた席を指示した。
…ああ、さっき目が合った彼女だ。
俺が顔を向けると少女は少し躊躇ってからルシウスに向かってペコッと頭を下げていた。
たしか、彼女の名は…、
「Missハルトン」
「え、」
「ありがとうね」
「…う、うん…」
覚えていた名は正解だったようだ。
笑みを浮かべて小さく礼を言うと、少女は恥ずかしそうに俯いてしまったけど。
おお…ちょっと交流が出来た瞬間だな…。
身内の結束が固いスリザリンでも俺はきちんと親切にしてもらえるらしい。
少しはその一員として認めて頂けてるとの解釈でよろしいか?
「意外と罪作りだな」
「…は?」
「いや、独り言だ――それよりも、気分の方はどうなんだ」
「う、」
「正直に言いなさい。私たち監督生は皆、君のことを寮監であるスラグホーン教授から『気を配るように』と言われている。そう入寮の挨拶の際、私は君に言った筈だが」
「……すみません。少し眩暈と頭痛がして…今、薬を飲もうと思ったんですけど、」
どうやら寮の方へ忘れてきちゃったみたいなんです。
そう少量の嘘を交えて俺は報告をした。
本当はローブの中にちゃんと入っている。
毎日、夜寝る前にセブルスが「お前はうっかり忘れて行きそうだ」と言いながら用意してくれていたので――実際、そうしてくれていなければ忘れていただろう。…年々セブルスが母親の様な気遣いに磨きをかけている気がするな。
「セブルスは? 一緒に居ないとは珍しい」
「彼は今、医務室に居るんです。どうやら僕が風邪をうつしてしまったみたいで…大事を取って入院してます」
「だから今日に限って一人なのか」
「はい…」
「では送ろう」
「え、でも、」
「これも仕事だ。君が気にする様な事では無い」
そう言ったルシウスは有無を言わさぬ雰囲気を醸し出しながら、立てるか、と聞いて来た。
上に立つ者としての教育を受けた者の持つ、独特の威圧感。
自分の意思が通らぬ筈がないと思っている強い声だ。
俺にも身に覚えがあるので、内心では苦笑を禁じ得ない。
躊躇うように頷いてよろけながら立ち上がると、さり気なく手が差し出される。
やはりエスコートはお手の物なのだろう。
彼の周囲で女性の噂が絶えない理由は、整った顔立ちと家柄だけの所為では無いようだ。
女性の様な扱いを受けるのは本意では無いが、顔にも態度へも出すこと無く、ありがたく掴まって…歩きだすと肩を抱かれていた。
やべえ、すげえ逃げたい。
自分で仕向けた事とはいえ、他者とこんなに密着するのはとても不快だ。
しかも、あのマルフォイが、例の一年生を…という感じで視線も好奇も纏わり付いてくるものだから、具合の所為だけで無く気分も益々急降下していった。
具合の悪い生徒と、それを引率していく監督生という仮面を被りながら、居心地の悪くなった大広間を出て行く。
向かう先は我らがスリザリン寮。
石畳を二人分の足音で響かせながら階段を下りた。
今はまだ、お互いに無言だ。
一年生と六年生では弾む会話も望めないというよりも、どちらかと言えば探り合いながら言葉を選んでもいるように思えた。
「セネカ」
名を呼ばれて、俯いていた顔を上げる。
昼間でも薄暗い地下で仰いだルシウスの顔には影が下り、冷たいグレーの瞳が三日月のような弧を描いていた。
「もう此処には慣れたか」<
「ええ。授業も、寮生活も、始めは戸惑う事の方が多かったですが…僕にはセブルスがいますから。今はとても楽しいです」
「ふむ、そうか。…君の優秀さは私の耳にも届いている。なかなかどうして、一学年とは思えないほど素晴らしいレポートを毎回提出してくれる、と我らが寮監も自慢げに私へ話すよ」
「いえ、そんな…僕には勿体ないお言葉です」
「セネカ。君はもっと胸を張るべきだ。君が思うよりも周りからの評価は高いのだから。…勿論、私からもね」
「――ありがとうございます」
「セブルスと共に、これからもスリザリンの名に恥じない活躍を期待しよう」
「はい、ルシウス先輩」
「……あー、ところで、」
つらつらと淀みの無かった言葉がふいに止まる。
同じく歩みも止めたルシウスは、とても聞き辛いことを今から話す、というタメを十分に作ってから色の薄い唇を持ち上げた。
「セネカも、セブルスのように、あー、闇の魔術に詳しいと聞いたのだが――」
「え、はい。そうなりますか、ね……セブルスに勉強を一から教えたのも僕ですから」
「ほう」
「彼が知っている以上の事を僕が知識としても修めているのは、事実ですし」
僕って結構、欲張りですから。
全部知っておきたいし、知っていても損にはなりませんよね?
全ての魔術に精通する事が目的でもありますし…誰も知らない様な、手を出さない分野を極めるのって、カッコイイし、自分が特別になれるような気がして、僕は好きです。
にこっと笑顔を添えて無邪気に語る俺を、ルシウスはまじまじと見つめてから相好を崩した。
実に機嫌が好さそうである。
おいこら、ちったあ咎めるフリくらいしろよ。
めちゃくちゃ危険なお子様認定してらっしゃいますね?
そう望んだのは俺だけど…。
窓辺から身を乗り出しながら「おい、押すなよ? 押すなよ?!」って言う、実は友人からのツッコミ待ちな男子学生みたいな気分になってきたぜ。
本気出して押すとウケるんだよなアレ。
うっかり突き落としちゃったこともあるけど。
「まあこんな事を他の人に喋ってしまうのは…賢明な事では無い…とは思いますが。特に、今のようなご時勢では」
「私に話すのは良い、と?」
「え、駄目だったんですか?」
「…いや、」
俺に言われて否定もしなかった彼は少し考えるように顎へ手を添える。
未だに肩を掴まれていた俺はその間、じっと耐えた。
彼から香る香水の匂いが自分に移ってるんじゃないかって、心配なんかもしちゃったりしてさ。
セブルス以外の移り香を纏わせてなんていたくない。
言葉を待って見上げていた俺にルシウスは、そうだ、と考えが纏まったのか大仰な仕草で片腕を広げた。
それはそのまま、もう片方の肩へと…着地した。
「セネカ、クリスマス休暇に帰省の予定は?」
「え?」
「君達にその気があるのならば、マルフォイ家のクリスマスパーティーへの招待状を送りたいのだが」
おい、その気って、どの気だ。
まさか闇の魔法使いになる方面の気じゃないだろうな。
つーかもう君「まさか断るなんて言わないよな」なんて雰囲気出しながら言うんだね。分かってたけどさ。
傍から見たら脅しだっつーの。
いたいけな一年生に圧力かけんな。
そんなツッコミを心の中で入れながら、俺はルシウスの申し出を満面の笑みで快諾したのである。
ダンブルドアは兎も角、セブルスにはどう言い訳をしようかなー、なんて思いながらも。
「(……はっ! セブルスのドレスローブ姿が拝めるじゃねー…いやいや、ダメダメ。しっかりしろセネカ・スネイプ。セブルスを危険なとこに行かせる訳には……くっ……でも見たい…)」
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもありませんルシウス先輩」