分岐点 extra

荊棘


突然闇の中から放り出されたような感覚の後、弾かれたバネのように身体が浮かび上がった。
ミチミチと嫌な音を立てて背骨が撓り、胸が押し出され、頭もそれについて引き上げられる。
とても人が起きるという動作とは思えない、異様な光景。

まるで糸を結びつけられたマリオネットだ。
未熟な操り手によって不自然な動きを強いられた。
もしこの光景に偶然遭遇した者が居たらそう連想しただろう。
上体を起こし座る形になると、頭部がこと切れたようにだらりと力無く凭れるのも一層それに拍車を掛けた。

俯く表情を覆い隠すのは長い黒髪。
周囲の暗闇に同化してしまいそうな厚いカーテンが、息づかいに同調してゆらぐ。
明かりもない室内では夢の続きと現実の区別も付かなかった。

「――ぁ、」

乾いた唇から僅かな声が零れる。
暫く震わせることがなかったのか、声帯からは到底声とは呼べないものが絞り出されていた。
酷くかすれて、耳障りな音だ。
急に動かした為に乾燥していた皮膚が裂け、カラカラの咥内を血の味が潤した。
それでも思うようにいかない喉。
次第に当てた手が震え始め、指先から広がりをみせたソレは徐々に全身を呑みこんでいく。呼吸も共に、荒くなる。
力を込めれば喰い込む指が気管を圧迫した。

(喉を掻き毟って皮膚を剥いで、指で掻き出したら楽になれるのだろうか)

そう虚ろな頭の隅で俺は思う。
油断は確かにあった。
目前の幸せに目が眩み、まだ時間はあるのだという思い込みに囚われて目を逸らし、怠っていた。
成長した彼が見せた悲しげな瞳を忘れた訳ではないのに。
待ち受ける最悪を被るのが俺だということで、どこか安心を覚えてもいたのだ。彼の無事な様子にも。
その結果がこれか。
悔しさと忌々しさ、二度目の邂逅も屈辱を舐めた。
残忍な笑みを浮かべた男に抱いたのは明確な殺意。
出来る事ならあの場で殺めておきたかった。

(セブルスの存在をチラつかせて俺を脅そうというのか、あの男は…)

彼が何をした。何もしていない。
俺の慢心と想いの強さがセブルスを近い未来、危険に晒す確率を格段に跳ねあげた。


ああ、でも、何よりも呪わしいのは――俺自身、か。


喉から這い上がった両手が顔を覆うと、ぐしゃりと髪を乱暴に掴み、引き千切る勢いで掻き回しながら、天を仰いだ。
右腕に激痛が走る。
男に掛けられた磔の呪文と同等の痛みが、俺の全身を貫いていた。

「――――ぁ、ああああああっ!!」

真夜中の医務室に響くのは肺腑をえぐるような叫び声。
上げた顔は止めどなく溢れてくる生ぬるい液体と苦痛に濡れていた。


***


コンコン、
生徒が寝静まった深夜のスリザリン寮。
控え目なノックの音で僕は伏せていた顔を上げた。

「(…こんな夜中に、一体誰だ)」

頭から被っていた上掛けを取り払う。
ベッドを締め切っていたカーテンを開けた僕は、今度は急かす勢いのノックにドアへと近づいて行った。

ホグワーツへ来てから、セネカが目を覚まさなくなってしまった日から眠りの浅い日々が続いていた僕は、ベッドの上で膝を抱えたまま眠る事が多い。
熟睡するには不向きで、同じ体勢を取り続けていれば身体が痛くなる。

疲れは、日々溜まる一方だ。

それでも身体を横にすることが出来なくて、独りで使うベッドが広すぎて、夢を見るのが恐ろしくて…悶々としながら朝を迎える。
眠りに落ちてしまえば碌な夢を見ない事が分かりきっていた僕には、いつの間にかこの体勢が定着していた。
数日前、同室のトーマ・ランコーンに指摘されるまでは…カーテンさえ引いてしまえば同室の奴には気付かれないだろう。
そう思っていた。

「(悪循環だって、僕だってわかっている…)」

でも、素直に耳を傾けることは出来ない。


ちらりともう一つのベッドへ視線をやる。
起き出す気配は無い。
時間が時間だし、熟睡しているのかも知れない。
もしかしてだけど…僕が出るだろうと想定して無視を決め込んでいるのかも知れない。
…そうだったらムカつくな。
心に生まれた腹立ちを抱えたままノブを回す。
すると、そこに立っていた人物に僕は目を見開いた。

