春時雨



空を覆う暗雲は、朝からずっとしとしとと霧雨を降らせ続けている。
下級生はもちろんのこと、今日ばかりはあの鍛錬馬鹿達もやる気が失せたのか、外からは誰の声も聞こえない。
雨の日特有の寂寥感も無く、誰もいないんじゃないかと錯覚しそうなほど静かな空間。
きちんと閉めていても隙間から流れてくる、ひんやりとした清涼な空気が心地良い。

「こんだけ静かだと、二人っきりな気がしてこねえ?」
「全くしませんけど」

ばっさり切り捨てた後輩はこちらを見向きもせず、手元の本に没頭している。返却期限が近いらしい。
俺は持ち込んだ委員会の作業もとうに終わらせてしまって暇なので、ごろごろとだらけながら綺麗な姿勢で座る後輩の髪を弄んでいる。
寝転んでいても引っ張ってしまわない程度には、こいつの髪は長い。

「雨止みそうにねえなあ」
「今日は夜中まで降りますよ」
「マジで。部屋戻りたくねえ」
「え、嫌です帰ってください」

本気で嫌そうな声を出す後輩の背中を殴る。
俺はよく後輩に甘いと言われるけれど、何故かこの後輩にだけは優しくしようとか、気にかけようとか、そんなことは微塵も感じたことがない。
他の五年は普通に可愛いと思うのだけど。
しかしこいつもこいつで他の目上と俺に対する態度が違うので、お互い様だと思う。

「なんでお前はこう可愛げがないのかねえ……」
「先輩だって甘くないじゃないですか」
「そりゃあ、お前が可愛くないからだろ」
「甘やかしてくれるなら可愛くなりますけど?」
「じゃあ一生無理だな。お前は可愛くなれない」

くるくると髪を指に巻きつけてそう言うと、後輩は笑うように少し息を漏らした。
この、密やかな、溶けるような笑い方は割と好きだ。こいつらしいと思う。
他の奴らの前では見せない笑み。
俺だけが知っていることの一つ。

「腹減ったな」
「なんか作ってくればいいじゃないですか」
「めんどくさいだろ」
「別に」
「じゃあお前作れよ」
「嫌ですよ」

起き上がって、後輩の髪紐を解く。
癖のある割に指通りのいい髪はさらさらと指の間を零れ落ちる。
昔は手入れなど碌にしていなかったのに、四年の髪結いの影響だろうか。
あと、豆腐にもそんな効果があったような気がする。

「あ、豆腐」
「へ?」
「豆腐持ってねえの?」
「……なんですか突然」
「お前懐に高野豆腐忍ばせてたじゃん、運動会の時」
「……ああ」

納得したように頷いた後輩は、くるりと手の平を返して高野豆腐を取り出した。
本当にいつも持ち歩いてんのかこいつは、と笑いつつ受け取る。
さく、と軽やかな音を立てる高野豆腐もこいつの手作りらしい。
味なんてないはずなのに美味しいと思ってしまったのは手作り効果か、どうなのか。

「お前、豆腐屋になれば?」
「何言ってんですか」
「いや、割と真面目に」
「はあ?」

肩口に顎を乗せると、俺を見たらしく解いたままの髪が揺れた。
寝転んだ時に解いたままの自分の髪と混ざって、頬に当たってくすぐったい。

「豆腐屋兼情報屋とかどうよ」
「情報屋?」
「そ。学園の卒業生とかが買いに来たりして」
「はあ」
「学園出身者には割引な」
「へえ」
「で、時々プチ同窓会状態になるんだ」
「先輩方が集まるとうるさそうですね」
「お前らもな」

笑いながら腹に手を回すと、後輩は何も言わずに身体を預けてきた。
少し冷えていたらしい、後輩の体温が心地良かった。
質の良い髪に顔をうずめる。

「……あー、お前といると眠くなる」
「寝ればいいじゃないですか」
「んー……」
「ちょっと、寝るならどいてください」
「お前ほんと可愛くないなあ」
「何を今更」

肩口から覗き込むと、本は残り数ページだった。
会話しながらもしっかり読めていたらしい。
こいつは意外と器用だし、要領がいい。
本当に眠くなってきたなあ、と思いながらそのまま肩に顎を乗せて目を閉じる。
暗闇の中で、沢山の音が聞こえてくる。
さあさあと囁くような雨の音。
遠くで蛙が嬉しそうに鳴く音。
時々ページをめくる音。
微かに聞こえる呼吸の音。
静かな時間が流れていく。
こいつといる時だけの、静かな時間。
こういう時間は嫌いじゃない。

「……終わった?」
「あと少し」

後輩の手の中の本は最後のページを開いている。
静かに待っていると、暫くして、ぱたんと本を閉じる音。
そして、充足感に満ちた後輩の溜息。

「終わったか」
「はい」
「じゃあ、寝よう」
「は……ちょ、このまま?」
「たまにはいいだろ」

後輩を腕に閉じ込めたまま寝転がる。
一瞬驚いた後輩だったが、すぐに諦めてもぞもぞと寝やすい体勢を探し始めた。
少しだけ頭の位置が下がったと思ったら、ぐるりと向きを変えて。

「……珍しく甘えただな」
「先輩が珍しく優しいので」

自然と頭の下に移動していた俺の腕をちらりと見て、後輩は俺の背中に腕を回す。
ぴたりとくっついた体温に、本格的に意識が溶けていく。

「……おやすみ」
「おやすみなさい」

微かに笑ったような後輩の声は、外から聞こえる雨音と同じように優しかった。









――
名前を出さない、食満先輩から会話を始める、なんの内容もない話、という目標で書いてみた。
この二人、こういうだらだらした空気似合うなあ。好き。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


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