「スラグホーン、先生?」
「やあMr.スネイプ。寝ていた所をすまないね」
「いえ。眠りは浅い方なので…どうかされたんですか」

室内と寮の廊下を繋ぐドアを塞いでいたのは大きな影。
重そうな身体をゆらして待っていたのはスリザリンの寮監、ホラス・スラグホーン教授だった。
魔法薬学の教授である彼とは、授業と個人的に質問する以外で直接会う事はあまりない。
その為、今夜の様な不意打ちの訪問に僕は驚かされていた。

(初めての授業でセネカと沢山練習した調合を褒められたのは嬉しい。光栄だ。でも、大鍋の傍でウロウロされたり、授業後も長々と話しかけられるのは…。普段の僕なら優秀な者を贔屓するという教授に気に入られたって、喜んでる所なのに…今はまだ、素直に喜べない)

「Mr.スネイプ、直ぐに支度をして私に付いておいで」
「え、」
「…医務室で校長が君の事をお呼びなんだ」
「! …わかりました、直ぐに」

医務室と聞いて僕の顔色が変わった。
そこにはセネカが居る。
しかも呼んでいるのはマダム・ポンフリーではなくダンブルドアだ。
なにか、起きたのかも知れない。

僕は室内に引き返すと椅子にかけてあったローブを掴んで、縺れそうになる足を動かしながら教授の後に続いた。
閉じられたドアの向こうでじっと僕達の会話に耳を済ませていたランコーンに、最後まで気付くこと無く。
松明に照らされた石畳を踏みしめながら、僕は不安と恐れに騒ぐ心臓を無意識の内に押さえていた。




「セブルス」
「ダンブルドア、先生。何か、セネカに何かあったんですか」

先生の手前、走る事も出来ないもどかしさを抱えて辿りついた深夜の医務室にはダンブルドアの他に数人の先生方がいた。
寝間着にナイトガウンを羽織っただけの格好を見て、皆寝ている所を僕と同じで呼び出されたようだ。
何故、こんなに人を呼び集めたのか。
詳しい状況が分からなくて僕の焦りが募る。
珍しくダンブルドアの顔も厳しい。
長い髭をまとめたリボンを揺らしながら僕の傍に来たダンブルドアは、

「ちと、厄介な事になっている。…君の手がどうしても必要なのじゃよ」

と言って、僕を手招いた。


医務室の一番奥。
薄いブルーのコントラクトカーテンで周囲を仕切られたベッドは、普段生徒が間違って開けてしまわない様に魔法が掛っている。
通っている僕でさえマダムに断ってという厳重さ。
その傍で佇むマダム・ポンフリーは手に持つランタンの明かりに照らされて、顔色が青ざめているのが良く分かった。
締め切られていたカーテンは、今は開け放たれている。

「ああMr.スネイプ…」
「マダム、」

いつも毅然とした態度で医務室を取り仕切るマダムの様子と違う、不安と心配に曇った表情。
彼女もリリーと同じで通い続ける僕の心配もしてくれたひとだ。
厳しいけど本当は優しいひと。
マダムが僕らの為に一歩後退して道をあけてくれる。
すると、進み出たダンブルドアが杖の明かりを掲げ、ベッドの方を僕によく見える様にし、

「――っ!」

光に浮かび上がった光景に、僕は息を呑んだ。


セネカは目を覚ましていた。
意識を失って10日。
息をしているのか顔を見る度確認したくなるほど静かに眠り続け、食事を取ることも出来ず、衰弱していくばかりのセネカの様子に気を病んでいた僕にとって、これは喜ばしい事の筈だ。
でもその様子が…尋常じゃない。
右腕を抑えるようにベッドで蹲っているセネカは、包帯を自分で掻き毟ったのかぐちゃぐちゃで、解けかけてて、血が滲んでいる様に見えた。
直ぐに僕は発作だと思った。
入院をしていた時は何度もこれにセネカは苦しめられてきたから、良く覚えている。

でも、呪いの発作って…こんな酷いものだっただろうか?

僕の目はその光景に釘付けになって、駆け寄るべき足が床に縫い取られたように動けずに固まっていた。
サーっと血の気が引いて手足の感覚もない。
いつもだったら…絶対に飛び出して抱きしめていたと思う。
なのに、出来ずにいた。
勿論セネカの様子に怖くなったとか、そんな理由じゃない。

だって…、痙攣したように強く身体を震わせて、辛いのか長い髪を振って、上げたセネカの顔が――、

「(泣いて、る…)」

セネカは泣いていた。
僕に対して謝る事はあっても、弱音も涙も見せた事が無かったセネカ。
そのセネカが、泣いていた。
僕と同じ黒い瞳からぼろぼろと涙を流しながら、口を開いて何かを言っている。
叫んでいるのかも知れない。
僕の名を呼んでいるのかも知れない。
なのに…何も聞こえないんだ。

僕にセネカの声が届かない。
いったい、どうして…。


「恐らくセネカはフラッシュバックを起こしておる」

衝撃に震える僕に、ダンブルドアの冷静にも聞こえる声が聞こえた。
のろのろと頭を動かしたけど、その意味をうまく考えられなくて首を傾げる。

「フラッシュ、バック…?」
「……過去に磔の呪文を受けた者には、稀に起こる症状じゃよ。恐らく今彼は、過去に受けた痛みを鮮明に思い出しておる状態じゃろうと、わしは推測しておる」
「! …そんなの、ぼくは、きいてない…!」

磔の呪文。
その呪文の恐ろしさを知る大人達にも、波紋のように動揺が広がっていた。
人に対して使用すれば即、アズカバンで終身刑が科される、三つの許されざる呪文のうちの一つ。
闇の魔術の本を読んでいれば一度は必ず目にする呪文だ。
唱えられれば――死んだ方がましだと思えるほどの苦痛を受ける。そう書いてあった。
そんなのを掛けられていたなんてっ。
当時、セネカはまだ五歳だったはずなのに!
初めて耳にする事実に、思わず僕はダンブルドアに向かって叫んでいた。

「黙っておってすまなかった。…じゃが、セネカ自身が君に知られる事を望んでおらんかったのじゃよ」

セブルス、その心を察しておあげ。
諭すようなダンブルドアの言葉に僕は唇を噛みしめる。
なんでそんな大事な事を僕に隠そうとするんだ…。
また知らされなかったことが悲しい。悔しい。
そんなに僕は頼りにならないのか!
そう思うけど、セネカの考えも僕にはよく分かった。

「(これ以上…僕の心配を増やすのがいやだったんだ)」

とてもセネカらしい。
けど、ほんとうにセネカは馬鹿だ。
なんで時々こんなに馬鹿なことを考えるんだろう。
僕は他人から知らされるよりもセネカの口から聞きたかった。
…元気になったら、絶対、問い詰めてやる。


ショックで俯く僕の肩が段々と怒りで震え始めた。
これは、この状況に対して、だ。

「…苦しんでいる理由が分かるんだったら、どうして…セネカを治療してあげてないんですか。泣いてるのに。あんなに、苦しんでるのに…っ!」
「Mr.スネイプ。私達もそうしてあげたいのです。ですが…」
「わしらでは彼に近づく事は出来なかったのじゃ」
「どういうことですか…」

疑問に眉を寄せた僕にダンブルドアは、見せた方が理解も早いと、前に進み出て徐に左手をかざした。
周囲の先生方がその行動に待ったをかけようとする。
けど、ダンブルドアは首を振るだけで止まらず、ベッドの方へと進む。
すると、

――バチィッ、
彼の手が見えない何かに弾かれ、静電気が起きたような光が一瞬、医務室内を照らした。
慌てて駆け寄ったマダム・ポンフリーがダンブルドアの手を診ようとしたけど、彼はそれを制し僕の方へ掲げて見せ、半月眼鏡の奥の瞳を悲しげに細めた。

「彼はわしらの事を拒んでおる。これがその証拠じゃ」

火傷を負った手を反対の手で覆ったダンブルドは、最初に言ったことをまた繰り返した。

「セブルス。君の手が必要じゃ。彼が――セネカが受け入れられるのは、きっと君だけじゃとわしは思う」
「アルバス! そんな確証の無い事で生徒を危険な目に合わせるおつもりですか!」
「ミネルバ、彼が来るまでにわしらは可能な限りの手を尽くした。しかし叶わなかった事実は受け入れねばならぬ。…無理に破ればセネカの心が壊れる危険性がある限り、彼を頼る他ないのじゃよ」
「…ですが、」
「セブルスは彼の家族じゃ。それも、心を許せる唯一の……セブルス、君はどう思うかね。どうしたい?」
「…僕は、」

僕は一度言いかけて止め、真っ直ぐにダンブルドアを見つめ返す。
さっきの光景を見せられても僕の心に恐怖は無かった。
むしろ、セネカの拒絶は当然とさえ思っている。
いつも笑ってるけど、自分の断り無く踏み込む者に手厳しいんだ。誰にだってそういう一面はあると思うけど、セネカはその一線を常に守る。

「(セネカが僕を傷つける? 拒む? そんなこと、ありえないじゃないか)」

僕が小さく頷くと、キラキラしたブルーの瞳が柔らかく笑む。
行っておあげ。そう言われた気がした。
…少しだけ、いつもの悪戯っぽい目をする彼が戻った気がする。
そのまま僕が何の躊躇いもなくベッドの方へ歩いて行くのに、引き留めようとする声が聞こえた。
でも僕は、止まらない。


――境界線がどこなのかは、分からなかった。



「……っ、あ、ぅ、あああ、ぐっ…!」
「セネカ!」

突然音を取り戻したようにセネカの鳴き声が聞こえ、僕は弾かれるように駆け寄っていた。
とても苦しいんだろう。自分の身を守るよう丸めた背に手を添えると、触れる寸前でビクッと激しく痙攣されて僕の顔が歪む。
くっ…僕が怯んで、どうする…!
乱れたシーツに顔を埋めて、荒い呼吸を続けるセネカ。
零れる涙を拭おうと咄嗟に頬へ伸ばした僕の手が、乾いた音と共に弾かれていた。

「い、…やだ、俺に、ふれる、な…!」
「セネカ! 僕だ!」
「あああっ! ぐ、ぅ、はっ、これ以上、…ッ見るな!」
「…っ!」

顔を上げたセネカは僕の事を全く見ていない。
真っ赤に腫らした瞳は瞳孔が開き切っていて、闇に向かって必死に叫ぶ。
その姿は、何かに抗っている様にも見えた。
自分に向けられた言葉では無いにせよ、僕は言われた事にショックを受けていた。
…っ、落ち付け、今は正気じゃないんだ。
直ぐにそれどころでは無い状況を思い出し、泣きそうになりながらも両肩を掴むと僕の方へと無理やり顔を向けさせた。

「セネカ! 僕だ、セブルスだ!」
「――ぃ、や、セブ、ごめん、せぶ、俺の、所為で」
「何で謝ってるんだ! そんなこと求めてはいないだろ!」
「ごめん、セブ、」


愛してる


「――――ッ! 分かったから、さっさと僕を見ろ! セネカ!」

こんな時まで何を言うんだお前は! と、恥ずかしさと怒りが込み上げた僕は、自分でもこんな大声が出るのかって吃驚するぐらい叫んでいた。
その効果か、声がやっと届いたのか。
呻くのも叫ぶのもピタリと止まっていた。
ゆっくりと、ガラスのようだった瞳に光が戻る。
睫毛を震わせてパチパチと瞬きをしたセネカは、一瞬、嬉しそうに笑った後、そのまま後ろに倒れていく。
慌てて抱きしめて落ちる心配も無くなり、僕の口からは安堵の息が漏れていた。
身体の重さも、温かさも、匂いも、全てが僕の腕の中にある安心感。

「セブルス」
「…ダンブルドア」

何だか一気に疲労が襲ってきて、いつの間にか傍に立っていたダンブルドアを、ここが学校だという事も忘れてついそう呼んでいた。
咎める声が聞こえなかったのは僕の声がとても小さかったからか。
…一体いつ近づける様に…声が聞こえる様になってたんだ。
さっきの僕の……聞かれてなかったと、思いたい。
マダム・ポンフリーがセネカの容態を確認する傍で、そんなことを思う。

深く考えなければ僕はとても普通な事を言った筈なんだ。
なのに、なんで僕までこんなに恥ずかしいことを言った気に…!


これから先は僕に出来る事は無い。
だから邪魔にならない様にベッドの脇でじっと見ていた。
そんな僕の肩をぽんっと、軽い調子で叩くひとが…いた。
……誰、なんて、聞くまでもないじゃないか。

「セブルス」
「…なんですか、その笑顔は」

にこにこ…いや、ニヤニヤと調子を取り戻した笑顔を見せたダンブルドアに、僕は仏頂面を返して、またセネカの方へと視線を戻した。



「なあ、いま、…おまえはどんな夢をみているん、だ?」

安らかな顔を取り戻し、眠るセネカに語りかける。
今夜は付いていてあげたいとマダムに頼んだ僕は、再び真新しい包帯を巻かれた右手を握りながら、その日を終えた。

***

荊棘(けいきょく)

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